再生 - 2/2

ふたりの間で交わされる会話は、出会った日と同じく「別の人間」として話すというルールのもとに交わされていた。
その中で二人は同僚になり、敵同士になり、時に他人になった。
出会った当初、おびえたネズミのようになっていた彼女は、コインランドリーにやってきた人間がブチャラティだと視認するまでの一瞬はまだ怯えが隠せないままだが、それがブチャラティの姿だとわかってから一瞬で緊張がほどけていく様を見せるようになった。その様子はブチャラティにとって嬉しいものでもあったが、そんな風に自分にだけ心を許す野生の動物のような姿を見せる彼女に、一緒に過ごしても何もできていない自分をどこかふがいなく思っているのも事実だった。

だが、変化は確実にあった。いつしか二人の奇妙な会話は、本の貸し借りや、帰宅しようとして突然降り出した真夜中の雨のせいでコインランドリーに閉じ込められて数時間をともに過ごしたり、バールで買ったコーヒーを彼女がブチャラティにふるまったりといったいくつかの行動を経て、コインランドリーの狭い店内から出てネアポリスのリストランテでも繰り広げられるようになっていた。

リストランテでにこやかに会話するふたりの姿は他人から見れば恋人同士のやり取りに見えただろう。
ただ、そうでないことを二人は知っていた。あくまでも今の二人は〝養豚家仲間〟だった。
いかにそれらしく振る舞えるかが重要で、こうして他人として、自分が考え付きもせず選ぶこともなかった人生の中にいるような振る舞いをしていると奇妙な高揚が生まれるのだった。役者というものはその感情の浮き上がりに勇気づけられて舞台に立っているのだろうというのが二人の結論だった。

だが、はじめはよい考えだと思えていたそれが本質的にはひどく寂しいことだと、お互いの人となりを会話にのせられた言葉や見せる表情から知ることができても、その「他人」としてふるまうために読んだこともなかった本にふれることが楽しいと思えるようになっても、今目の前の相手の存在にことばで触れることができないことは寂しいことだと、そして自らの素性を語らないことをどこか裏切りのように思うようになるのだと、ブチャラティも彼女もそうなるまで気づかなかったのだ。
はじめに会ったときのようにブチャラティは彼女が麻薬かなにかの常習者でも、ホームレスでもないことはもう知っていた。はじめに自分の中で掲げた「彼女をより知るための理由」がすでに瓦解していることには、もちろん気がついていた。

そんな「寂しさ」に気づいてしまったあとのある日、二人がいたのはブチャラティの部屋の中だった。その日の二人はブチャラティが教師で、彼女の方は図書館司書だった。ブチャラティのような教師がいたら嬉しいから、彼女のそんな言葉からはじまった戯れだった。

数日前、まだ教師ではなく〝服屋の主人〟だったブチャラティが、良い魚を地元の店から分けてもらった、アクアパッツァにするつもりなんだ、そうこぼしたのを聞いて彼女が目を輝かせたのを彼は見逃さなかった。

「……一人で食べきるには少し大きすぎると思っていたところなんだ。よかったら、……料理を手伝ってくれないか?」
ああ、なんてスマートさのかけらもない誘い方なんだ? だが、今何より一番大切にしたいことは彼女を傷つけない、ということだった。他のことはすべて後回しにしたって構わなくて、もう一歩君に近づきたいのだと、その意図さえ伝えられればそれでよかった。
「……アクアパッツァって……切って入れるだけなのに、手伝いが必要なの?」
いたずらっぽくそう返されて、ああ、まだ部屋に呼ぶには早かったかと自己嫌悪に近い感情がブチャラティの身体に、まるで心臓にたらされた一滴の毒のように広がりかける。
「……ああ。オレがサボらないか見ていてくれる人間が必要なんだ」
そうささやくと、彼女はふっと息を吐いて笑った。
「……それなら、仕方ないね。ごちそうになろうかな」

