Dolcezza

「……今帰った!」

やけに上機嫌な大声が聞こえて振り返った先、ブチャラティは何故かリビングの入口で仁王立ちしていた。
「おかえり……って、わ、めずらし」
そしてそのままブチャラティは、返事もせずに私の目の前で流れるような動作でソファへ墜落したのだ。一瞬その動きに具合でも悪いのかと驚いたけれど、ソファにひっくりかえってる彼の表情はにこにこしてるし、仰向けに倒れ込んだせいではらりとこぼれた髪の隙間から見えた耳が赤くなっているのに気付いて、彼が酔っていることを知った。

酔いが回っても顔にはほとんど出ないし、受け答えもはじめのころはだいぶまともに見える。だけどいつのまにか少しずつ立っていられなくなっていくのがブチャラティの酔い方なのだ。
今日だって帰宅即ソファにひっくり返るレベルなのに、無事に帰ってこれたというだけで偉いのかもしれない。水でも用意してやるかとコップを掴んでソファに近づくと、酔いできっと熱くなっているんだろう、うるんだ目を細めながらこちらを見上げて、
「……そのおかえりっての……いいな……」
そうささやいて、彼はふっと顔から力を抜いた。少し微笑んだまま、……随分穏やかに聞こえてきたこれは、寝息か……?

「……寝た?」
「……起きてる」

目は閉じられたままで、口を開くのも重そうに呟かれる。

「……珍しくずいぶん飲んできたね」
結局手も付けられなかったコップをテーブルに置いてから、普段は切り揃えられた前髪に隠れている額に触れて、頬までをたどりながら撫でる。彼の皮ふはどこもかしこも熱くて、ブチャラティはわたしの指が触れると少し気持ちよさそうに口角をわずかに持ち上げる。
理性、という言葉をひとの形にしたら彼になるんじゃないかと思えるほどのブチャラティのこういう反応は新鮮で、また少し驚いてしまう。
ブチャラティでもお酒の席を断れない相手がいるのは知っていた。でもだからこそ徹底的に自分の飲む量とかを調整していると思っていたから、こんなにふにゃふにゃになるのは珍しかった。一緒に飲みあかした時だって、ふにゃふにゃになるというよりブチャラティは笑い上戸になってむしろうるさく元気になるのだと思っていたのだけど、まだ上の形態があったのか。

「……なんか……飲み過ぎちゃうような理由があったの? ……悩み? とか?」
悩みから飲みすぎるような人ではないことはわかっている。返事なんか半分期待せずにつぶやくと、目を閉じたまま、相変わらず重そうな口を無理やりこじ開ける様にささやいた。
「……飲んで帰っても、……家にお前がいるって思ったら、甘えたくなって、それで……」
若干支離滅裂になりかけた言葉だが、そんなことを言われるとは思ってなくて少し動揺する。くそ、かわいいこと言いやがって、そう言ってやりたいくらいだったけど、私は素直にそんなことを言えるほど彼の前で取り繕わずにいられる人間ではなかった。
「……それは……酔って吐いてもすぐ横向かせてもらえるとかそういうこと?」
「わかってるだろ……」
わざとずらして聞いてみた言葉は、こんな状態の彼にすら見透かされていた。
今のブチャラティの返事はほとんど寝言と近似に聞こえる。彼からしたら他人に話してるつもりのない、心の内側の部分に手を突っ込んでその隠された言葉に触れているような、少しやましいことをしているような気持ちになってくる。

ソファの横にしゃがみこんだまま、深い息を規則正しく吐き出すブチャラティを改めてじっと見つめる。額からはこぼれ、ソファの上に広がるつややかな髪、男の人だなっていうがっしりした感じはしっかり残っているのに、すうっと通ったきれいなラインを描く顎。ほんの少しだけ丸さを残した高い鼻先、濃いまつげ、(普段なら、)きりりと持ち上がる眉。
見つめていれば見つめているほど、彼さえ良いと言ってくれる瞬間なら、目の前に横たわる芸術品のような彼のすべてに触れてもいいといわれている関係にいるということが改めて嘘みたいに思えてくる。

「……これだけ酔っ払っててもブチャラティってきれいなんだね……」
「ん……?」
「なんでもないよ」
そう言って彼の額を撫でるとブチャラティの手が持ち上がってきて、自分の額に触れた私の手を探すように空をさまよう。ここだよ、そう言ってやるようなつもりでその指を掴んだ。ひどく熱い。

