“Blues” – Abbacchio

 二人であたった初めての任務で、車に乗って遠出するとなった時。……半分昔の職業病で当たり前の様に運転席に乗り込んだオレを見て、ブチャラティは一瞬だけ目を丸くしてから、柔らかく笑って「そうだな、オレよりずっと運転がうまいよなきっと、お前は」そう呟いて、助手席に回った。
 そう言われても、オレはブチャラティの反応に一瞬何が言いたいのかわからなくなりひとり眉を寄せたが、気付いた瞬間「あぁ、」と声が出ていた。
 オレはもう制服なんてものを着ておらず、乗り込んだ車にも犯罪者を追うための無線なんかついていないのに、任務で車に乗り込むというその瞬間だけ忘れていたのだ。……とっくに過去にしたはずの日々が習慣として身体に残ってしまっていたようだ。普通ならばつが悪くなるような時間だったろうが、ブチャラティは気を使っているのかいないのか、ぼんやりと取り止めもなく話をしたかと思えばふと窓の外に広がる海を眺めたり、……静かすぎずうるさすぎず、長いドライブを共にするには申し分のない人間だったのだ。

 今夜も、オレはブチャラティを乗せて車を走らせる。行先は港、目的は、……密輸に関わる組織の人間がどうやら中抜きしているらしい、そんな調査結果が出たのを、裏付けるためのかち込みだ。目的だけ思えばまったく気分は高揚しないが、海の近くに行くとなるとブチャラティはわずかに明るい表情を見せるから、それだけは悪くない。
 存外、このブチャラティという男は快/不快のわかりやすい人間だった。それが敵との睨み合いの最中ならそんなのはおくびにも出さないが、仲間の前にいるときはそうでもないらしい。よく言えば素直、なのかもしれない。
 ナランチャなんかでも「今日のブチャラティうれしそうだよな! デートかなー?」なんてことを言い出すから、きっとオレだけが特別そう感じているわけでもなさそうだった。
 そして特に、あの頃はかなり分かりやすかった。ブチャラティがいつものように居場所を失った子供に色々世話を焼いているという話が、実はそのガキはブチャラティが思っていたほどガキではなかったことが発覚し、そしてブチャラティがいつの間にやらそのガキ——カタギの女に、ずいぶん心を持っていかれているようだ、なんて話になっていたころ。
 持ち前の誠実さと真面目さとこのツラだ、何を悩む必要があるのかわからない、相手が既婚者ってんならまあ一度立ち止まった方がいいかもしれねえが、ほとんど成人していて年の差もそんなにねえんだろ、何をためらう必要がある。だがそう言われてもこいつはあくまでも相手がカタギであること、それに自分が支えてやることでなんとか自立しようとしているのだから、この状況で好意を伝えたらそれは脅迫だとかなんとか、そんなことでひどく悩み、一喜一憂する姿が印象に残っていた。(その一喜一憂を、本人がオレたちに見せたいと思っていたかどうかっていうのはまあ別問題だが)
 これだけカタギにもギャングにも信頼されていて、しかも相手によって仮面を被ったり脱いだりするわけではなく、同じ真面目さで向きあう。まあ暴力が必要な場面では陽の光の下では見せないような据わった目をするわけだが、どちらも相反せず、そしてどちらかをとりたてて隠すわけでもなくこいつは「ブローノ・ブチャラティ」の姿として存在するのだ。それはむしろ器用と呼ぶべきものではなく、あえて分類しようとするのなら不器用だからこそ、の姿なのだろう。そこが不可分だからこそ、こいつは人々に心を寄せられ、あれだけ悩みもした。
 ……フーゴのやつがブチャラティには伏せたまま、あいつと二人きりのろくでもない任務の話をオレに持ち込むことがある理由は、きっとその辺りにあるのだろう。ブチャラティを不快から守ってやっている、なんてこというつもりはない。だが、あいつの中の正義と相容れないようなことがきっと、この世には多すぎる。

「……窓、開けてもいいか?」
「ああ」
 さっきまで黙って暗い窓の向こうを眺めていたブチャラティが助手席のサイドウィンドウを下げる。海の近く、ほのかに潮の気配のする空気が車内になだれ込んできた。
 風に黒い髪を踊らされながら目を細めて、遠く海を眼差す。オレからは海は遠く、うっすらと波が反射してチラつく光くらいしか見えないが、そのブチャラティの横顔はひどく穏やかなものだった。等間隔に置かれた外灯の光に、その柔らかい表情が何度も一瞬ごとに照らされる。
 そうしているとギャングに見えないという気持ちと、むしろギャングにしか見えないという気持ち、この男を見ているとどちらもが浮かぶのが不思議だった。
 ブチャラティは全開にした窓を少しの隙間を残して閉め直してから、ふと呟いた。
「……なあアバッキオ、お前カタギの女と付き合ったことあるか?」
 警官だったころの話じゃあないぜ、念を押されるように言われる。……オレはブチャラティに対して、それがどんなに唐突だとしてもその言葉に「何故」を問う気はいつだってなかった。
「…………なくはない」
 オレにこんなことを聞くのは、ブチャラティなりに年下のあいつらに聞かせるようなことじゃあないと思っているからかもしれない。ふとそんなことを思う。
「……そいつと付き合ってて、不安はなかったか?」
「…………そんなこと感じるほど、大事にもできなかったな」
「そうか……」