そうして、教師の部屋に図書館司書がやってくることになったのだ。

彼女が部屋に来たとき、緊張していたのはブチャラティの方だったかもしれない。
あの雨の夜の、ひどく張り詰めたギリギリの表情を見ていたからこそ、少しずつ距離は詰めてきたとはいえ他人の部屋に入ることが怖くないだろうかと気をもんでいたのだ。
だが、それも杞憂で終わった。はじめこそ緊張した面持ちをしていたが、彼女からしたら見慣れない魚を慣れた手付きで捌いていくブチャラティを見つめているうちに、だんだんとこわばっていた表情は緩んでいった。

魚を切り分けてしまえば、後はいくらかの野菜と貝類と一緒に煮てしまえば終わりだ。彼女が言ったように手伝いなんて必要はなく、出来上がるまでは彼女が持ってきたワインを二人でキッチンに立ったまま口にしつつ、鯛とオリーブオイルの香りが部屋を満たしていくのをかぎながらぼんやりと過ごすだけだった。
だが、ブチャラティも彼女も、そのおだやかで静かな、しかし目的のある時間を心地よく感じていた。

「なあ、オレは……。変かもしれないが、君とこうして話をするのがすごく楽しいんだ。普通に話すよりよっぽど、君のこともわかるような気になっちまう」
「……わたしもそう思ってる。いやもちろん、他の人から見たら変なことしてるなってわかってるんだけど、きっと誰より、あなたが私のことを知ってくれてるんだと思うよ」
彼女は、静かに息を吐いてから、ワイングラスを一度テーブルに置いてからブチャラティを見上げて笑った。
「……あの夜からずっと、一緒にいてくれてありがとう、ブチャラティ」

――彼女が「ブチャラティ」とその名を囁いたのは長くともに過ごしてきてそれが初めてのことだった。花屋さん、先生、警部補、それぞれのシチュエーションにあわせての呼び名だけを頑なに使っていたはずの彼女に自身の名前を呼ばれる――。

それは、ブチャラティに想像していた以上の感情をもたらした。
そしてこの対話は、彼女と――〝自分〟が出会うまでの、長い通路だったのだと気づく。自分と彼女、どちらが伴走者だったかも今となってはわからない。だがようやく、お互いのもとにたどり着いたのだと、そこでようやく理解する。
手のひらで自分の口元のあたりを覆ったのは、勝手に浮かびあがった笑みのせいだった。隠したところで何もかもバレているのはわかっている、彼女のいたずらっぽい笑みがこちらを見つめていたのだから。

彼女とまっすぐ視線をあわせる。まるで磁石がお互いの身体に仕込まれているみたいだった、自然に身体を寄せ合って、ブチャラティは片手に掴んだままだったワイングラスを彼女のグラスの横に置いた。
ゆっくりと彼女の身体に手をまわす。おずおずと、彼女の方からも腕が伸びてブチャラティの背に回された。友人になってからは長いはずなのに、ハグをするようになるまでこんなにかかってしまった。……だが、今となってはそれでよかった。それだけで、こんなにも彼女とのふれあいが愛おしく思えるのだから。

「……急、だったら……言ってくれ」
かすれた声でささやけば、ブチャラティの前で彼女は赤い顔を横に振った。それからブチャラティは少し背を屈めて、彼女の顔に自分の顔を寄せる。それから頬に手を寄せて――。

だが突然、ブチャラティの手のひらは彼女の手によって叩き落とされた。甘いムードは一瞬でかき消え、二人ともに冷水がぶちまかれたかのような空気に変わる。
咄嗟に彼女と距離を取る、ああ傷つけてしまったのか、早すぎたのか――。

ブチャラティが覗き込んだ先、彼女の顔に浮かんでいたのは――絶望だった。
彼とならこれまでのことを乗り越えられたはずだと信じていたはずなのに、今自分が取ってしまった拒否の行動に、彼女は絶望したのだ。

ブチャラティの脳裏に浮かぶのは、出会いの日の光景だった。自分の手の平を見つめて、怯えた顔をした彼女の姿。咄嗟に、再び自分の手のひらを自分の背後に回す。

「ブチャラティ、ごめん、わたし……!」
「いいんだ、君の……せいじゃない」

どんなに怯えた顔をしても、彼女はこれまで崩れきることはなかった。どうにか気丈であろうとしていたのを、ブチャラティは知っていた。だが、今の彼女は彼の前でボロボロと涙をこぼしながら謝罪の言葉を繰り返す。

