偏愛を許せ

急な大雨の音にふとベランダに窓から頭を出した時、狭い裏通りを大雨に振られながら、傘もささずに走る彼の姿を見かけて思わず叫んでいた。よかったら雨宿りして行って! これから雨はもっと強くなるらしいから!
その言葉にブチャラティがうなずいたかどうかも確認できない距離だったけれど、目が合った気はしたのだ。

その後ハッとなってバタバタと片付けはじめる。正しく言えば片付けっていうか、物を移動させてそれとなく隠すくらいだけど。

私とブチャラティとは、……なんていうか、きっとこの街に住んでたら彼のことを知らない人間はいない。顔を合わせると良く話す。話すようになったきっかけは、私のお気に入りの大衆食堂でたまに顔を見るようになってからだった。ざわざわしてて落ち着かなくて、とにかく若者が多いこのタヴェルナに彼の姿を見かけたときは驚いた。私としてはこの店はすごく気に入っているのだけど、こんな所帯じみた店にあのブチャラティが足を運ぶなんて。まあここのパスタもコロッケもとにかくおいしいからそういうことか、そんな風に納得しようとしていたのだけど、本当の理由はすぐに分かった。ある日、酔っぱらった客に私が絡まれていた時、彼があっという間に割って入ってそいつをたたき出してくれたのだ。
こんな風にときどき発生する暴れる酔客をどうにかしたいと考えていた店主が彼の知り合いで、半分彼は仕事でこの店に来ていたのだと。
あの人と、お店の趣味が合うんだって勝手に喜んでいたけれど実際はそうではなかったのは残念だった。でもそれがきっかけで、助けてもらったお礼代わりにたまに一緒に食事には出かけるようにはなったけど、……まあそんなくらい。たぶん町中にいるブチャラティの知り合いの一人で、……そしてブチャラティに淡く恋焦がれた人間のうちの一人が、私。ただそれだけだった。

控えめなチャイムの音が鳴らされたのは、私が洗う前の洗濯ものをバスルームからクローゼットへと放り投げたすぐ後だった。
自分で声をかけておいて、突然響いたそのチャイムの音に一人で飛び上がってしまう。本当に目が合ってたんだ、雨の中で私の声が聞こえていたんだ、気のせいじゃなかったんだ……うわうわうわどうしよう……。半分パニックになってとっさに洗面台で顔を確認してから(鏡の中にはどこか思い詰めたような顔のいつものわたしがいるだけだった、)玄関のドアに手をかけた。

見上げた先には、黒い髪を雨で濡らして、それでも整った顔のブチャラティが眉を下げて立っていた。
そんな顔みるのは初めてで、少し驚いてしまう。でもぼんやりしてるわけにはいかなくて、見とれていたことをごまかすみたいに慌ててタオルを差し出した。

「すっごく急だったよね……。朝の予報では夜からって言ってたのに」
差し出されたタオルを受け取りながら、ブチャラティは静かにお礼の言葉をささやいた。
「ああ、それを信じてたわけだが……すまない、ありがたいよ。このあたりは店もないから助かった」
「別にいいよ。……とりあえず、あがって? コーヒーくらいは出せるから」

言いながらキッチンにむかった私に、ブチャラティがついてくることはなかった。
まだ濡れてる? きちんと拭いてからあがろうとか思ってる? 別に気にすることないのに……そう思いながら玄関に戻ると、彼は玄関に立ったままで少し戸惑った様子の、眉を寄せた表情を浮かべていた。

「……どうしたの? 嫌じゃなかったらあがってよ。足が濡れてるの気になるなら、玄関に敷いてあるマットで拭いちゃっていいから」
「……なあ、急に部屋に上がるのは迷惑じゃあないか? オレは雨が止むまで玄関を借りられればそれで構わない」

彼は本気でそう思ってる様子で、さらりと言われてしまった。

「迷惑なんてことは全然ないから! 入って」
なおも少し戸惑ったように言葉をつづけようとしてから、ブチャラティは少し顔をゆがめた。それから、片手で鼻と口を覆って小さく「んく、」みたいな、しゃっくりを我慢したときみたいな音をたてた。……今の、何? もしかしてくしゃみ?

