きょうは遅くなる、朝から彼はそう言っていたから、ひとり早めにベッドに潜り込んだ。
一緒に住むようになっても私たちの生活のリズムは微妙にずれていて、顔も合わせない日があったり、家を出ようとする彼の背中を玄関で見つけて慌ててハグするだけの日もあった。
それを見越して寝室は分けていたし、ひとりで待つ夜なんてはじめてのことじゃないからいちいち寂しがることでもない。
それでも今日のわたしはやけにうまく寝付けなくて、とりあえずベッドの上で目を閉じながら浅い眠りのふちでうつらうつらしていた。
そうこうしているあいだに、バタン、と遠くでドアの音がした。どうやら彼が帰ってきたらしい。迎えに行こうかどうか、じょじょに訪れはじめた眠気のなかで逡巡しているうちに、大股の足音がどかどかとこちらに近づいてきて、部屋のドアががんがんと叩かれていた。寝ぼけた声でその強すぎるノックに返事をする前に、勝手にドアが開け放たれたかと思えば、半分寝ているわたしの上に突然重くて熱いものがドサリと降ってきた。
「ぐえッ」
「……ただいま、オレのテゾーロ」
「うぅ……重い…! ……お酒飲んできたの?」
わたしの上に降ってきた塊が、長い腕でぎゅうぎゅうこちらを締め上げてくる。
「…………うん」
(……うん、だって?)
彼は子供みたいな返事をしながら頭をすり寄せてくる。さらさらの髪が頬にかかってくすぐったいし、……めったにそんなことにはならないから、酔っ払いに絡まれてるだけだってわかっているのに熱くてどきどきしてしまう。抱きしめ返したいのに相変わらず体重をかけられて抱きしめられているから手を伸ばすこともできない。
……あんな返事にこんな動作にこの体温、ブローノ、かなり酔ってるなぁ…。
どうしたものか、そう思っているうちに彼はガバリと体を持ち上げる。
「腹ァ減ったな!」
そう叫ぶと、彼はどきどきしたままのわたしを置き去りにそのまま勢いよくキッチンへと向かって行った。
突然の嵐にかき乱されるだけかき乱されたような気持ちで呆然となる。しばしベッドの上でぼんやりしていたら、キッチンの方からさっきの彼の宣言通りというべきか、早速何かを炒める音が聞こえてくる。
「ナマエー!! きてくれ!」
遠くからそう叫ぶ声に呼ばれるがまま、わたしはのそのそとベッドから降りた。
呼ばれた先のダイニングで、私の愛しい酔っ払いはご機嫌な様子でキッチンに立ち、器用にフライパンを揺らして何かを温めている。……本当に、よっぱらいめ!そう叫びたくなったのは、袖をまくるかどうか迷った結果なのか、なぜかスーツを脱いで上半身はほとんど裸の姿でフライパンを握っているす型を見たから。綺麗な筋肉がついた、黒いレースが覆う背中が眩しい。
「悪いがパスタをとってくれないか?」
私がキッチンにやってきたのに気づいたのか、フライパンの中をかき混ぜながらこちらに背を(……はだかの、だ)向けたまま彼は言う。
「お前も食うなら2人前……いやオレが腹減ってるから2.5人前だな。湯は沸き始めてるから頃合いを見て茹でてくれ」
「んーーー……2人前でいいや、ちょっとだけもらう……でもこんな夜中に! しかも食べてきたんじゃないの?」
「オレは……ギャングだからな。いつだって炭水化物を食ったっていいんだ」
「……酔っ払いめぇ。お腹にお湯や油が飛んだら危ないよ」
楽しそうに適当なことを言う彼にわざとらしく毒づいてから、ブローノの隣で沸騰しかけている鍋に掴んだパスタを投入した。ばらりと鍋の中で広がって茹でられているパスタを見つめながら、独り言のように囁く。
「……ちょっとだけ、羨ましいなーって思っちゃってる。……一緒に飲んでた人たちに」
口から出てきた言葉は、自分が想像するよりだいぶ〝めんどくさい〟発言になってしまって、思わず自分自身でげんなりする。でもブローノはそうは思っていない様子で、ただ不思議そうな声で返してくる。
「ん? いつものあいつらだぞ、アバッキオと、ミスタと、フーゴと、ああナランチャは途中で寝ちまってたけど」
……その人たちは、彼がこんなになるまで目の前で酔ってもいいと思っている相手なのだ。彼のような人がそう思える相手というのは貴重だ。いつも一緒に仕事をして、もちろん彼らに命だって預けられるからこそだとはわかっている。
「……それにな、……わかってるさ、今自分が甘えてるなんてのは。……こんなになるの、お前の前でだけだ。ナマエ」
帰ってくるまではシャンとしてたんだぜ、彼はそう続ける。酔っているはずなのにやけに手際よく、お腹がすくようないい音をたててフライパンを操りながら、彼はあんまりにも優しくささやく。その言葉に、思わずみぞおちのあたりがきゅうとなってしまう。
隣をちらりと見上げると、同じタイミングでこちらを見て笑う彼と目があった。本当にめったに見ないくらい顔は赤くなっていて、まぶたも少し重そうなのが……正直かわいい。そんな顔して——上半身裸で料理してる。そんなの冷静になればどう考えたってただの酔っ払いの姿なのに、……ブローノ・ブチャラティという男はそんな姿だってなんだかさまになってしまうのだ。そして同時に、私がどうかしているくらい彼に惚れているというのもある。
「ずるいな……あ、パスタ茹で終わるよ」
「ん? ああ! 皿をくれ」
2人前が茹で上がったパスタを入れた皿を手渡すと、かわりに彼は私にテーブルに着くようにやけにうやうやしく手を向けた。ミネラルウォーターをグラスに注いでテーブルにつく。それからブローノはにこにこしながら、私の目の前にぶつ切りのイカと貝だけの、……よく言えばシンプルなペスカトーレをどっかと置いてフォークを手渡してきた。
ほとんど同時に、大皿の反対側と反対側からフォークを突き刺す。行儀は悪いけれど、それを咎めるような人間はこの屋根の下にはいない。
少し大きすぎるくらいのパスタをフォークでからめとって口に放り込む。思わず漏れたおいしい、という言葉に、相変わらずお酒の抜けない赤い顔のまま、ブローノは目を細めて笑った。
(……酔っ払いめ!)
きっと私は酔った時の彼が見せる子供みたいな振る舞いが、困ったことに嫌いじゃなかったのだ。
リクエスト「ブチャラティとごはん」