——ブローノ・ブチャラティの恋人。そういう単語を見て普通の人はどんなこと想像すると思う? 
きっと美人で、賢くて、それでおしゃれで優しくてしなやかで、きっと彼と同じように「神様の手で作られたような人」を想像すると思う。私はそうだった。
……でも、今、隣にいるのが自分なんて、本当想像もつかない。偶然、にしては本当にできすぎている。ただネアポリスに住んでいて、たまたま彼とすれ違って、……すごく馬が合った。ただそれだけ。私が彼といてすごく気が楽だったり、楽しかったりするのは事実でも、……ブチャラティにとって私が同じような場所にいるっていうのは、なかなか納得するのが難しい。

「……わたしが『こいつと付き合ってる』って聞かされた友達だったら……多分止めてるだろうな」

思わず口からそんな言葉がこぼれて、少し自嘲気味な笑みが浮かんだ。ありえない仮定なのはわかってるけど、もし友達のままの関係のブチャラティに〝私〟なんかと付き合ってるって言われたら、絶対止めると思う。でも、……それも今は、っていうだけだから安心してよ、友だちの〝私〟。今私が彼の恋人でも、それはきっと永遠じゃない。
……ものすごくバカみたいなんだけど、誰に言うでもないのにそんな言い訳を頭の中で呟いていたら悲しくなってきた。釣り合わないことなんてわかっている、ただその不安を彼のせいにしようとしているような浅ましさに対して、余計にブチャラティにはふさわしくないんじゃないか、そんな気持ちになる。
宝物を見つけて独り占め出来る人間っていうのは実はそれはそれですごい能力なのかもしれない。自分ひとりで彼のような宝物を抱える事の幸福と、それと同時に私の目の前に広がる途方もない、責任、可能性、恐れ多さ? とにかくそんな感情で自分の足元がぐらつくような気持ちになっていた。

だけど、私がそんなろくでもなく、そしてどこまでも落ち込むようなことを考えてるのを彼はいつだって見抜くのだ。そんなわかりやすい顔しているつもりはないのに、特に一緒に住むようになってからは余計にそうだった。ブチャラティは私の悲しみや戸惑い、自分でも掘り起こせていない怒りや、傷ついたという感情を拾い上げてくれる。慰めるわけではなく、その痛みを認めてくれるのだ。彼にそうされてから気づく。ああ、痛かったのだ、悲しかったのだ、怒りたかったのだ。それが自分に向けられた感情でも、そうでなくても、ブチャラティは私の心を隣で丁寧にひも解いてくれるのだ。それがいつでも、私は何よりうれしかった。
 
ソファで規則正しい呼吸を繰り返すブチャラティを見つめる。このままここで寝る気かな、もう返事もないし。ベッドまで運んでやりたいのは山々だけど身長差を考えるとなかなか難しいかもな……そう思いながらぼんやり彼を見つめ続けていると、ブチャラティは急にまぶたを持ち上げた。……偉いな。この状態で睡魔に負けないっていうのはそれだけで祝福されるべき能力ですらあると思う。
ブチャラティは寝っ転がったまま、顔も動かさずに青の目だけをきょろりと動かしてこちらを見つめる。どうしたの、そうささやくと、さっきまでの重くてもったりした口調とは明らかに違う言い方で囁いた。
「……さっきの……あれ、どういう意味なんだ」
「……聞こえてた?」
「ああ。頭があんまり動いてねえせいで理解するまで時間がかかっちまったが」

ぐっと腕を伸ばしてから、ブチャラティはゆっくりと身体を起こすとソファに改めて腰掛ける。それから、床にしゃがんだまま彼の顔を覗き込んでいた私に、ここに座れと自分のソファの座面を軽く叩いた。言われた通りにソファに上がる。お尻の下には、寝っ転がってたときのブチャラティの体温が残っていた。

「……止める、って、何をだ?」
その声は怒ってるわけじゃない、ただぽつりと、むしろどこか寂しそうに囁かれて胸がキュッと苦しくなる。そんな言われ方したら、言い訳だって思いつかない。
「……なんていうか、そのまま。ブチャラティの隣にいるのが私なんかだっていうのが……まだ信じらんないし、もっともっと相応しい人がいるんじゃないかって……いやいつもそんなこと考えてるわけじゃないんだけど、」
「……オレはてっきり、ブローノ・ブチャラティなんかと付き合うな、って言うのかと思ったぜ」
「はあ!? そんな言葉出てくるわけないじゃん! いやたとえそれ言うとしたら嫉妬以外ないでしょ……」
まくしたてた言葉を聞いて、ブチャラティはにやりと人が悪い笑みを浮かべる。まんまと乗せられた気しかしない。なんだか彼の顔を見てられなくて私は思わず自らのつま先を見つめる。自分の方を見なくなった私に対してブチャラティは、熱を発するその身体をソファの上で思い切り傾けて寄り掛かってくる。彼の体温はどんなときでも不快になりようがなかったのが不思議だった。
「それに、お前が言うような〝相応しい人〟なんてのはただの偶像だろ、……そんな存在しない人間とくらべてどうすんだ」
彼の腕が私の肩に回る。ぐっと肩を掴んで私を自分の方に寄せるやり方はちょっと力が強くて、……ああきっと、たとえほかの女の子には絶対こんなやり方しないんだろうな、そう思うとそれだけで少し胸のあたりがきゅっと甘く締め付けられる。もちろん他の子みたいに優しいやり方をしてくれ、ってことじゃあない。たったこれだけで特別に思えてしまって、……そして付き合う前にもおなじように特別に思えて、でもその頃なんて恋人になれるなんて思ってなかったから、自分の恋心に気づき始めてからはただただ苦しいだけだったことを鮮やかに思い出してしまう。そこから考えると——この状況って、本当に奇跡だ。

