AM5:35

冷たい空気の層を、重い足取りでかき分けるように一歩ずつ何とか歩いてゆく。ああ、……だめだ、眠い。とにかくへとへとだった。油断すると立ったまま寝そうだ。
空気まで青い夜明け前の世界を、無言のままブチャラティと連れ立って歩く。今、お互いが発するのは普段よりもなんだかペタペタして聞こえる足音だけだった。……足を綺麗に持ち上げる元気もないのだ。
星をたたえた夜は去り、青白い空には夜に取り残されたいくつかの星と、薄く白い丸になってしまった月があるだけだった。
隣を歩くブチャラティのさらに奥、遠くの水平線には朝焼けの太陽の気配があった。青の奥から、空が少しずつ白に光りはじめている。

夜明け前のネアポリスは、普段の口を閉じておけない子供のような騒がしさを忘れて静謐な青に満ちている。私はこの時間が好きだった。

でも、そんな美しい風景に似合わないくらい今の私はひどい姿だった。暴れまわって増えた運動量のせいでかいたさらさらした汗も、痛みでかいたべとべとの冷や汗も全部混じって乾いて結局服も肌もべたついている。 
髪だってそんな汗と夜の店特有のヤニと埃が混じった何かで固まって、少し触れるとなんだかバリバリとした感触になっていた。……軽く頭を振ったら少し臭った。本当にひどい。
こぶしだけじゃなくスタンドまで酷使したから全身の疲労はもう半端じゃない。空気ですら重くのしかかってきているようだった。息を吸うと肋骨のあたりが鈍く痛む。これは空気の重さの比喩じゃなくて、ただ殴られたせい。

あまりにも重くなった足に雪山で遭難する人間のような気持ちになりながらも、なんとか一歩ずつ前に前にと進んでいく。そうしながらぼんやりとその水平線を見つめていると、
「……あ、」
ぽつりと私の口から声がこぼれた。海のふちが一瞬きらりと光ったと思えば、少しずつ太陽が浮かびあがってきた――。
朝が街を満たす瞬間に、私はいるのだ。

「……いいもん見たな」
隣でブチャラティが、私が漏らした声につられるように海の方を見つめながらぼそりとつぶやく。うん、本当にいいよね。すごくきれいで、胸がすうっとする。
そんなこと言ってやりたいけど、疲れ果てた今それも難しそうだし、きっと言わなくたって彼ならわかってくれる。だから私はただ、ブチャラティに向かってうなずいて見せた。

今日、私とブチャラティが巻き込まれたのは……ひどい喧嘩、っていうかあんなのはただの殴り合いだった。
普段なら、一晩中の夜勤だっていったって店の入口にただ立っていればいいから、この賭場の警備の仕事は気に入っていたのに。ガラが悪い奴が来たら(整った顔したブチャラティと女の私、クソ野郎っていうのが揃いも揃ってナメてかかるタイプの二人が揃っていた、今思えば)丁重にお引き取りを願う、……大体は一発か二発食らわせて放り投げる必要はあったけれど。

本当ただそれだけでイイから気が楽だったのに、今日はたまたまツイてない夜だった。負けて店の中で暴れてたから〝一発二発食らわせた〟チンピラが、腹いせに仲間連れて殴りこんでくるなんて――。
「なんか……マジで用心棒みたいじゃん! そんなの!」
「ああそうだ。オレたちはマジの用心棒なんだよ、……ようやく分かったのか?」
ブチャラティが私の最後の力を振り絞って叫んだ独り言に律儀に返事してくれたのに、首をすくめて返す。

