再生 - 1/2

彼女が自宅から一番近いコインランドリーを訪れたのは、このネアポリスに今も降り続く長雨のせいで洗濯ができなかったから、ではない。
ただ彼女がよそ者で、見知らぬ誰かと見知らぬ土地での短いルームシェアを繰り返して部屋を転々とした後、ようやくここネアポリスに腰を落ち着けたばかりだったからだ。

本当ならば、こんな雨の夜に洗濯物を詰め込んだビニールバッグなんか抱えて歩きたくはなかった。ただでさえ治安が良いとは言えないネアポリスにいるということは重々承知だった。だがこんなことになった理由としては、引っ越しにまつわるこまごまとした手続きを片付けていたというのが一つ。そしてもう一つは、……明るい中を歩く方が、自分を追ってくるかもしれない男に見つかるようでかえって恐ろしかったからだ。

近くにあるコインランドリーは、服屋や美容院、売ってるものが本物かどうか怪しいような腕時計と携帯電話が並ぶ店など、こまごまとした店が並ぶ小さな路地の中にあった。夜になれば礼儀正しくシャッターを下ろすその店たちの間から、真夜中過ぎても開いたままのコインランドリーだけがひっそりと店の中の白い蛍光灯の光を通りに向かってこぼしていた。

彼女がその店を訪れた時、中には先客がいた。自分の洗濯が終わるのを待っているのだろう、彼は洗濯機と反対側の壁に無造作に置かれたスツールに腰掛け、足を組んだまま手元のペーパーバックに視線を落としていた。つややかな髪が、下を向く彼の顔を隠すカーテンのように重力に沿って流れる。
ただ時間を潰しているだけのはずのその男の姿はひどく美しかった。雨に濡れたガラス扉の向こうからでもわかるくらい、すらりと伸びた足、本を覗きこむために少しだけ丸められた背中のカーブ、伏せられたまつげが影を投げかける瞳。テレビや映画の中にしかいない人間が、突然街中に突っ立っているのを見るような奇妙な感覚だった。……街の風景と馴染んでいるはずなのに、目の前の存在が自分と同じ地平に立っているのがなんとなく信じられないような感覚。今まで見た中で一番きれいな人間だと、自然とそんな言葉が頭の中に浮かんだ。
とにかく狭くて、唯一の光源である蛍光灯ですら暗いコインランドリーの中でもその姿はくすむこともなく、組まれたことでその長さがよく分かる彼の足のシルエットを、彼女はコインランドリーに入るための扉に手をかけたままぼんやりと見つめていた。
きっと普段だったらガラス越しとはいえそんなまじまじと他人を見るなんてふさわしくない振る舞いだ、……しかも、夜中のネアポリスでは余計に。それくらいわかっていたはずだった。

自分を見つめたまま呆然と立ち尽くす女の姿を視界の端に捉えた男――ブローノ・ブチャラティは、コインランドリーの中でふとペーパーバックから顔をあげた。切りそろえられた髪が持ち上がり、さらりと違う角度で流れる。こちらを見つめたまま動かない彼女の姿を捉えて最初に頭に浮かんだのは、薬の中毒症状が出ているのか、だった。
だがそれならば外にいるままにさせるのはよくない。そしてこんな夜中にうろついている中毒患者となればホームレスだという可能性もおおいにあった。こんな雨の夜だって、ホームレスがコインランドリーで雨宿りをしていると追い出される可能性がある。だが、オレの連れということなら追い出されることはないだろう。それに、話の流れでは麻薬厚生施設の紹介だってしてやれるかもしれない。確か、職業訓練も受けられる施設の空きがあったはずだ。
……そういう紹介は、徒労に終わることの方が多かった。麻薬を断ち切って職業訓練を受けたところで就職できるとは限らない。その努力をしている間に心がポッキリと折れてしまって施設から逃げ出して、また麻薬を手にするために街に戻る。
そんなのが一人や二人じゃあないことはわかっていた。だが、なかなかうまくいかないからといって諦めることはできなかったのだ。

雨の中洗濯ものが入ったバッグを持ったままぼんやりとしている彼女を改めて見つめて、ブチャラティは軽くにこりと微笑んでから立ち上がった。ガラス戸に手をかけてさあ中に入れ、そう言ってやるつもりだったが、ガラス越しではなく直接自分に見下された先の彼女の姿を見て、ブチャラティは一瞬固まった。
彼女は、ひどく怯えた表情で彼を見返していたのだ。……確かに身長差はあるだろう、だが見た目はそれほど威圧感のあるタイプではないと自認していた。その外見は街中で人々と言葉を交わすときにはとても役にたったし、同業者相手にはそのせいで苦労したこともあった。
だが、……彼女はとにかくひどく怯えていた。怯えた目がサッと動いてその視線がガラス戸にかけた自分の手のひらに向けられるのを見て、ブチャラティはそっと手のひらを自らの背後にまわしてから言った。

