Reminiscence - 2/2

Day 7

あいつは、オレがいくら遅く帰るようになっても、必ず起きて(あるいは必死に眠気に対抗しようとして失敗し、ダイニングのテーブルに突っ伏した状態で、)オレの帰りを待っていた。
そしてオレが帰ってきたのを見ると、それだけであいつは眠そうな顔のまま、なんとか笑う。……それはかつての街中で、陽の光の下で見せていた笑顔を思い出させるものだった。それを見てしまえば、わざわざ起きていなくていいとは伝えながらも、こちらの顔もつられて口角が緩んでしまうのが常だった。

……あいつと過ごしはじめてからはじめて、日付も変わった頃の帰宅になった日。さすがにもう眠っているだろうとたかをくくり、夜中の乱闘で切れた口角と、加減もせずに相手を殴りつけたせいで擦りむけた手の甲をそのままに帰ったら、あいつは目を覚ましたままオレを待っていたのだ。咄嗟に、擦りむけた利き手を背に隠し、もう片方の手で軽く口元を覆う。……今はまだ、こいつにそんな姿を見せたくなかった。できる限り暴力から遠ざけておきたい、ただそれだけだった。

「……寝ててかまわないんだぜ。家主なんかをわざわざ待つ必要がどこにあるんだ」
「私が、待っていたかったの。……迷惑かな」
「……いいや」

いまの姿を見せたくないと思っていても、わざわざオレを待つなんていじらしい行為が迷惑なわけはない。だが気づけば、あいつの意識を暴力の名残が色濃いオレ自身から逸らさせるように、気づけばふと呟いていた。

「そうだ、……お前、そろそろ外に行きたくないか?」
「……! ……うん、行きたい」
「……お前さえよければ、明日、一緒に外に出ないか。オレと一緒にいるところを見せておくのも、ある程度効果があるはずだ」
だからもう寝ろ、そう言ってやれば、やはりどこか眠そうに、あいつはこくりと頷いたのだ。

翌日あいつは、いざ外に出るとなったその時、玄関の前で深呼吸を何度か繰り返していた。その背中にかける言葉が見つからず、一瞬息がつまる。だが数瞬ののち、彼女は決意を固めたように前を向いて扉を押した。その姿に、柔らかく笑う息が漏れた。なんとか立ち上がろうとする人間は、それが些細な一歩だとしても高潔さをたたえているように思えて、オレの目には好ましかった。

……玄関はなんとか自らの手で押し開けたあいつだったが、明るく穏やかな日差しの下で喜びとともにまぶしさに目を細める、……なんてことはなく、その表情はひどくこわばっていた。
まずはあいつが暮らしていた家で荷物を回収する手はずだったが、そこに近づいていくにつれその表情のこわばりは増していく。
その姿は隣に立っていて何もしてやらないでいることが不可能だと思えるくらいの緊張感がみなぎっていた。抗えないままオレは、反射的にその手を握ってやりたい、そんな思いで彼女に向かって手を伸ばしかけて、……相手がどれだけ、そしてどんなふうに、何に怯えているのかを測りかねて、持ち上げた手を一度地面に向けてからあいつに向き合う。

「……もし必要なら、つかまれ」

そう言ってから、腕をあいつに差し出してみる。断られるかと思ったが、あいつは差し出された手のひらにおずおずと触れてから、惑うようにオレの手首のあたりを掴んだ。そのいじらしさに、内臓がぐらりと揺れるような感覚になる。
だが手首を掴む手のひらは冷えたままだ。……そして、あいつの住んでいた通りに近づけば近づくほど、ゆるく掴んでいただけのはずの手のひらに力がこもっていく。それを無視できるような人間ではなく、オレは足を止めてから静かにあいつに問う。

「今日は、やめておくか?」
「……ううん、……行きたい。ブチャラティと一緒なら、ここまでこれるんだってわかったの、嬉しいし……」
普段よりもかさついた声でそう囁いたあいつは、オレの手首のあたりを握り直すと自ら再び歩き出した。

そしてようやくあいつが暮らしていた家の前にたどり着く。人の気配はすでになく、高く日がのぼるこの時間ではむしろ、通り一帯が静まり返っていた。
玄関から堂々と入っていくわけにもいかないだろう、オレはあいつに「法的に微妙なことをするから見ないでおけ」と伝えて、……あいつの死角になる場所に入ってから、ジッパーを駆使して直接外の壁から彼女の部屋があったという場所に体を慎重に滑り込ませた。……だが、

「……中には何も、残っちゃいなかった」

案の定ではあったが、そう言われた本人はショックが隠しきれない様子だった。それはそうだろう、遠い日本から大事に持ち込んだものだってあっただろうし、ほとんど全財産に近いものが消え失せたわけだ。気丈に振舞おうとはしているが、どうやらそれも難しいようで目の前でどんどんその顔が白くなっていく。