「さ、サルーテ?」
「……グラツィエ、……すまない……」

ほんとにくしゃみかどうかわからないままつぶやいた気遣いの言葉への返事を聞いて、ああ今の音はくしゃみであってたんだなと理解する。人間なんだから当たり前かもしれないんだけど、ブローノ・ブチャラティもくしゃみなんかするんだ、しかも静かで、かわいい感じのやつ。そんな謎の感慨を抱いてしまう。玄関でいいって言ったブチャラティはそんな言葉の直後にくしゃみなんかしたものだから、こちらをちらっと見つめてから目線を外すと、一瞬くちびるのあたりにきゅっと力を込めて言葉を探しているようだった。
そんな顔しなくたっていいのに! ……ああ、この人、私が思っている以上に本当かわいい人なのかもしれない。

「ほら、玄関だと冷えるよ。一歩私の部屋に入ったなら城主に従うってことで、言うこと聞いてもらうよ。せっまい城だけどね」
「悪いな……それじゃあ、上がらせてもらうよ」

よし、それでいい!という風に何度かうなずいて見せれば、ブチャラティはようやく私の部屋に足を踏み入れた。
ブチャラティは濡れた頭と服を手渡したタオルで拭いているのだけど、追加でタオルを何枚か貸してあげたところで、ネアポリスを洗い流すような突然の雨にはほとんど意味がなさそうだ。白いスーツの肩口から濡れて色が変わっているし、ひどく重そうだ。それじゃあいくら温かいコーヒーを飲んだところで、体温が奪われていくだけだろう。
……さっきはずいぶん偉そうに、彼に向って私が城主とか言ってみたけれど、正直落ち着かない。私の狭い部屋にブチャラティが立っているというその光景だけで、この部屋という空間がいっぱいになっている気がする。落ち着かないまま、私は思わず口に出していた。

「……あのさ、よかったらシャワー使う? 一応、このうちには乾燥機もあるし。今の部屋で唯一のいいところ。あー、スーツが乾燥機に入れて大丈夫な生地ならだけど……」

まず服を乾かして身体をあたためないと。そのためには、その一点だけ考えながら口走ったけれど言ってからハッとする。……女の部屋で、しかも自分に勝手に惚れてる女の部屋でシャワーを浴びろって言ったってこと? いや惚れてるのはバレてないつもりだけど……それに気づいたらなんか変な汗が出てくる、体温もおかしい感じだ、妙に暑い。だけどそんな違和感なんて絶対に見せないように、こんなの当たり前の事、友達だし変なことじゃないよね! そう自分にも言い聞かせるつもりで普通の顔を取り繕って彼の返事を待つ。
また断られるかと思ったけれど彼の方もなんでもないみたいに、わざとらしく大きなため息をついて見せてから眉を下げて笑って見せた。

「何から何まですまないな……その言葉に甘えさせてもらうよ。せっかくおすすめしてもらった乾燥機は難しいかもしれないが……アイロンがあればありがたいな」
「あ、アイロンね! うん! あるよ! 温度上げておくから、シャワーはその間に」
「助かる。埋め合わせは今度させてくれ」
「埋め合わせねえ……また一緒にご飯に行ってくれればそれで。新しい店を開拓したいから。……それで……えーとシャワーだよね、タオル準備するから先にバスルームで待ってて。その扉ね」
「……ああ」

ブチャラティに使ってもらうための新品のタオルのストックを自室に取りにいきがてら一人大きくため息をつく。
(あ~~~うまくいったよね変な感じしない会話できたよねよかったああああ……)
シャワーあびたら? そう言った瞬間は何にも考えてなかったけれど、私が彼に勝手に惹かれている、っていうのを加味するとそれってなんだか意味が変わっちゃうんじゃないか? 彼に不安を抱かせないか? そう思ったらもういたたまれなくて仕方なかった。自室でひとりしゃがみこんで、もう一度深く息を吐く。
(なんていうか……もっと、もっと……望みがありそうな人を好きになれたらよかった)
彼はあまりにも高嶺の花だ、私にとっては。だってあんな聡明で、優しくて、おかしな並列だってわかっているけどギャングだっていうのにその心に一点の曇りもないような人を好きになるなんて、高望みにもほどがある。でもだから好きになってしまった。

そんなことを思いながら、タオルを掴む。あとは……服が乾くまでの間に着るものもいる? 慌てて部屋中をかきあつめたら、私ならオーバーサイズで着るようなシャツが出てくる。色は派手だけど、まあ無地だしちょっとの間だから我慢してもらおう。あとクローゼットから引っ張り出せたのは弟が泊まりに来た時にきたときに忘れていった、ゆるっとしたシルエットのパンツくらいだ。……身長は同じくらいか……? あまり自信はない。ブチャラティが着れたらいいけど。

