その名は希望 -6-

 顔にかかる朝日のまぶしさで、目が覚めた。

 強い日差しに顔をしかめながら、明るさに目をなじませるように少しずつまぶたをこじ開けていく。そうして見えてきたあたりに広がっていたのは、見慣れない部屋の風景だった。……一瞬、理解に時間がかかってから思い出す。そうだ、ここはオレの寝室じゃあない。

 抱きしめて眠ったはずのあいつは、いつのまにか腕の中からいなくなっている。ベッドに寝転んだままくるりと身体を反転させれば、ベッドの反対側のはじで穏やかに寝息を立てる姿があった。……これはどっちの寝相が悪かったんだろうか? 
 起こしてしまうかもしれない、そんなことを考えつつも我慢はできず、オレは眠ったままの彼女に手を伸ばして、再び腕の中におさめた。
 人の腕に抱かれながら、それに気づく様子がないのに安堵する。
 早朝の空気は澄んでいて、触れた感触は冷たい。それが日差しにあたためられていくのを、肌で感じていた。

 彼女は、何もかもがはじめてだと言ったのだ。とにかく傷つけないように、ひとつひとつ進めていくたびに気遣えば気丈に振る舞い、挿入することが全てじゃないと、一度に全部を無理に進める必要もないのだと何度か言ってみたものの、……思っていた以上に彼女は頑固だった。
 頑固だったし、それは「いつか」が来なくなる可能性がゼロじゃないことを知っていたからこそだった。
 オレたちは同じだった、永遠なんてものが存在しないことを知っている。日常は突然崩壊するものだとわかっていて、……そしてオレが勝手な心配をしていたよりも、彼女も覚悟をした上で「ブローノ・ブチャラティ」を愛しているのだと知ったのだ。

 たまらなくなって、さらに腕に力を込める。抱きしめれば簡単に腕が回りきる小さな身体、前髪のあたりに顔を埋める。高い体温と淡い汗のにおいがした。ゆるゆるとその髪を片手で撫でる。

 ……オレが発した言葉で「生きてこられた」、……あの時、世界の終わりみたいな顔していたあんなボロボロのちびだったやつが、必死の顔で、オレにそう言ったのだ。改めてその事実を噛みしめる。

 オレは「父を守る」、その思いを覚悟に変えて、それだけを暗い夜の海を渡るための目印にして、なんとか生きてきたのだ。
 だが、その海をさまようオレを導く灯台は、光を失った。辿り着くべき岸の場所を見失って、そこから小さなボートで暗い海を漂うだけの人生がはじまったのだ。

 ……ギャングなんて生き方を選んだ時点で、まともに人生を終えられるとも思っていない。野垂れ死ぬのも当然だと思っていた。灯台の光を見失ったオレは、すべてを波に委ねるだけの、ただのボート乗りになっただけだと。……むしろそれまで目指すべき光が見えていたこと自体が、ラッキーだったのだ。生まれてから一度も〝灯台の光〟に出会うことすらない人生を生きる人間の方が、めちゃくちゃに多いってことをオレはこの仕事をしているうちに知ったのだ。
 あの唯一の光をなくしてから、もう自分の人生からは、失うことだけが約束されているものだと思っていた。永遠なんてものはなく、大切なものはすべてこの手をすり抜けていく。せめていま手の中にのこったわずかなものに対しては、誠実であり続けられるように。そんな刹那的な思考しか、できなくなっていた。

 だが、……こいつのあまりにも素直な言葉と思いは、オレに気づかせたのだ。オレ自身が、誰かの「灯台」になれるということを。……それは、他人の人生に意味を持たせるってことだ。それは並なことじゃあない。そのとんでもないことに気付かせたのが、こいつなのだ。
 彼女はオレなんかを希望として生きてきたと言ったのだ。そしていま、腕の中で安心しきって眠り、いままで見たこともないようなふにゃふにゃした寝顔をさらしている。思わず触れてみれば、思った通り柔らかい。こいつはこいつなりに、必死に気を張って生きてきたんだろう。それが——オレの腕の中でなら、こんな顔して眠れるのだ。

 抱きしめる腕に、さらに力がこもる。
 誰かの生きる意味になるってのは、恐ろしいことだ、……でもそれ以上に、そう言われた方まで、生きる気力を湧かせるものだと実感した。あの時のこいつの言葉は、態度は、……オレ自身を勇気付け、まるで自分が「意味のある」存在なんじゃないかと思わせた。

 ……オレは、いつから見落としていたのだろう。
 誰かに助けの手を差し伸べるのも、それが当たり前だからというだけだった。なんの特別なこともなく、それは手を差し伸べられた側もそう思っているものだと、そう思い込んでいた。……助けた相手から向けられる視線の優しさに、きっと傲慢なくらい、無自覚に生きていた。
 そして仲間たちから発せられる、それに似た尊い言葉すら、今までのオレはうまく受け取れていなかったのかもしれない。
 オレ自身がだれかの希望になれるなんて、そんな大層なこと、思いつきもしなかったのだ。

 そんなことを考えながら、いまだ眠ったままの身体を抱きしめてその首元に顔を寄せる、……あたたかい。
 傲慢な言い方だと理解した上であえて呼ぼう、……これは、オレが守れたあたたかさなのだと。失うばかりの人生になるものだと思っていたオレが生み出せたものなのだと。それはささやかかもしれないが、きっとオレの世界を変える気付きだった。

 光の中で目を閉じる。それだけで、腕の中のあたたかさに誘われるがまま眠気が訪れる。
 半分夢に足を突っ込んだ頭に思い浮かぶイメージの中、灯台にはもう一度光が灯る。オレはボート乗りとしてそれを見ているのではなく、……灯台守として、巨大なライトのスイッチを入れていた。

 幸福に満ちたベッドの中、安心感からかうとうとと、もう一度深く眠りに落ちようとするさなか、腕の中に動きを感じる。寝返りでもうっているのだろうとそのまま抱きしめていたら、そうではなかったらしい。指がオレの頬に触れるのを感じて、無理やりまぶたをこじ開ける。

「……おはよう、ブローノ」

 目を開けた先に広がる世界は、強いオレンジ色の光に照らされていた。部屋に満ちた光の中、目の前では彼女がまだ半分寝ぼけたままの、輪郭のさだかではないふにゃふにゃした顔で笑う。その頬にオレも手を伸ばし、返事もする前にキスを落とした。

 部屋の全てが、窓から差し込む朝日でどこもかしこもが光っている。ひどく眩しくて目が焼ける。
 このあたたかさに、オレはただ理解する。これこそが——。
 

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