「……風呂」
今すぐ入りたい、もう無理、それを省略してつぶやく。
「……寝たい」
ブチャラティもいろいろを取っ払って、ぼそりと一言だけをささやく。それにまたうなずいてから続ける。
「めし」
「……そうだな、メシだな」
最後は二人とも「メシ」、で決着した。何がって? 死にそうなくらい疲れてるこの瞬間今すぐ手を伸ばしたいもの、だ。
普段なら朝ごはんなんてチョコレートとかビスケットとか、適当に甘いものを頭を起こすために詰め込むだけでいいのだけど、こんな夜通しのひどい仕事の後はしっかりおなかにたまるものが食べたい。疲れのせいでとにかく空腹で、そのせいで身体が冷えている感覚があった。

「なんか……スタンド久しぶりに長い間出しっぱなしにしたからかな……めちゃくちゃおなか空いてる」
「……オレもだ。……ああ、クソ、今聞こえたか?」
「えぇ……? もっかい鳴らしてよ、ブチャラティのおなかの音聞きたい。レアだから」
「聞いてほしくて言ったわけじゃあねえよ」

私も彼も、口を開くのすらもおっくうそうな響きで交わす会話は重くのろのろしていた。それでもしゃべっていないと寝ちゃいそうで、ああ本当これ遭難しかけてるみたいだと思ったら少し笑えた。笑ってなきゃやってらんないくらいにひどい。

――でも。

私はふと顔を上げる。目線の先にあるのは、青く静謐をたたえていた街を今やみんなオレンジ色に染め上げる、その暴力的なまでに美しく明るい太陽の光に照らされたブチャラティの横顔だった。
ああ、いいなこれ。そんな事をふと思う。どんなにこの夜がひどいものでも、朝焼けに眩しく目を細めるブチャラティの隣でこの朝日と彼の顔を見ていられるっていうのは、私にとって嫌なことだって全部チャラになるくらいすごいことだった。
いつでも洗い立てのシーツみたいな男が、めったに見せない少しくしゃっとした疲れ顔が見られる事こそが、何より特別に思えたのだ。

夜中にチンピラたちを殴りながら思っていた。たまたま私はブチャラティのそばにいておなじチームで働けているだけで、本来の立ち位置としては私が怒鳴り声を上げながら殴りつけた男たちと何も変わらない。昼間のまっとうな時間に働く事が出来るとは思えなくて、将来の夢もないし、未来とかなんにも想像つかない。

でもきっとこの朝焼けに照らされた風景は、そんな私の宙ぶらりんの感情を吹き飛ばしてくれる。
この景色こそがわたしのささやかな希望だった。必死に彼と一緒に働いて、朝焼けの美しい風景の中、疲れでくしゃくしゃになりながらブチャラティと帰り道を歩く。それが何より、私の考える希望というものに近いのだ。
……そう思えば、夢とか大層なものはなくても、このまま彼の元で働いて生きたいと思えた。そしてそれこそが、正しい道なのだと。

もちろんそんな事ブチャラティには言わない。部下から突然語られるにはあまりにも重い感情だろうって自覚はあったから。彼を困らせたくはない。ただ私が、ブチャラティのことを希望だとこっそり思っていられればそれでよかった。

「……じゃあな」
「ん、ああ。……おつかれ」

ふと気づくと、ブチャラティの家と私の部屋、それぞれに向かうための分かれ道の通りにいつの間にかたどり着いていた。あれだけ一歩一歩が重くてしかたがなかったはずなのに、もうこんなところまで来ていたのかと驚いてしまう。彼と歩いている時間はいつもあっという間だった。ああもっと一緒に話してたいな、もっと疲れたって言い合って、そう思うけれどもちろん言葉には出さないで私は聞き分けよく別れの挨拶をつぶやいて彼に背を向けた。

自分の部屋がある路地へと続く道を数歩進んでから、ふと足を止める。
聞き分け良い顔しようとしたのにどうしても今日は彼と離れがたくて、思わず振り返ってしまう。せめて彼の姿が見えなくなるまでブチャラティの背中を眺めていようと思ったのだ。