そんなことを思いながら、バスルームの扉をたたく。中から聞こえた「どうぞ入ってくれ」というその声のままにドアを開けた先――私は見えてきたものに思わず一瞬動きを止めた。
濡れたスーツのジャケットを脱いだブチャラティが、私の目の前できれいな裸の半身をさらしていた。今触れたら冷たくてしっとりと濡れていて、大きな爬虫類のような触り心地に近いに違いない、きっとそうだ。そんなイメージが一瞬で湧き上がる。大きなトカゲのおなかみたいな触り心地。きっと抱き着いたら気持ちがよいのだろう。冷たい肌の上に自分の手をのせてみたい。
薄くついた筋肉に、その下にあっても確かにわかる骨のかたち。普段のたたずまいから美しい人だと思っていたけれど、服を脱いだ彼はさらに、生き物として美しかった。

茫然としてしまった私に気づいているのかいないのか、ブチャラティはタオルを掴んだ私の片手を見て微笑んだ。そうだった、私タオル……タオルを渡しに来たんだった。
慌てて脱衣用のかごの端にタオルと部屋着をひっかける。どうぞこれ使って、部屋着もよかったら。

「ありがとう。使わせてもらう」
「……うん、あーっと……シャンプーはそっち、トリートメントはそれ、……体用の石鹸はこれ。洗顔はこっちのチューブで、泡立てるにはそこに引っかかってるネットを使って。シャワーをあがってボディミルク使うんだったらこっちの洗面台に違う香りのがいくつかあるから、」
半分パニックになりながら指差して説明してたら、ブチャラティは今度こそ困ったような顔をしていた。
「……ど、どうかした?」
「いや……女ってのは風呂入るってだけでも大変なんだな。オレはかろうじて頭と体を洗うもんは分けてるが、それ以上は……」
そんなつやつやの髪を見せつけてそんなこと言うのか、そう思って私が眉を上げたのを見て、ブチャラティは少しいたずらっぽく笑う。その自然な笑みに、突然湧き上がった自分の劣情で混乱した心が少し落ち着く。
「で、結局どれで洗えばいいんだっけか?」
「もうどれでもいいよ別に! 好きな香りのやつで適当に洗っちゃえ」
「急に放り出したな」
「なにで洗っても荒れない肌と光る髪を神が与えたもうた人間に出会っちゃったからね、もういいやって」

そんなこと言われたブチャラティは苦笑しながら髪留めを外している。少しずつ見慣れない姿に変わっていく彼をこれ以上見ていたらおかしくなりそうで、私は逃げるようにバスルームから立ち去った。

とにかく狭くて、逆に言えば乾燥機以外には褒めるところのない私の部屋ではバスルームのドア横のキッチンでコーヒーの準備をしていると、そのままシャワーの音が聞こえてくる。
一人暮らしで友人は呼んでもシャワーを貸すことって少ないし、こんなに水音が聞こえることに初めて気づいた。
そこまで考えてコーヒーの粉を測っていた手がふと止まる。
今、私の部屋でブローノ・ブチャラティがシャワーを浴びている?
この水音は彼の身体の上をすべって落ちた水の音なのだ。あの美しい獣のような、滑らかな肌の上を。

「…………」

これが初めての恋なわけじゃないのに、いちいち子供みたいに簡単に感情が昂る自分に気づいてちょっと嫌になる。せっかく!友人の私を頼ってくれたっていうのに! 
(こんなの、身体目当てで恩を着せたみたいじゃない……?)
二杯分のエスプレッソの粉をマキネッタに放り込みながら、少し心が重くなる。
そして子供じゃないからこそ惹かれる気持ちに欲が混じるのなんて当たり前だとは思うけれど、こんな気持ちになるのなら思いを秘めていることがまるで罪のように思えてくる。さっき見た彼のきれいな上半身が頭から離れない。
水の音はマキネッタをコンロの上にのせて、奥に仕舞い込んだアイロンを引っ張り出してくるまでずっと聞こえていた。