「洗濯機なら空いてるぜ。……それに、コインを両替しすぎたんだ。もし迷惑じゃなかったら何枚かもらってくれないか?」
「あ……えっと……あ、ありがとう……」

声をかけられて、恐る恐る、というようなやり方で彼女はコインランドリーの中に足を踏み入れた。使ってくれ、そう言いながらブチャラティは洗濯用のコインを彼女に手渡そうとして、……その代わりに服をしまい込むために置かれたの台の上にコインを滑らせて彼女の方に差し出した。更に戸惑った顔をするのに、もうオレの洗濯は全部終わったんだ、普段からここを利用するわけじゃないから、などいくつか言葉を重ねて半分無理やり受け取らせた。彼女が自らの服を洗濯機に放り込む姿を後ろから眺めているが、着ている服も擦り切れているわけではなく、質素ながらきちんと手入れがされていた。いまのところホームレスというわけではなさそうだ。

それならば、ひとりでここに佇んでいても追い出されることはないだろう。……それに、蛇に睨まれたネズミのように縮こまってしまう彼女の姿が哀れで、そして女性が服を洗うのを二人きりの空間で眺めているのも失礼だとブチャラティは立ち上がった。この街で暮らすならきっとまた顔を合わせることはあるだろう。……麻薬について探りを入れるのなら、その時でも良い。

「……すまなかった。こんな夜中に、知らない人間と二人きりは不安になるよな。どうか、オレは出てるからゆっくりしていってくれ」
「いえ、あの! わたしが後から来たんだから! 気にしないで、大丈夫だから。この雨だし、本当に……」

彼女から返ってきた言葉は想像していたものとは違っていた。一瞬驚いた顔をしてから、ブチャラティは少し眉を下げて柔らかく微笑んだ。

「……いや、オレが出る。こんなこと言われるの嫌かもしれないが、すごく……怯えてる顔に見えたんだ」
怯えている、そう言われた彼女は少し眉を持ち上げる。……その仕草はまるで、自分がそんな顔してると気づいていなかったとでもいうような驚きをたたえていた。
「ゆっくりしていってくれ。オレは洗濯が終わる頃に戻るから。どうか気にしないでほしい」

そう言って出ていこうとするブチャラティを、彼女は確かに驚きに満ちたまま見返していた。
『怯えた態度』を見せたとき、これまでの人生で与えられるのはたいていろくでもないものばかりだった。怯えの感情は、つけこまれるものでしかなかったのだ。
緊張していて自分の顔にまで意識がいっていなかった上、なんとか自らを鼓舞して大丈夫だやっていけているはずだと思い込んでいたし、目の前の男が見せた態度があまりにも自然で、ああきっとなんとか〝普通〟にやれているはずだと彼女は思いこんでいたのだ。

だが、彼はこちらが怯えた顔をしているのもわかっていて、それでもそれを気にかけはしても心配するような声をかけただけで、付け入るような態度はひとつだって見せなかった。そこにはあくまで対等な人間同士のやりとりがあるだけだった。

ブチャラティからしたらそれは当たり前の態度だった。だが、どれだけその態度が彼女にとっては新鮮で、そして人間としての呼吸の仕方を思い出させるものだったかを、彼はきっと知らない。
弱みを見せるということが何かを奪われることと同義ではないことを、彼女はその短いやり取りで思い出すことができたのだ。

「あ、あの! 待って!」

彼女は、立ち上がったブチャラティにむかって、咄嗟に小さく叫んでいた。

「ちょっと色々あって、あの、……あなたの言うように、ちょっとひとが怖いのは確かです、でも……そんなこと言ってくれる人なら怖くないから、」
(……ああ、何言ってんだろ)
どこか冷静になっている自分にも気づきながら、それでも熱に浮かれるように彼女は言い切っていた。
「……洗濯が終わるまでの間、いやでなければ、……一緒にいてくれませんか? ……必要なら、お金も払うから!」

あまりにも必死なその言葉に、ブチャラティは反射で痛みを耐えるときのやり方で目を細めた。何があったのかは定かではないが、これだけ普通ではない発言をしないといけないくらい不安で、そして心細いということだけは理解できたのだ。ホームレスでないとしても、彼女にはなにかがあることは確かだった。

