Day 1
ソファに墜落するように寝落ちたあいつを見届けた、次の日の朝。
リビングに向かってまずは、ソファに変わらず彼女の姿があったことに安堵する。……以前同じように寝床を提供したこどもが、翌日にはいなくなっていたことがある。ギャングの部屋から何かを持ち出すほど間抜けではなかったが、結局オレに心を許せるわけでもなかったのだろう。その後、よく似た子供がぼろぼろになって路地を歩いているのを見かけて追いかけたが、……そいつはオレを拒むように姿を消した。せめて自分の手の届く範囲の人間を助けたいという願いだって、簡単じゃあない。
だからこそ、その顔に疲れがにじんでいたとしても、ソファから振り返ってこちらを見て淡く微笑むこいつの姿に安堵するのだ。
「……おはよう、ブチャラティ」
「……ああ。メシ、食うだろ。そこに座ってろ」
ダイニングの椅子を指差して見せてから、食品棚を覗き込む。メシを食わせると言ったもののろくに備えをしている実感はなく、いつ買ったか定かではないコルネットの袋の賞味期限をながめて、……まあ食えるだろう。あとはいくつかビスコッティでもあけてエスプレッソをいれればそれでいい。
そこまで考えてからふと気付く、おまえ食べらんないものはねえのか、アレルギーとか、というか食欲がそもそもあんのか、呟きながら振り返れば、予想に反して、ばちっと音もしそうな勢いで彼女と目が合った。……それにあからさまに動揺しているあいつはどうやら、ずっとオレの背中を目で追っていたようだった。挙動不審になったあいつを見て思わず少し笑ってから、続ける。
「……で、食えないもんは?」
「あの、……ない!」
「じゃあ待ってろ」
言って、簡単な朝食の準備を進める。
そのあいだにあったのはオレが袋を開ける音と、食器が触れ合う音、窓の外から聞こえてくる遠い誰かの会話の声と、鳥の声、聞こえるのはそれくらいで、部屋の中は静まり返っていた。……どこか、ぎこちない朝だった。どこに何をどうはめたらいいか、お互いにわからなくなっているような。準備している最中あいつはずっと大人しくしながらオレの背中を見つめているのか、たえず視線を感じたが、それに悪い気はしなかった。 ただ、こいつはこんなに静かだったのか、……そんなことをはじめて思う。
トースターであたためたコルネットに、せめて今日くらいはと袋から出して皿の上にあけたビスコッティ、そしてマキネッタで入れたエスプレッソ。目の前に並べられた食べ物にこいつがゆっくりと手をつけはじめるのを見てから、オレも同じようにコルネットに手を伸ばす。普段の朝はコーヒーだけで済ますことが多いから、朝に何か口に入れるのが久しぶりだった。
かろうじて常備されていた甘いコルネットは、オレ自身の好みで選んでいるわけじゃない。一緒に暮らしていた頃、母が好んで買って、家にいつだって置いてくれていたのと同じ種類のものを、何も考えずに大人になっても買っているだけだった。
エスプレッソに口をつけ、もそもそと口にパンを詰め込もうとするあいつを見つめながら、静かに囁くように言う。
「……しばらくは、ゆっくり家にいろ。……そして悪いが出かけたいというのならオレが帰ってきてからだ。まだ何に巻き込まれるかわかったもんじゃあねえ、だがわざわざオレの家にまでやってくるような気合いの入った馬鹿はいないはずだ」
「……わかった」
「部屋の中の本も新聞も読んでいい、レコードも自由に聞いたってかまわない。好きに過ごしててくれ。……荷物を取りに行くなら……、……行きたいか?」
決していい思い出が残っているわけじゃないだろうが、何か大切なものだってあるはずだ。……もっとも、逃げ出したこいつの私物がきちんとそのまま残っているかどうかは怪しいところだが、それは口にせずにまずは問う。
オレの前で、少女はこちらを見ないままきょろきょろと目だけを彷徨わせる。根気強くあいつからの返事を待っていれば、絞り出されたのは「……わからない、」という一言だった。
「……なら、まあ答えを出すのは今じゃなくていい。もし取りに行くと決めたなら、行くのはとにかくオレと一緒のときだけだ」
それだけ言って、小さなビスケットを一口で飲み込む。咀嚼している最中のオレを、目の前であいつはひどく不思議なものを見るような顔でこちらを見つめていた。
「……なんだ?」
「……わからない、って答えでも……、怒らないの、ブチャラティ」
「……? なぜ怒る必要があるんだ? お前は『わからない』んだろ。ならそれは仕方ねえじゃあねえか。……どっちにするのか決めるのは、いつか『わかった』ときでいい」
「……」
あいつはずいぶん神妙な顔で、何か言いたげにこちらを見つめてくる。オレはその意図を汲み取れないまま、もくもくと目の前の食べ物を口に放り込んでいく。
「……どうした?」
「あ、……えーと、……あ! 口が大きくて、食べてるのを見てるのが楽しいなって」
「……生まれて初めて言われたぞ、んなこと……。……食いたくなければ別だが、お前も食え」
ぐいぐいと皿をあいつの方に寄せつつ、ふとあいつに言われた口元に片手が伸びる。特別気にしたことはなかったが、……そうなのか?