「ごめん……、ごめんなさい……。いまのはブチャラティの手だってわかってるのに、……男の人の、手が、まだ怖い、みたいで……」
言ってから、彼女は更に顔を歪めた。息すらうまくできなくなっている彼女を見ながら、ブチャラティは彼女をこの手で抱き寄せることすらできない事実に再び打ちのめされていた。
少しでも、彼女の心の中の恐怖を和らげることがこの自分にできたのではないかと信じていた。だが、それはただ自分で思い込んでいるだけだった――。
無力感に苛まれながらも、ブチャラティは自らの手のひらを彼女からは隠したまま、そっと彼女に近づいた。拒否はされず、彼女の方からもブチャラティに一歩身体を寄せた。ブチャラティは服がふれあうくらいの距離で、うつむいてこぼれた涙を必死に拭う彼女のそばにいた。体温を分け合うような距離だ、本当なら強く抱きしめたいと、抱きしめられるくらいの距離なのにと思いながら。

「……いつも、殴られてた。……義理の、兄に」
彼女は、うつむいたままぽつりと囁いた。ブチャラティはその言葉が今この瞬間発せられた意味を思い、浅くなる自分の息づかいを感じながら彼女の声に耳をすませる。

「……これはネアポリス図書館司書としての話じゃない、わたしの……わたしの話」
自分の話、そう言った彼女がどんな覚悟でその言葉を発したのか、わからないわけがなかった。
「……聞かせてくれ。君が……オレに聞かせたいと思ったところだけでいいから。……どうか、」

そして彼女が語って聞かせたのは、彼女の義理の兄――姉の結婚相手からの、苛烈な暴力の記憶だった。その男は家族になったのならばすべて〝自分のもの〟になるべきだという一方的な考え方でもって、彼女と、そして彼女の姉を支配した。
言葉の暴力と、身体に加えられる暴力。殴る真似をされてびくついた姿を見られたときの、耳につく笑い声。

彼女がその暴力について語るたび、その痛みはブチャラティに伝播するかのようだった。抱きしめられないかわりに、ブチャラティはうつむいた彼女のつむじに自らの額を押し付ける。……人は勝手だ。自分自身が、なにかを守るためだとしても暴力をふるって生きてきたというのに、その人を殴りつける拳と、彼女の頬に触れようとした手のひらが同じものだと、きっとこの瞬間までうまく理解できないで生きてきた。

「……辛かったな」
言葉を切った彼女にブチャラティがまず言えたのは、この一言だった。たったこんな言葉しか言えないのか、そう思っていたブチャラティの目の前で、彼女は驚いたように顔をあげた。
その瞳は涙で濡れ赤く充血していたが、その顔はまるで妖精でも見たような、信じられないものを見た瞬間の表情を浮かべていた。

「……本当のことだと思ってるの?」
「…………君の言葉に、嘘はないだろ」

ブチャラティのその言葉に、彼女は彼の方を見つめたまま再び顔を歪めると、ひどくかすれたささやき声で続けた。
「……誰も、……殴られたって言った私の言葉を信じてくれなかった。あの人がって、あんないい人が、って言って、……誰も私たちの言葉を聞こうともしなかった」
彼女はそう言って、再び顔を下に向けた。それから、ブチャラティの身体にそっと自分の頭を寄せる。傷ついた動物のような仕草に、ブチャラティは一瞬呼吸を乱す。
「殴られるよりつらかったのは……私たちが痛いと思ったことも何もかも嘘みたいに、なかったことにされることだったんだ」
声に出してからようやくそれに気がついたとでも言うように、彼女はぼんやりと続けた。