……モノは、記憶だ。だからこそ多くを持つことは好きじゃあないが、だからといって全てを失って平気なわけじゃない。そして失う覚悟ができてなけりゃあ、きっとなおさらだ。目の前のあいつは、今にもくずおれそうだった。もしかすると、大事な荷物をいつかは取りに行ける、なんてことを心の支えにしていたのかもしれない。……そんなことを思ってしまえば、ああくそ、言葉だけでどうにかできる類じゃない悲しみに沈む姿を見るのは、得意じゃない。

「……じゃあここからは作戦を変えるとしよう。まず何がいるかな……今だと、服、か?」
そうだな何はともあれ服だな、代えがなければ困るだろう、答えを聞く前に勝手に結論づけ、オレは歩き始める。それを焦ったような声が後ろから追いかけてくる。
「ぶ、ブチャラティ、でも私いまお金もろくに持っていなくて……」
「かまわない、今日はオレが立て替えるってことでいいだろう。……返すのは働き始めてからでいいし、ついでに言やあ、ただ金を返すんじゃない方がいいな。仕事をはじめりゃお前も忙しくなるだろうが、一晩くらいオレとの夕食に付き合ってくれればそれでいいさ」

言っている間に歩き続ければ、薄暗い路地がどんどん遠ざかって行く。あいつの怯えも遠ざかり、代わりに今は焦りが見えている。なぜだかそれがおかしくて、オレはまだ戸惑っているままのあいつをそのままに、観光客も多い通りの服屋を覗いていく。……こいつに服の好みをはっきり聞いたことはないが、彼女がかつてよく着ていてたワンピースに似た服が飾ってある店のドアに手をかけようとした瞬間、再び焦ったような声をかけられる。

「……ブチャラティ、あの、」
「家に来いと言ったのはそもそもオレだ。こういう状況も含めて任せろってつもりでお前を呼んでるんだから、その点はかまうなよ」

お前はオレを責任をとれる男にしちゃくれないのか? 詭弁だとわかっていながら言葉を並べ立てるのはあまりいい気分じゃあないがとにかくそんな内容で言いくるめて、ようやくあいつを服屋に放り込んだ。

新しく、最低1週間分の服と下着、それを揃えろ。これは命令だ。
そうオレに言い放たれて目を白黒させているあいつを見ているとどこかおかしくて、思わず少し声を上げて笑う。
「な……なんで笑うの! すっごく、……びっくりしてるのに……」
「ハハッ……いやあ……なかなか楽しいもんだな、これは」
いいからとにかく選べ、そう言ってあいつを店の奥に押し込む。……これまで、付き合った女に買い物に連れ回されたことはあったわけだが、……こうして『買い物に付き合わせる』のも悪くない。

「……ここだけじゃ揃わないだろう? 次の店は2件先だ」
「ま……待って……ちょっと待って……」
とりあえず選んだ様子の服が入った紙袋をさげて追いかけてくる彼女の手から袋をひったくって、それからその2件先の店に再び放り込む。適当に服を見繕ってやってくれ、そのうち1着を着せた状態で店から出してくれ、そう店員にことづけてクレジットカードを押し付けてやれば、恰幅のよい店員はにこやかに頷いて見せた。

若干うらみがましいような目で見てくるあいつにあえて笑ってみせれば、彼女はオレとよく似た笑顔を浮かべた店員に店の奥へと引きずり込まれていった。
……おそらく、こういうことをしている方がいいのだ。今日みたいな、立ち止まってしまえばどんどん喪失が体の奥深くに染み込んでしまうような日には。実際、彼女には新しい服が必要だった。
そして、渦に放り込まれて目を回し、他のことを考えさせない時間はさらに、きっといまのあいつには必要なのだ。
慰める言葉を持ち合わせていないオレにできるのは、これくらいだった。

(……あとは、)

真新しい服に身を包み、どこか少しぐったりとした顔のあいつが店の外に這い出てきたのはしばらくたってからだった。

「………………ありがとう」
「どういたしまして、だ。なかなか似合ってるぞ」

色々言いたいことはあるんだろうが、その中からあいつが選びとってオレに差し出した唯一の言葉に、また口角が上がる。
「服はもう良さそうだな。……最後に、一つだけ付き合ってくれ」
そう言ってみせれば、あいつはもう抵抗する気もないのか黙ったままでこくりと頷いた。

地下鉄の駅のすぐ近く、帰宅するには乗る必要のないケーブルカーのチケットを2枚。不思議そうな顔で覗き込んでくるあいつに片方を渡して、すでにホームに停車中のケーブルカーに乗り込む。
質問はするな、なんて言っているわけではないが、……あいつは何も聞かないまま、おとなしく隣の座席に収まっていた。
平日の昼間、もう少しで日没というこの時間には、他の乗客はほとんどいない。そして黙ったまま列車に揺られるあいつからは、もう家を出た時の緊張は消え失せていた。……かわりに、いつの日かの朝と同じように、あいつはオレの方をじっと見つめている。