髪を拭きながらバスルームから出てきたブチャラティは、わたしのシャツを着ても案外無理が無いようで安心する。まあ袖と肩のあたりはちょっときつそうだし、足に目をやると足首が見えていた。髪留めも外したまま、シャツとパンツに身を包んだ彼の姿は、あまりにも見慣れなくて不思議な気持ちになる。心なしか目元もいつものような鋭い感じが薄れている。一緒にご飯にいったとき、お酒が身体に回りはじめたときのふわりとほどけた印象の目に近かった。その瞳が、私を見て更に柔らかくほどけて微笑む。

「……ありがとう。シャツも……これ大丈夫か? 少し伸ばしちまってる気がするんだが」
くるりと背中を向けて見せながら言うのに、伸びたっていい服だからブチャラティさえ痛かったりしなければと返してから続ける。

「アイロンはリビングに置いてあるよ。でも……先にコーヒー飲む? エスプレッソはすぐ出せる」
「それじゃあ、まずエスプレッソを頂こうかな」

ダイニングのテーブルにつきながらブチャラティが返した言葉でコンロの火をつけてカップを用意しはじめた私の背中に、ぽつりと予想していなかった言葉が投げかけられて私の手はすぐに止まった。

「……きみはきっと、みんなに優しいんだろうな」

その言葉は、たぶん普通に取れば今日ブチャラティに対して色々できた私を褒めるみたいに出てきた言葉だろう。
でも都合よく解釈するなら、どこまでもいまの私に都合よく解釈できそうで——わたしは、思わず、振り返らないまま呟いていた。

「……わたしは、ブチャラティみたいに博愛の人にはなれないよ」

言ってから振り返った先、ブチャラティと私の間にあるのはこれまで感じたことのないようなものだった。雨のせいで湿気を孕んだ空気は重くて、まるで触れられそうなくらいだ。そこにシャワーあがりのブチャラティの熱と、私の身体の中からにじみ出るような緊張と熱とが混じり合う。

「雨の中走ってるの見て、あんな大声をとっさに出せたのは、……そこにいたのがブチャラティだからだよ」
緊張して、口の中がひどくかわく。のどがひくついて、空気を飲み込むようにしてから、なんとかささやく。
「……嫌いになった?」
「…………いや、自惚れてしまいそうだ」
返された言葉の意味を、私はゆっくり咀嚼しようとする。ねえ、それって――。
お互いに無言で、次の言葉を、次の行動を期待しながら、そしてどこか怯えながら見つめてあっている。コンロに火がついているからってだけじゃなくて、ひどく熱い。一言でも声を発したら何かが壊れてしまいそうだ――。

だけどその空気は、マキネッタが湯気とともにコーヒーを少し吹きこぼしたしゅうしゅういう音でかき消された。慌ててコンロの火を止めて、汚れた部分をふき取り終わったときにはさっきまでのが嘘だったみたいに、元通りだった。
だから私も何でもないみたいにデミタスカップに注いだエスプレッソを彼の前に差し出すだけだ。だけど、彼は小さなお礼をつぶやいてからまっすぐこちらの目を見つめて私の名前を呼んだ。

「……勘違いだったら言ってくれ。でも、なしくずしにはしたくないんだ。……君との関係を」
「わ、かった」
「だから……時間をくれ。きちんとするために」
「うん」

ゆっくりとうなずいてから、私は立ったままエスプレッソを一息にあおるように飲み込んだ。カフェインを一気に流し込んで、ようやく脳がまともになった気がする。

今日は、これまで通りに過ごすってことにだと理解して、ぎこちないながらも私たちは普通の、食事はちょこちょこ共にする友人同士の顔で過ごしていた。ブチャラティも無事にスーツにアイロンをかけ終えて(まだ湿ってるとは思うけれど、)私は彼に傘を貸してから送り出す。

狭い部屋の中でわざわざ玄関まで彼を見送りにいけば、ブチャラティの目が私の中を探ろうとするようにじっと深く見つめた。
「来週の夜、いつなら空いている?」
「来週なら、いつでも」
「それなら水曜に」
言いながら彼はすっと私の手を取った。どうしたの、そう聞く前に彼はそっと指先にキスを落とした。それからもう一度こちらの目を見て笑って、私が手渡した傘を持って、ドアの向こうへと消えた。

彼の柔らかなくちびるがのった指先はひどく熱い。この1時間たらずに起きた全部が全部嘘みたいに思えるくらいなのに、まだ濡れて熱の残るバスルームだけがこれが事実なのだと私に見せつけるようだった。