「金なんていらねえよ、だが確かに……今、あんたを一人にしておけないな」
彼女がさっきの一言を言い出すにもひどく緊張した様子なのは見て取れた。ブチャラティは静かに言葉を返しながら、彼女の目を見て微笑んだ。

「オレの名はブローノ・ブチャラティ。ここいらの人間はみんなオレのことを知っているから……違うな、いまの言葉だと脅したように聞こえたか?」
彼は言いかけてから、はたと何かに気づいたように言葉を切った。彼女はそれに小さく首を振った。だが、ブチャラティは自分の言葉の軌道をなんとか戻そうと、手振りをつけながら次の言葉を探すように続けた。
「違うんだ、……もしも、ああ、ほら……二人きりだろ、君が嫌な思いをオレからさせられたら、街の誰に相談してもいい。きちんと君の言葉を信じてくれるだろうって、そういう意味なんだ……怖がらせてたらすまない」
先程までの、手元の本を見下ろしていた鋭い目線が嘘のように、ブチャラティはすまなそうに柔らかく眉を下げた。その仕草を見ていたら、彼女からしても怖がることなんて到底無理だった。普通に街を歩いているのが不思議なくらいきれいな人、という彼女がブチャラティに対して最初に抱いた印象に、この短い会話で親しみを込めて付け加えられたのは「変な人」という印象だった。きっとブチャラティがそれを聞いたら、一瞬驚いた顔をしてから破顔しただろうが、もちろん彼女はそのことを彼に伝えることはなかった。

代わりに、彼女は自分も自己紹介をと口を開いた。

「わたしは……」

だが、そこから続けようとして彼女はだまりこんだ。正確には、言葉を発しようとしているはずなのに、口がまわらないことに気づいたのだ。
〝自分の説明〟をしようとすると、ひどく息が苦しくなる。……一体どこから話せばいいのだろうか。過去のどこからどこまでを切り取れば、これが自分だと言い切れるだろうか。
ネアポリスには、故郷から追われるようにたどり着いた。――突然殴られるのが日常になり、それが日常の風景だとしても、傷つけられるようになってからの自分をうまく受け入れることはできないままだった。もっとたくさん、好きなことやできること、やっていた仕事、色々なことがあったはずなのに。それがわたしだったはずなのに。あの〝暴力〟の経験を通過してしまった今、それを自分だと認めてしまえば、〝傷つけられた自分〟だけしか残らないように思えた。そして傷つけられていたのは他でもないこの私自身だと、自ら認めるしかなくなるようで――。
その逃げ場のなさに途方にくれたとき、言葉は彼女の頭の中から何一つつかめないままスルスルとこぼれ落ちて行くようだった。

さっきドアを開けてやったときのような怯えを瞳にたたえて黙り込んだ彼女を見つめながら、ブチャラティは柔らかに囁いた。

「じゃあ……こうしよう、いま聞いた俺の名前も一旦忘れてくれ。……オレに本当のことを言う必要はないんだ。だから、本当のことを言わないためのルールを作ろう。例えば……何がいい? 何になりたい?」
そう言われた彼女は、言葉の意味がうまく理解できないとでもいうように一瞬戸惑った顔をした。ブチャラティは微笑んだまま続ける。
「なにか、別の人間になって話してみるのはどうだ? いまだけ、ここで話すときだけの別の人間として振る舞うんだ」
「……何に……」
まだ理解の追いつかない彼女を置いて、ブチャラティは一人考え込んでから続けた。
「俺は……そうだな、わかった、『街の花屋』だ。今から花屋になろう。今日のおすすめの花は……そうだな、バラかな」
ブチャラティのその声は、花屋にしては少し艶を乗せすぎたような、低く優しい響きだった。
「なあバラはどうだい? シニョリーナ。今日入ったのはとっておきのバラだぜ、ほら」
ブチャラティがそう囁いてから、後ろ手に回した手を再び彼女の前に差し出したとき、その手には確かにバラが握られていた。ブチャラティは軽くそのバラに音を立ててキスをのせてから、突然現れたその花に目を丸くする彼女に手渡した。