「……どうした?」
出来るだけ柔らかな音になるように、そっと囁く。
「……ブチャラティ、……わたしあのとき、そんなに悲しそうに見えた?」
「……」

今日の突然の行動の意味を汲み取れないほど彼女は鈍感ではなく、そしてオレは何かを気取らさせないことが出来る程に器用ではなかったようだ。どこか情けない話だが、……ただそれでも、オレはお前が悲しそうだからそうしたわけじゃあない。

「……そうじゃない、ただオレがお前にしたかったことをしただけだ」
「…………わかった。……ねえ、また……手を借りても、いい?」
「……いくらでも」

ケーブルカーが目的地にたどり着くのはあっという間だ。5分かそこらの乗車時間の間だけ、彼女はそっと、オレの前腕のあたり、服越しに手のひらを乗せていた。

ケーブルカーの終点、起伏の激しいこの街の中でもずいぶん高いところに位置するその駅で降りてから、少し歩く。
そこからは背の高い住宅が壁のように覆う風景が続く。ケーブルカーで上がってくる前と特に変わらない、何の特別さもないような中を歩かされて、相変わらず不思議そうに彼女はあたりをきょろきょろと見回していた。その間にも少しずつ太陽は傾き、夕焼けの気配が濃くなっていく。

「……もうすぐ着くぞ。……ほら」

濃くなる夕日に気が急いて大股になったオレのほんの少しだけ後ろを歩いていた彼女が、オレが目にしている風景を見渡せるようになるまで少し待つ。
小走りでやってきた彼女は、目に飛び込んできた光景に小さく感嘆の声を漏らした。

ようやく辿り着いたのは、建物の存在が突然途切れたように感じさせる、飛び込んだ瞬間には空が視界の半分を埋めるような高台の広場だ。そしてその広場のはじ、崖のちかくにつけられた手すりのところからは、この街の端から端までを見渡せる。
眼下に広がる建物はひどく小さく、そこで営まれているどんな生活をも等しく美しく縮小させる。幸福も悲劇もひどく遠く、そこに寄り集まって生えているような家々はまるで作り物のように見える。
それを囲むように、……あるいは飲み込もうとするかのように、海が広がる。西日を受け、絶えず光を跳ね返す水面はひどく眩しい。街中が、濃い赤色に染め上げられていく。かすかに潮の香りも感じる気がして、それだけで簡単に心が揺れる。

「……やってることはまるで観光客だが、……オレはこの風景が嫌いじゃあないんだ。街がどこまでも見渡せるし、海だって見える」
「……ここは、……こんなに、きれいだったんだ」

遠くの風景を見つめながら、オレに聞かせようとするというよりも、思わずこぼしてしまったというふうに感慨深げに囁かれた声を聞く。……思った以上の効果はあったようだ。部屋に閉じ込められて、ろくに日差しも浴びられなかったこいつのことを思うと、オレはいつしか自然とこの風景を見せたいと考えるようになっていたのだ。

どんな悲しみも怒りもヘドのような邪悪も、この街にこびりついたすべてが遠く、街は光る。

少しずつ強さを増していく西日を浴びつつ、どこまでもこの風景を目に焼き付けようとするかのように広場の端の手すりから身を乗り出すあいつの横顔を見て、祈るような気持ちで思う。

(……お前がいつか、この世界に絶望するとしても、……その時にどうか、ただ生きると決めてくれるだけでいい。その分オレが、お前を傷つけるものを注意深く排除してみせよう)

そんなことを考えてからふと気づく、ここは何も特別な場所じゃあない、知ってれば誰だって来られるような所だが、……ここに自分が誰かを伴ってやって来たのははじめてのことだった。オレは彼女を自分の内側に触れさせようとしているのか、……そんなことをふと思う。

オレはあいつを保護した人間だ、そして彼女は保護された人間だ。オレたちの間にあるのはまずそれで、それを壊し逸脱するのは本末転倒な話だろう。
低い位置にある彼女の頭を見下ろす。今朝見せていた姿が嘘のように、身体からはこわばりが抜けて自然な姿だ。
守ろうと思っている相手の、安心できる土台となるような場にオレ自身がなる。それを優先事項として再度心に刻む、守るべきものがあるという幸福と責任は、当然としてそれを要求するのだ。

突然パッと顔上げたあいつと、考え込みながら黙って彼女の頭のてっぺんを見つめ続けていたオレの視線が瞬間で重なる。

「……今日は……わたし、楽しかった! ありがとう、ブチャラティ」

目を合わせてあいつは嬉しそうに笑って言う、それはまるで、……ネアポリスをたむろっていた「居場所がないガキ」が見せたものと同じだった。