ある日、ブチャラティが任務で腕を折って戻ってきたことがあった。
仕事を終えたブチャラティがアバッキオと一緒にアジトに戻ってきたと思ったら、平然とした顔のまま、片手を三角巾で吊った状態で現れたのだ。そんな姿にびっくりして騒いでたら、一緒になって心配して騒いでたチームの他の奴らとまとめてアバッキオに黙ってろと叱られた。
初めて見たブチャラティのその姿に騒ぐのはまわりだけで、当の本人は折ったのが利き手じゃなくてラッキーだったとか言って随分平気そうだし、片腕になった分を補うためなのか、ふとした瞬間に漏れ出る殺気や油断のなさは増しているようで、仕事中なんかは時に普段よりもうかつに近づけないような雰囲気さえ漂わせていた。
ハンデを負って強くなるのは漫画のキャラクターみたいでなんかかっこいいとは思うけど、何とか口を閉じておく。またしかられるだろうし。
とにかく、ブチャラティは痛みを感じているようなそぶりも見せず、むしろ腕を折ったことで、三角巾をずっと下げてるっていう姿にはなってしまったけれど只者じゃあないっていうオーラは増しているぐらいだ。
腕を折るような怪我なんかしたらわたしだったらしばらくへこみそうだけど、さすがというべきなのか、ブチャラティはまるで平気そうなのだ。
そんな彼の姿を見ていると、……本来なら『骨を折る』なんて怪我がしばらくは痛むものだってことを忘れてしまうくらいだった。
深夜3時過ぎからはじまる厄介な仕事が入ったのは、そのころだった。
内容自体は密輸されてきたもろもろの品をトラックに積み込む手伝いと警護、みたいなものだからあくびしてたってできる内容だ。それでも、時間が時間だ。起きられる気がしないわたしは、家に帰らずにアジトのソファで仮眠をとることにしたのだ。それなら寝坊は絶対ない。なにかあっても誰かが起こしてくれるはずだろう、と。
決して寝心地は良くないはずのソファなのに、横になったら一瞬で寝落ちていたようだ。目覚めたとき、あたりはまだ真っ暗だった。壁にかかった時計に目をやると、まだ2時前だ。もうひと眠りできそうだと身体をもぞもぞさせてから、……小さなソファーテーブルをはさんだ反対側のソファに、ブチャラティがあおむけで転がっていることに気づく。
気付いた瞬間驚きで心臓が跳ねた。黒い横髪がソファの方にこぼれて、彼のきれいな鼻筋と目元がよく見える。外の明かりがわずかに部屋の中を照らすだけの暗い中で、ブチャラティの肌と白い服、そして腕の三角巾が浮き上がって見えた。
何だか身体を動かせないままそれを眺めてると、……ブチャラティの呼吸が、わたしが想像していたような穏やかで規則正しい寝息とは違うことに気付く。一瞬乱れて詰まる息、そして息に混じって漏れてしまいそうなうめきをそっと逃すかのようにゆっくりと、苦し気に吐きだす。
その表情は横顔しか見えないけれど、よく見れば口元は歪んでいて、歯を食いしばっているように見えた。
「……ブチャラティ。……水でも飲む?」
寝起きのかさついてふやけた声でささやくと、ふ、とブチャラティがこちらに顔だけを向けた。
「……起こしちまったか」
勝手に起きただけだと首を振ってみせてから身体を起こす。ソファの上でぐう、と伸びをしてから改めてブチャラティの方を見下ろして、もう一度ささやく。
「……冷や汗、出てるよ」
「…………オレは暑がりなんだ」
「へたくそ……」
――痛くないわけがなかったのだ。わたしが彼に被せた『ブローノ・ブチャラティ』というイメージのベールで痛みやしんどさを見えづらくしていただけなのだとようやく気づいて、心臓のあたりが押しつぶされるような心地になる。
わたしはこれまで、そうやって見えなくしたものがどれだけあっただろう。どれだけ、『ブチャラティ』を取りこぼしてきたのだろう。
「……痛み止めは?」
「…………切れた……」
だから、こうしてわたしの隣で、きっと彼自身も見せないつもりだったつらそうな顔を晒すことになったのだろう。
「……闇医者からもらったやつじゃなくてさ、そこらの薬局で買った痛み止めならあるから。よかったら飲んで。……水に溶かす?」
「いや、そのままでもらえるか。……すまない」
言いながら、ブチャラティもゆっくりと身体を起こして、身体の中に溜まった痛みを口から逃がそうとするみたいに長く息を吐く。
「……今日の仕事、出られなさそうなら無理しないでね。わたしだけなら不安かもしれないけど、アバッキオとふたりなら任せられるでしょ?」
「いや、行けるさ……。それに、お前一人だって、オレはきちんと信頼できるがな」
ブチャラティの声はすごく静かで、まるで夜にとけるようなささやき声だった。だけど不思議なくらい、わたしの耳にはやけにはっきりと聞こえたのだ。身に余るくらいの、手放しで示された信頼の言葉にうまく答えられないままわたしは立ち上がる。
「…………水と薬、持ってくるから」
キッチンへ向かい、ミネラルウォーターのボトルと、軽食用のスナックと同じところに適当に放り込んでおいた痛み止めのシートを掴んで戻る。薬を飲むのだからと照明のスイッチに手を伸ばしかけて、……部屋全体を明るくすると、今は暴かなくていいものまで明るいところに引きずり出してしまう気がして、代わりにソファの奥に置かれた作業用の小さな机の上、デスクライトのスイッチを入れる。暗闇が、不完全なかたちで照らされる。だが手元は見えるだろう。
薬をシートから一粒出して、ブチャラティに手渡す。動く方の腕で受け取った彼が自分の口のなかにその粒を放り込んでいる間にペットボトルのキャップを開けて渡す。舌の上に薬をおいたままで少し喋りにくそうにしつつわざわざお礼の言葉を囁いてから、ブチャラティは透明なボトルに口をつけた。
……片手じゃあ薬一つ飲むのだって手間になるくらいなのだ、いくら平気そうな顔していたって、本当に全部平気なはずがない。
ブチャラティは強いひとだから、そんな思いが、当たり前のことまで見えなくさせていた。
小さなライトで照らされたからか、ブチャラティの顔にかかる陰影が濃くなって、余計につらそうな表情に見えてしまう。
だけど、もう目をそらす気にはならなかった。彼がわたしから手渡された薬を飲み込むまで、そのままじっと見つめていた。
この真夜中、ここにあるのは静けさだけだった。
水を喉を鳴らして飲み込んだブチャラティがそっと息を吐く音を聞く。それから彼はもう一度、ゆっくりと身体を横にした。なんとか一息はついたけれど、ライトに照らされると暗闇で見ていたときよりはっきりわかる汗が、頬にも、開いた胸元にもうっすらと浮かんでいる。
「……ブチャラティ、汗かいてる。……わたしが拭いていい?」
「いや……汚ねえだろ、自分でやるさ」
「……」
ブチャラティが汚いことなんてないから無理やりだって拭いてあげたいけど、その一歩を踏み込む勇気がいまのわたしにはなかった。ブチャラティが取ってくれと言った彼のタオルを無言のまま掴んで、ソファの方へとそっと柔らかに放り投げた。
ふと、窓の外に目を向ける。相変わらず音はなく、星も見えない、紺色に塗りつぶされた空だけがある。
任務への出発時間はまだ遠い。夜の一番深い時間までは、まだ。
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jo夢ワンドロワンライさんにお題「憧憬」で参加作品