「すごい! ……これって、手品…!?」
「さあ、どうだろうな? 今のオレは花屋だから、これくらいはできるってことだ」

ブチャラティはそう言って、いたずらがうまくいった子供のように微笑んだ。その笑みは、彼女の怯えに満たされた心を違うもので満たすのに十分な力を持っていた。

「私は……りょ、旅行者」
「そりゃあいいな、よろしくな、旅人。ネアポリスは初めてかい?」
「そ、そうなの! 来たばかり。だからなんにも揃ってなくて、洗濯も外でしなくちゃって……こんな遅くになっちゃったけど、もう着る服もなくなっちゃって」

先程までよりもするすると言葉が発せられるようになった彼女を見て、ブチャラティは素直に微笑んで見せた。その調子だ、そう伝えようとするかのような笑顔に、彼女は洗濯の準備をしながら〝旅人〟としてぽつりぽつりと話しはじめた。

「なんだか、行くんなら明るいところがいいなと思ってネアポリスにきて」
「……それじゃあ、出身は北の方だったりするのか?」
「そう。ミラノのはじっこ」
「ミラノか。いい場所だな」

彼女とブチャラティは、素性を隠したまま、何が嘘か誠かも言わずに言葉を交わしていた。洗濯機の中で自分の服が激しく回転させられ泡にまみれながらも、外にはほとんど音がしないのをどこか不思議に思いながら、彼女は自分からしても見知らぬ旅人として話を続けるうちに不思議な感覚になるのに気づいていた。ブチャラティと話をしているこの身体から自らが遊離する感覚。会話している二人を俯瞰して上から見ているようなその感覚になるのは、不思議と不快でも不安でもなかった。全部嘘でも良くて、全部本当でもかまわない。〝私〟である必要もない。ただ、人と会話することの、自分の言葉を静かに聞いてくれる人のいる夜の温かさを、彼女は静かに思い出していた。

そして〝他人〟として過ごしていると信じている彼女が思っているよりも多くのことを、ブチャラティはこの奇妙なやりとりの中から汲み取っていた。ごまかそうとしたり事実と異なることを言おうとするときに、一切のためらいもなく言える人間は少ない。彼女はおそらく、別の人間の口を借りるかたちでなんとか自らのことを語っているのだ。それはつまり、自分自身のこととして語るには辛いものを抱えたままでいるということと同義だ。
それに気がついたブチャラティは、彼女に気づかれないようにその痛みを思って再び目を細める。
もともとの会話の目的であり、ブチャラティが彼女について一番知りたかったのは麻薬を使っているかどうか、だった。使っているのだとしてももちろん叱りつける気はなかった。ただ、しかるべきところで治療を受けるべきだと思っていた。すべての人々をそうやって救うことはできない。ただ、それが偶然の出会いだとしても、自分が見えている範囲のなかで、すくい上げた指の間からこぼれていく砂のように誰かの悲劇が見過ごされることは我慢がならなかったのだ。

だが、彼女の抱えているものはおそらくクスリではない。じゃあ何だ、何に怯えているのか。それは一晩ではたどり着けるものではなさそうだった。
会話を通してわかってきたこと。ミラノのあたり、北イタリアで育ったこと、地元にお気に入りの移動コーヒースタンドがあったこと、ミラノでたくさんの散歩中の犬とすれ違うたび、犬が飼いたいと思っていたこと、ネアポリスで暮らし始めたのは本当に最近だということ、そして――あれだけ挙動不審で緊張をみなぎらせていた彼女が、会話の中で少しずつ表情を和らげていったということだった。

今はそれだけで十分だった。一晩で、他人のすべてを知ることができるなんて大それた考えをもっているわけではなかった。ただ少しずつ知ることができればよかった。

洗濯の終了を告げるランプが、彼女が洗濯物を放り込んだ台に灯った。ブチャラティが使用していた洗濯機もいつのまにか乾燥まで完了していて、二人は自分の荷物を抱え直してコインランドリーをあとにする。
外の雨はすでにあがっていて、濡れた石畳が暗い街頭の光をあちこちに跳ね返してきらきらと輝いていた。

「……なあ、オレは今日あんたと話したのが楽しかったんだが、そっちは?」
「…………わたしは……凄く、感謝してる。人とこんなに話したの、久しぶりだから」

その言葉に、ブチャラティはゆるく微笑んで見せた。その笑みに誘われるように、彼女は囁いていた。

「また、ここで会えるかな」
「……君が望むなら、いつでも」

ブチャラティからしたら彼女についてまだ知りたいこと、知らなければならないと思っていることがたくさんあった。そして彼女からしたら彼とこうして話すことは、本人が気づいていないにしろ一種のセラピーのような効果があった。
そしてふたりは、また同じようにこのコインランドリーで言葉を交わすようになったのだ。