 ブチャラティはそれだけ聞いて、考えこむように口を閉ざした。ちらりと隣に目をやってから、静かに呟く。
「あんたは不安なのかよ」
「……どうやら、アレだけ考えこんだはずなのに、……まだ不安らしい」
 笑っちまうよな、まるで人ごとみたいな口ぶりで、フロントウィンドウを見つめながらあいつは続けた。
 走らせてきた車は、気づけば目的地付近にたどり着いていた。ブチャラティの独り言にも聞こえるようなその言葉に返事をしてやる前に、オレは目的地の港を少し遠くにのぞむ崖、道路が途切れ土が舞う空き地に車を押し込むように止めた。
 時間通りの到着だ。あとは、先に相手のアジトの偵察に行ったはずのミスタと集合したら、取引現場に生身の身体で突っ込んでいくだけだ。
 エンジンを切ってしまえば、この車内は急に静まりかえる。身体の方でほとんど無意識に処理されていた振動や音は、エンジンを切って現れた静寂に違和感を覚えてからようやくその存在に気付くのだ。
「…………不安って、一体何をどう感じるんだ」
 静まりかえった車内、暗闇の中でささやく。隣でぎしりとシートが鳴って、ブチャラティがこちらに顔を向けたのがわかる。だがそちらを見ないまま、オレはフロントウィンドウをにらみつけながらあいつの返事を待った。
「……こういう言い方すんのも好きじゃあねえが、はたから見れば〝オレの女〟になったことで……あいつに不都合があるんじゃねえかと思うと、……なんてひでえことをしたんだとすら思えてくるぜ」
「…………」
 それは、ある意味そう考えて当然だった。どこまで誰が知っているのか、まだ把握できるほど広まっているわけではないが「ブローノ・ブチャラティの女」という肩書は、この街ではいい方にも悪い方にも意味が大きい。それを知っていて懺悔するようにブチャラティが言うのは、考えてみりゃあ当たり前のことだった。

 だが、それじゃあお前は……一番好きな女を諦めて生きてくってのか?

「そんな不幸な目に合わせてんのかよ、自分の女を。ブチャラティともあろう奴が」
「……そんなつもりはないんだがな。オレにできることならなんだってするさ。……だが、オレと関わらなければする必要がなかった苦労を、強いてやいないかと考えると……」
 暗闇に言葉の端が溶けていくように、ブチャラティは静かに言葉を切った。
ブチャラティに関して言えば、「なんだってする」という言葉が軽薄で陳腐なものなんかではなく、……こいつはマジに、なんだってするのだ。
 その一歩間違えば狂気にも近くなるような強い思いは、その女に届いているんだろうか。
「……あんたがその言葉を求めていたとしても、『やめとけ』なんて言ってやる気ねえからな」
「何故だ」
 ブチャラティの返事は、どこか掠れた声だった。その声の方向には目をやらないまま、きな臭いやりとりがこれから行われるはずの港と黒い海を眺めながら呟く。
「オレは……あんたの、…………幸せを願ってっからだよ」
 付き合うことになった、そうオレたちに話した時の嬉しそうな表情を思い出す。……本当に、この男は仲間に対して隠すつもりがない時、静かに溢れ出る感情がひどくわかりやすいのだ。別に初めての恋人ってわけじゃあないだろうに、ギャングの男がこんなに柔らかく笑えるのかと驚いたくらいだった。
 きっと、ブチャラティにとってその女の存在は、何より必要なものだったのだ。
「……幸せなんだろ、その女といるのが」
「!」
 ブチャラティの方からはひどく驚いたように息をのむような音が聞こえてきた。……まさか、あれだけダダ漏れにしておいてバレてる気はしてなかったってのか? 
 そんな驚かれるとは思っていなくて、……自分の言った言葉が急に照れ臭くなって思わず軽くハンドルを殴る。
「……クソ、恥ずかしくなるようなこと言わせやがって!」
「……く…ハハッ」
 ブチャラティは明るい笑い声をあげる。照れ隠しの軽い舌打ちで返したところで、後ろから別の車が近づいて来るのに気づく。偵察を終えたミスタが到着したようだ。ここまで外し忘れていたシートベルトに手をかける。
 先に車を降りたブチャラティがミスタの車に近づきかけて、ふと思い出したようにこちらに戻ってくると、開いたままのドアから車内を覗きこむように言った。

「アバッキオ。……ありがとうな」
「……おう」