でも、結果から言うと……ブチャラティの背中は見えなかった。
偶然彼も私と同じタイミングで振り返ったようで、お互い少し遠ざかった距離でバッチリ目があった。

ああ、クソ、なんて言い訳しようか、ああたまたま振り返っただけだ、本当、別に疲れてるからって寂しくなってるわけじゃなくて、
脳内にいろんな言葉が一気にめぐっていくけど、こちらが何か言うよりもブチャラティがしょうがねえなって感じで笑う方が先だった。

「なあ、一緒にメシでも食わねえか?」
少しだけ叫ぶように言われた言葉に一瞬驚いて、それから急に度数の高いアルコールを一気に飲み下したみたいに、おなかのあたりから熱が全身に広がっていく。

「……うん! 食べる!」
疲れがどこかへ吹っ飛んでしまったかのように、想像していたよりもずっと大きな声が口から飛び出て自分で驚いてしまう。
ブチャラティも一瞬だけ驚いた顔をして、それからまた笑った。

「お前一体どこにそんな元気……。まあいい、この時間に開いてるってなると……」
「この時間、だからもうベーカリーも開いてるんじゃない?」
さっきまで重い重いと思っていた足が、勝手に飛び跳ねるように彼の隣に連れて行ってくれる。ウキウキしてるのが態度からも声からも隠し切れてないし隠す気もないのだけど、そんな私に何かを聞こうとしているみたいにブチャラティは横に立ったこちらの顔をじっと見つめる。どこのパン屋がいいのか考えてるの?

でもブチャラティはそんな風におすすめのパン屋について私に聞くんじゃなくて、なんでもないみたいに当たり前の様子で私の顔に手を寄せて、そっと頬を片手で包むみたいに触れた。
顔に触れられてから初めて気づく、彼の手の大きさとその温かさに。かさついた彼の指先はひどく熱くて、心地よい。
私に触れた彼のしぐさはあまりにも自然かつ一瞬のことで、まるで私が見た都合の良い幻覚に思えるくらいだった。でも彼は確かに、優しい目をしながら犬でもなでるみたいに私に触れ、その頬を指で撫でた。

びっくりした顔したのは、ブチャラティの方が先だった。自分がしたことに、誰に何を言われるよりも先に彼自身がひどく驚いているみたいだった。
勢いよく手を引いてから視線を一瞬こちらから外したブチャラティを、ぼんやりしたまま見つめる。

「……っ、すまない、つい、お前の顔に汚れがついてんのが気になって……悪かった、何も言わずに勝手に触れて、」
とっさに手が出た、すまない、おおよそ彼らしくもなく慌てた様子で言葉が重ねられるのを聞いてから、触れられた瞬間はそんなことなかったのに、じわじわと顔が熱くなってくる。頬に残った感触を勝手に自分の体が追ってしまって、時間差で耳までびりびりしびれるように熱い。

きっとブチャラティも疲れてて判断がおかしくなってるだけなのだ。
私に触れたのだって犬とか猫とかそういうのと同じ、それか兄が弟にするのと同じ行為、特別なことではないと思っていたのだけど、なんだかブチャラティがひどく眉を寄せた表情を見せるものだから勘違いしそうになる。いいの気にしないではやくパン屋いこ、そう言うのが正解だってわかってるのに、私ブチャラティの隣で、ブチャラティの役に立てればそれで全然満足だったのに、……ああ、だめだ、気づいてしまう。自分のブチャラティへの感情に、気づいてしまう――。

彼を見上げたままだった顔を咄嗟に下に向ける。耳が熱い。彼の顔を見ることができない。
私達を照らす朝日はどんどん強さを増して眩しくなって、薄青に満ちていた街はどんどんその明るさに暴かれていく。どうかこの光が顔やら耳やらが赤くなってるのをごまかしてくれますように、思わず祈るような気持ちで朝日にすがる。
私のお腹が、嵐の中にいるみたいにうねる私の感情なんか知らないようすで、大きな音を立てた。