自らの拳の暴力性を忘れていたのと同じだと、ブチャラティは咄嗟に思った。開く前に口を閉ざされて、振り上げる前にこぶしを押さえつけられる、そんな人間がいることを、自分はどれだけ理解できていたというのだろう。
対抗する力を持てたこと、覚悟を持てたこと、自分の道を信じるように生きられたこと、……それはきっと自分自身だけで得られたものではない。その萌芽はきっと、父や母が与えてくれた世界から始まっていたのだ。そしてそうやって立ち上がる力を持てたのは、周りの人間が尊敬できる存在だったという、ただの運だ。
ブチャラティは彼女に見えないように後ろに回した自分の手に思わず力を込めていた。握りしめた拳の中で、切りそろえられた爪が手のひらに食い込む。

「……私が黙れば、黙って記憶の奥に押し込めればなかったことになる? 私の傷も、何もかも……なくなってほしいって、祈っただけだった」
「……君は、どうしたい」
「…………憎い、あの男が、……憎い。……でも何もできることなんてなかった」

そうして逃げて、ネアポリスにたどり着いた。逃げることしかできなかった。そう続けた彼女から、自身の姉についての話が出ることはなかった。――彼女はまだ、姉について語る言葉を持たない。ブチャラティはそう理解した。

ブチャラティは、自らの腕を背中に回したままで彼女の目の前に片膝をついてしゃがみこんで、彼女の濡れた顔を見上げる。
「正義と正しさは、時折同じものを指し示さないことがある」
彼女は目の前で囁かれたその言葉に、腫れたまぶたでブチャラティを見つめ返す。その視線に、まっすぐに強い瞳を向けながらブチャラティは低い声で囁いた。

「君が望むなら、君にその覚悟があるのなら、……オレは今度は君の悪霊になろう。君の求める呪いになろう」

言葉は、少なくてよかった。引き結ばれた口元から紡がれたのは、いつかの夜に彼女のために花屋になろうと言い出したのと同じ目的でありながら、まったく違う一言だった。
ブチャラティの鋭い眼光が彼女を射抜く。だが、恐ろしいことなんて何もなかった。そしてブチャラティが何をしようとしているのかも、言外にそこから見て取れるようだった。

彼女は返事の代わりに、自分の目の前にしゃがみこんでこちらを見上げるブチャラティの顔を熱くなった手のひらで包み込んだ。そして彼にわずかに微笑んで見せてから、そっとまぶたを伏せたブチャラティに口づけた。泣き濡れて熱くなった彼女の口内と、ブチャラティの張り詰めた精神にさらされてかさついた彼の口元が、何度か重ねられた口づけの中で同じ温度に混ざっていく。

「……でも、私が……望んでも、あなたは私の呪いじゃない、悪霊でもない」
キスの後になんとか絞り出すように発せられた彼女の声は、ひどくかすれていた。それでも、その声には毅然とした態度があった。
「…………その、とおりだ。オレができることは勝手に動くだけだ。君が、何を負う必要もない。オレがそうしたいと願ったことを、君のためだと……」
「違う! そうじゃない」
彼女はブチャラティの言葉を遮ると、まだひざまずいたままのブチャラティの額に自らの額を寄せた。
「……あなたに、〝私〟の話を聞いてもらえるまで、私はずっと暗い中にいた」
言葉を否定されることは、存在を簒奪されることと同義だった。いないものとして扱われてきた彼女を救いだしたのが、ブローノ・ブチャラティだったのだ。
「でも、ブチャラティ、あなたが照らしてくれた。ここにいるのだと教えてくれた」
ブチャラティは小さく首を振った。違うんだ、自分自身を再び見つめ直して、語ることを選んだのは君だ――。そう囁いた声に、彼女はそれに肯定も否定もせず、ただわずかに微笑んだ。

「呪いも悪霊も、求めたのはあなたじゃなくて、それはきっと私だ。それは私の呪いだ。あなたは呪いなんかになりえないよ、ブチャラティ。……だってあなたは私の祝福、私の希望、私の光――」

柔らかな言葉がそれこそ光のように降り注ぐのを聞きながら、額に押し付けられた彼女の額の熱さを感じながら目を閉じる。そしてブチャラティはひとり心の中でささやく。

『……きみにかけられた呪いを解くために。君が望まないとしても、それでもオレはオレ自身で、君のための呪いとなろう――』

再び瞳を開いたとき、彼の中ではすでに――何かが変わりはじめていた。

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