ひみつ

授業中、誰よりも近い背中は、授業が終わってしまえばいつだって誰より遠い。
授業の終了を知らせるチャイムとともに、魔法は一瞬で解けるのだ。

一番の前の席に座っているなんて、ブチャラティ先生の国語の授業以外では何にも嬉しくないアドバンテージも、チャイムがなるかならないかで後ろから駆けてくる他のクラスメートの子達の壁に阻まれてあっという間に意味がなくなってしまう。いつだって先生は、たくさんの子達に囲まれながら、かけられる声のひとつひとつを目をみてしっかり聞いて、たまに笑って、優しく返す。
わたしがその人だかりに入ることはできない。でも、ひとりきりでその様子を遠くから見ているだけでも十分幸せに思えた。

誰より綺麗な立ち姿だと思ったのが、はじめの印象だった。深く優しい声、透き通っていて力強い瞳の光、切りそろえられた髪、教科書に書かれている内容から自然に発展して、知性と倫理と道徳と、……とにかく、生きるために必要な、でも手触りがなくてどこにあるのかもわからないものを魅力的に語ってくれる。
きっと先生以外の口から出たら軽くって浮ついたものにしか思えないような言葉が、先生の思考と声を通すと、圧倒的な存在感を持ってわたしの前に立ち現れる。
何を大切にして、どう誠実に生きるか、なんだか、そんなことがわかるようになる気がするのだ。こんなに誠実で、わたしたちに向き合ってくれるおとながいるんだ、そんなカルチャーショックすら覚えるくらいだった。

涼やかな見た目とそんな態度を持ったブチャラティ先生に、告白したけど振られた、しかもすごく優しく振られた、なんてことを聞くのはこの学校で日常茶飯事になりつつある。
その噂が流れてくるあまりの頻度に、下手すると学校の誰もが先生のことを好きなんじゃないか、そう思えてくるくらいだった。
それでも、自信を持って言えるのは、きっと先生はおとなだからこそ、絶対にこちらを向いてくれないだろう。……わたしは、だからこそ先生が好きだった。だからこそ、安心して好きでいられるのだ。

そんな風に遠くから見ているだけでよいはずだった、いつだって誰かにかこまれて、高嶺の花だった先生。
それなのに、——放課後、誰にも囲まれていない先生にわたしが出会ったのはほとんど奇跡だった。

「……おっと! すまない、大丈夫か?」

出会った、というよりも、……正しく言えばわたしが先生に激突しかけた、が正しい。司書さんに入れてもらった本を一番に借りられて、歌い出したいような気持ちで図書室を出ようとした時だった。ちょうど図書室に入ってこようとした先生の胸に、私は頭を突っ込んでいた。
硬い板のような胸元に思い切りうちつけた鼻はじんじんする、けど……確実に、洗剤とはちがう、甘すぎなくて清潔なよい香りが鼻の奥に残ってくらくらする。が、はっとなって慌てて返す。

「こちらこそ、すみません! 大丈夫ですか……? 痛くないですか……?」
自分の鼻が痛いということは、同じ勢いでぶつかった先生の胸も同じくらい痛いはずだということにあとから気づいて慌てて言ってみたけれど、先生は笑って首を振るだけだ。
「ミョウジこそ怪我はないか? ……少し鼻が赤くなってしまったか? ……すまない」
「いいえ、あの! 全然! 大丈夫です!」
図書室の入り口でのやりとりだから、声自体はささやき合うような音量でしかない。こんなに近くで、こんなに長く、先生とやりとりしたのもはじめてだし、この静かに抑えた会話はまるで、内緒話をしているみたいで、……どうにかなりそうだ。

この会話を終わらせたくなくて、永遠にしてしまいたい、でもそんなことは無理だとわかっている、でも、……私は気づいたら、すまなかったな、そう言って横を通り過ぎようとする先生の背中に向かって声をかけていた。

「せ、先生! あの……あの、先生の……好きな作品を教えていただけませんか?」
「! ……驚いたな、オレにテスト情報目当てじゃなくて声をかけてくれるやつがいるとはな」
私の中では、いつか卒業する前にブチャラティ先生に聞いてみたいこととして心のなかでずっと温めていた内容だけど、先生からしたら本当に唐突な言葉だったのにもかかわらず、彼はそれを笑ったりはしなかった。ただ、その私の言葉を喜ぶみたいに、笑ってくれたのだ。
……そしてほかのみんなはどうやら、テストの情報を教えて、というのを口実に話にいってるらしい。そして先生は、その口実のためにだけにあれだけ人気なんだと思っているみたいだった。
……私もそうすればよかった? でも、あんな風に笑ってる顔を見れたんだからきっと間違ってはいない。

「少し、時間くれるか? いくつかリストアップしてみるから」
「は、はい! わかりました! あの……ありがとうございます! 失礼します!」

——足が軽い、踊り出したい、せめて叫びたい、……一生分の運と勇気を使い果たしたような気持ちになった。

ふわふわした足取りのままの日々はしばらく続いて、私はもう、おすすめの作品を教えて欲しいと言えただけでだいぶ満足してしまっていた。その記憶だけで、まだしばらくふわふわとした気持ちでいられる気がした。

「あ、ミョウジ! ちょっと来てくれるか?」

そんなふわふわした嬉しい気持ちでいたら、またいつものように図書室へ向かう廊下を歩いている最中、国語準備室のドアから突然顔を出して来たブチャラティ先生から名指しで声をかけられて息が止まった。
顔が真っ赤になっている気がする、先生の方へ振り返る前に元に戻って欲しいと祈るけど、きっと無理な話だ。
はずかしい、でも呼ばれるがままに国語準備室に足を踏み入れると、……あの日、先生からしたほのかで清潔な香りと、コーヒーの香りが、いやなかたちでなくやわらかに混じり合ったいい匂いがした。

(……先生の、においがするんだ)

気づいてしまってまた顔に血が集まるのがわかってしまう、そんなわたしの一人パニックには気づかないで、ブチャラティ先生はわたしに、綺麗な文字が並んだ紙を差し出した。

「……だいたい小説なんだが、いくつかあげてみたんだ。よかったら読んでみてくれ」
「……は、い……。ありがとうございます!」
「気がむいたらでいいが、いつかぜひ感想を聞かせてくれ」

優しく、わたしの目を見つめながらそう言ってくれた先生に、わたしは頷くので精一杯だった。緊張と興奮でひりひりしながら見つめた先生のおすすめ作品リストは、……「高校生向け」だから選んだ、という本が1冊もないことがわかった。
人の生を見つめる、下手すると暴力も積み重なった重厚な物語ばかりが並ぶそのリストに、……ああ、「高校生」に読ませたい小説じゃなくて、本当に、良いと、好きだと思ったもの、その先生の身となった知識を少し分けてくれているんだと感じる。

たったそれだけ、些細なことなのかもしれないけれど、私はそれが、ブチャラティ先生の知性に触れられたことが、それを私にだけ分け与えてくれたことが、何よりも嬉しかったのだ。