そうこう考えているうちに、寄せられた皿に慌てたのかあいつはビスコッティにむせている。……慌てさせたのはオレだ。
「……悪い。遠慮するなってだけで、急ぐ必要はねえよ」
言ってやれば、あいつはぎこちなく笑う。……昨晩よりかはマシとはいえ、町で会っていた時の人懐っこい笑顔からはずいぶん遠い笑みを見て、喉の奥がひきつる感覚があった。そうなってから、ようやく気づく。
(……ああ、こいつに、あの時みてえに笑ってほしいと思ってんのか)
喉をひきつらせ心臓のあたりを締め付ける、体に現れたその感覚は、寂しさの顕現だと理解していた。……ただ、今はまだ、きっと何をしてやることもできない。せいぜい、安全な場所を提供してこいつが心の平穏を取り戻すのを、支えてやることぐらいがオレにできる全てだった。
仕方がないとはいえ、無力感に思わず眉を寄せた時、思いつめた表情のままだった彼女は必死に勇気を絞り出そうとするかのように言った。
「あの、外には絶対出ないから! ……家事をやってもいい? 部屋を触られるのが嫌じゃなければ、……もらってばっかりで、申し訳なくて」
下を見つめながら呟くように言う姿は、いつもより余計に小さく見えた。
「別にかまわねえが……。申し訳なさなんて感じる必要はそもそもない。オレ自身がこうしたいと思っただけだ。それにお前、あんなことあったのは昨日だ、ただでさえ大変な目にあって、あれだけ雨にも打たれてたんだぜ。無理だけはすんなよ」
「わかった、……ありがとう」
やる事があるのがそんなに嬉しいのか、ようやく笑ってみせてから、相変わらずゆっくりとパンを口に放り込んでいる姿を眺めていると、……ああまただ、喉の奥が変にひきつる。ガキにするみたいに、その頭を撫でてやりたい、なんて考えがふと浮かんだことに少しだけ動揺する。
これまでだって、全員を家にあげるまではいかなくとも、行き場のなくなった人間に目をかけてきたことはあった。だが、……オレにひどくなつき、そして目の前で「麻薬」に絡め取られ搾取させられそうになった人間に対しては、心が必要以上に揺らされているのかもしれなかった。
再び静けさが戻った食卓で、そっと思う。溺れる人間にとっさに手を差し伸べるように声をかけたわけだが、オレはせめて、こいつが日常を取り戻す手助けがしたいのだと気づく。言いたいことを言い切ったからか下を向くばかりになってしまった彼女を見つめながら、そう思う。
家を出る直前にも、あいつにはとにかく外には出るな、そう言い残してから部屋をあとにした。玄関までわざわざ見送りにきたあいつの姿を思い返すと、ああまただ、喉の奥が妙な感覚になる。これは寂しさではないはずだ、それなら、一体なんだっていうのだ、……深く潜っていきそうな思考を、軽く頭を振ってふりはらう。そんなことを考えながら、……人は殴れない。
◇◇◇
普段なら遅くまで書類やら次の〝仕事〟のために一人事務所に残っているのが常だったが、今日はもちろんそんな気分にはならず、自然と早まっていく歩調を感じながらあいつが待つはずの部屋に向かっている。石畳を踏む足はやけに軽く、仕事の最中にあえて思考の隅に追いやっていた分、今のオレがあいつの事ばかり考えていることに気づいて、一瞬自分で自分を笑ってしまう。
……だが、不思議と浮かれた気分のまま玄関の扉を開けた先、部屋の中は暗いままだった。
(……出てくのは、朝じゃあなかった、ってだけか?)
それならまだいい、……だが、もしもさすがにそんなのがいるはずはないと踏んだ「気合いの入った馬鹿」が、あいつがひとりでいる時に部屋に侵入していたとしたら?
