Correggere

彼の手が好きだ。
ごつごつとしていて、握ると大きさがよくわかる。涼しげな顔に似合わず、少し乾燥してかさついている、「男の人」の手だ。そのかわり爪の先は丁寧に丸く切りそろえられている。そして手の甲には、子供の頃に漁につかう大きな釣り針で引っ掛けてしまってできたという傷がうっすらと茶色く残っているのだ。
いつか写真で見せてもらった昔の彼、その奥深くどこまでも沈み込んでいけそうな青をたたえた、落ち着つきはらった目をした小さなブローノがこんな痕が残る怪我にみまわれたのだと思うとたまらなくなって、……そのうち、その痕を撫でるのがわたしのくせになった。ふたりでくっついているときのわたしの手は彼の手に掴まれているか、彼の傷痕を撫でているか、だった。
撫でながらいつも思う、あの高貴さすら感じさせる彼の手のひらが、わたしなんかの手のひらの中にあることが、ひどく不思議なことだと。

きょう彼の部屋を訪ねた時もドアを開ければその大好きな手が迎え入れてくれるかと思っていたけれど、その予想ははずれ、元気よく開けた部屋の中はからっぽだった。
今晩部屋に行くなんて事前に伝えてもいなかったのに、全部わかってたみたいに律儀に残された「遅くなるすまない」という走り書きの端には、冷蔵庫の中のチーズをつまんでおけとまで指令が書かれていた。
言われた通り素直にチーズを口に放り込みながら、珍しく帰りの遅い彼を、わたしはひとり窓の外の夜が深まっていくのを眺めながら待っている。

闇の中ひとりでいると、……思考は妙に広がってしまう。

たとえば彼の仕事のことを考えると、……まだうまく言葉にできない。こんな町だから、平和に暮らしたいという願いを持つときに、誰も傷つけず、自分も傷付かずにいることがどんなに夢のようなことなのかくらいわかっている。
それでも、……普段は見ないことにしている、彼が人から殴られ、殴り、それで身体を張って街を、仲間を守ろうとしているということ、それと同時に不可避に発生する暴力のことを考えないではいられない。
大好きな手のひら、わたしの頭を撫でて優しく頬に触れる手のひらと、誰かを殴るかもしれない手のひらが繋がっている。
でもわたしは世界の平和を祈る聖女ではない、彼が殴られるくらいなら、いっそ、……そんなことを思ってしまう。

ただ、彼の行動には全て美学と高貴さ、揺るがない信念があることは、わたしにだってわかる。……ああ、だからわたしは、怖くないのかもしれない。
その手が為すことを、わたしは信じている。

彼はわたしの前で仕事の話はしない。その手が何をしているのかを決して見せない。
それを変えてくれとはいわないけれど、……受け止められない人間じゃないんだと伝えてあげたい。

考えれば考えるほど聞きたいこと話したいことは山ほど出てくるのに、ワインとチーズだけでひとりぼっちの部屋の寂しさに対抗しようとして、考えなしにぽいぽいと良い香りの塊を口の中に放り込んでいれば、いつのまにか眠気がひどく強くなってくる。ソファで溶けるようにうたたねをむさぼっていれば、いつしか遠くでドアの音が聞こえて、わたしは半分寝ぼけたままがばりと身体を持ちあげる。

「ブチャラティさん、おかえり……」
寝起きの輪郭のない声でのあいさつに、笑った息の音がする。わたしは彼の、ひそめられて夜にとけていくような優しいその音が、好きだった。

「ブローノ、だろ」
寝ぼけたわたしが思わず呼び慣れた方の名で呼んでしまったことを咎める言葉とともに、慣れた手のひらの感覚が頬に触れる。軽く顎を持ち上げられて、寝起きのふにゃふにゃした輪郭のままのくちびるにキスが落ちてくる。鼻腔に上品で重いアンバーと、彼の汗とが混ざった、わたしの大好きな香りが飛び込んできた。
その香りに覚醒を促されながら彼のくちびるをかるく食めば、それがスイッチだった。優しく髪を撫でていた手のひらが、そっと私の首筋をたどり始める。

「……いいか?」
吐息まじりに問われた言葉に小さく頷くと、さらに深く口付けられる。
言葉が遠ざかり、かわりに眠気で頼りなくなった体の輪郭を思い出させられるように触れられ、抱きしめられる。

……体に触れられることで言えなくなる言葉が、わたしの中に澱のように積み重なっていくような感覚になる。
キスもそれ以上も彼とのふれあいは全て好きだけど、今日は伝えたい言葉があるのに、聞きたい言葉があるのに、そう思うと、

(……さみしい……)

私が少しでもそんなマイナスな気持ちを抱くだけで、彼はすぐに気づいてしまう。本当にあまりにもすぐに、だから、いつも驚いてしまうくらいだった。今日だって、さっきまで服の中に入ろうとしていたはずの手のひらが気づけばまた私の頬を撫でていて、海の色をした瞳がこちらをまっすぐ見つめて言った。

「今日は待たせて、すまなかった」
「……違うの、ブローノ。それで寂しいわけじゃなくて……」
「……さみしかったのか?」

怒っているのかと思った、そう呟いたブローノは、さっきまでの官能的な手つきなんか一瞬で忘れたみたいにわたしをぎゅっと強く抱きしめると、後頭部を何度も撫でてくれる。そのやり方があんまりにも優しくて、……彼がさみしいと思ったときに、きっと彼にこうしてくれたのだろうブローノの家族のことをふと思ってしまった。

私が言葉に出せず、ただ態度ににじませた思いを彼はすくい上げてくれるけど、その繊細さがあっても私の心まで覗けているわけではないのだと、そんな当たり前のことを私は忘れていたのだ。抱きしめられたまま、彼にそっと囁く。

「……まずは、もう一杯だけ付き合って。それから、……ふたりでベッドにいきたい」
「ああ、わかった。…………なあ、……急ぎ、すぎたか?」

彼が囁き返した声ににじむ、少しの後悔と不安を感じる。いじらしくて愛おしくて、思わず抱きしめ返した腕に力がこもる。

「ちがうの、今日はあなたと話がしたいなって、ずっと思って待ってたから……」
「……わかった。……チーズは残っているか?」
「うーん……」

どちらからともなくそっと体を離して、ふたりしてキッチンへ向かう。
冷蔵庫を開けたブローノが、その中をきょろきょろと見渡してからつぶやく。

「つまんでおけとは言ったが、結構な量はあっただろ」
「つまめって指令があったからそれに全力を尽くしたわけであります、サー」

「そうだ、……その通りだな、よくできた部下だ」そう言って彼は笑う。

#jo夢版ワンドロワンライ お題「言外」で参加作品

2020-09-06