ざあ、と血が冷えていく感覚がわかる。焦りと怒りの区別はもはやなく、オレは決して多くない室内の家具を引き倒しながら、(……思い返せば照明のスイッチを入れることすら忘れて、)大股で部屋から部屋を探し歩く。
「……クソッ」
リビング、キッチン、バスルーム、決して広くはない室内にもかかわらず、どこにもあいつの姿はない。最後に自分のベッドルームのドアを乱暴に開けた時、……ベッドの上に、白い塊が落ちているのを見つけた。
「!」
慌ててその塊に駆け寄れば、それは必死に探していたはずのあいつの姿だった。慌てて肩をつかもうとしてから、ハッとなる。
(……こいつ、……寝てんのか……?)
よく見れば、うつ伏せの姿勢で彼女が掴んでいるのは、……オレのベッドのシーツだ。洗濯したての布特有の、乾いた触り心地に太陽の熱をはらんだ白い布を小さな体でなんとかマットレスに巻き付けようとして、どうやらそこで体力の限界がきたのか沈没したようだった。
それを理解してから、長く息を吐きながらベッドのふちに腰掛ける。……ああクソ、それが無駄だったとは思わないが、ぶつかるのも構わずひっくり返したままのダイニングの椅子のことを思い出すと少しだけ顔に血がのぼる。
ベッドの近くにはおそらく洗濯して取り込んだのであろうタオル類が、カゴの中に入ったままで置いてある。あれだけ部屋中で大きな音をたてたって目覚めなかったくらいなのだと思えばすぐに起こす気にはなれず、ただその寝顔を、遠い月明かりの下で見つめる。
(……小せえ口)
朝、大きい口でよく食べるなどと言われたことをふと思い出す。……確かに、こいつに比べりゃそうなのかもしれない。うつ伏せで頭だけを横に向けているその顔の中、こいつのくちびるはまるで小鳥のようだった。
強いストレスを受けた時に、強烈な眠気がやってくるのは一種の防御反応だという。こいつが今、〝墜落〟としか表現できないようなかたちで眠りこんでいるのも、疲れからというより防御反応であるという方がきっと正しい。
あんなボロボロの姿をオレの前に晒したのは昨日の今日だ、昨晩だってろくに眠れていないのだろう。そこまで考えてから、……ああ、こいつが、何も心配もなく眠れる日を迎えさせてやりたい、そう素直に思った。
こいつの、日常を取り戻す手助けがしたい。
……そのためにはオレが、オレこそが、こいつを守ってやらなきゃならない。
その気づき、あるいはその覚悟をした瞬間に、身体の中に何かが満ちていくのがわかった。熱い血潮のように全身にめぐり、オレの身体に力を与える感覚。
これには覚えがある。……誰かを守ると決めた時の、静かに燃える、だが純度の高い青い炎のような覚悟だ。そしてそれを感じた時の、独占欲にも似た仄暗さもたたえた高揚がオレの身体の温度を上げる。
オレにとって、守れるものがあるというのはきっといいことなんだ。
それがあることでこそ、オレの心は支えを得、安らげる。
そんなことを思っていれば、起きている時よりもよっぽど幼い印象を与えるその顔に気づけば無心のまま手が伸びていて、指先でその頬に触れていた。……触れてから、ハッとなって手を引っ込める。自分の無意識の動きに何より自分が驚いていて、動揺で脈が早くなるのがわかる。
「……ん、んう……」
その上、触れられたことで気がついたのか目の前であいつがもぞもぞと動き出して、さらに心臓の音が早くなる。ぐぐ、と顔をしかめて、閉じたままの目に力を入れてから、ぼんやりと目を開く。まだ目に入ってきた光景をうまく処理できていないような無垢の瞳と、真っ直ぐ目が合った。ややあってから、あいつは少し間延びした声でささやく。
「……ブチャラティ、……帰ってたの?」
「あ、ああ……。いま帰ったところだ」
ばくばくと鳴ったままの心音が気づかれないようにと、ベッドの上であいつから少しだけ距離を取ろうとする。そんなオレの動きにまったく気づいていない様子で、なんとか身体を起こしてから、当たり前のようにこいつは言った。
「……おかえりなさい、」
目の前で、身体に残った眠気に崩されながらこいつはふにゃりと笑う、まだぼやけている様子の瞳を見ていると、……まただ、また喉の奥が妙な感覚になる。
「ああ、ただいま、だ」
そのオレの返事に嬉しそうに口角を持ち上げて見せてから、あいつはようやく今自分がどこで寝落ちていたのかを思い出したようだった。
「……ここ、あの、……ご、ごめんなさい! シーツ洗ったの直そうとおもってそれで……途中で……」
「謝る必要なんかねえだろ。……お前さえ嫌じゃあなければ、今日はここでお前が寝たっていいんだ」
オレはソファを使うから、そう続けると、あいつは必死の形相で首を振った。