「……こわいんだよ、あんたの完璧を崩すのは私だって思うと」
「オレのこと〝完璧〟って思ってんのか?」
少し驚いたような顔をするブチャラティの顔を見て、こちらも少し驚いてしまう。
「完璧人間じゃん!……でもたまに酔ってる時の笑い声はうるさいけど!」
「フフ……」
「何でうれしそうなの」
ブチャラティは目を細めながら私の頬に、指の背でそっと触れる。
「なあ。誰かがこう思ってるかもしれねえとか、そういうんじゃあなくて……」
それから、やさしく両手で私の顔を包むと少しだけを上を向かせて、彼の方から目を離させないように、逃げられないようにしてからまっすぐにささやく。
「オレの言葉だけを聞いてくれ。オレが、お前がいいんだ。お前じゃなきゃあ駄目なんだ」
隣にいてこんなに落ち着く相手はいない、そう彼はささやいて付け足す。……いま私に語りかける口調がしっかりしていたって、酔ってるのは確かなのだ。これだけ近くにいればアルコールの匂いだってわかるし、私の頬を包む手のひらはまだまだ熱いままだし。でも、きっとシラフでだって彼は同じことを言うだろう。そんな確信があった。
彼の手がゆっくりと私から離れる。
「……ブチャラティ」
「お前は……いいやつだし」
「なあ、わかった」
「……努力家で、素直で、」
「わかったから!もう!やめていいってば!」
照れて手をバタバタ振って見せる私に、彼は明るく声をあげて笑った。それから、ブチャラティは私を見つめながら勢いよく私を抱きしめる。ああ、熱い! でもそれを振りほどく気になんてもちろんならなくて、私は彼の背中に手を回す。抱きしめながら、ブチャラティはささやく。
「かっこつけてえ時もあるが、ぜんぜんかっこがつかない顔も見せられる。きっとそんな相手なんて、お前以外存在しないさ……」
言ってから、彼は少し考えこむように言葉を切る。私は彼の背中をなでながら、その言葉の続きを待つ。
……お酒の匂いがする人をシラフの状態で抱きしめるなんて、普通なら汗かいてるとかお酒くさいとか思って当然なのに、それでもいいんだって思えるのはきっとブチャラティ相手だけだ、そんなことをふと思った。

「いや、かっこはつけてえんだ、お前の前で……だけど、そうじゃあなくってもいいんだ、って……こんな酔っ払ってる姿見せてもいいんだって、そう思えるのはお前だけだ」
それって、なんだか私にとっては一万の愛の言葉をささやかれるよりきっとうれしい。それに言葉でこういう形の彼の思いをはっきりと言われたのは、初めてかもしれない。ブチャラティはいつだって、私が求める言葉を私以上に知っているのだ。
「だからふさわしくねえだの、お前にそんなこと言われちまうと、……寂しいよ。オレを寂しくさせないでくれよ、テゾーロ」
子供みたいな言い方で彼がささやく。ごめんね、そうささやくと謝るなとも返される。ああだめだ抱きしめられてるのもすごく幸福なのに今すぐ顔が見たい、……できることなら、まだ友達から恋人になったていう関係のせいで照れも完全には消えないけれど、キスもしたい。
抱きしめていた体をお互いにそっとほどいて、彼の顔を見上げる。ブチャラティは彼らしくもなく柔らかい笑みを浮かべていて、……ああきっとブチャラティらしくもない、ってところが、重要なのかもしれない。
私の目の前で、ネアポリスのお人好しなギャング・ブチャラティは、いろんな顔を見せてくれるのだ。
「……かわいいね、ブチャラティ」
「……かわいいか」
そう言われた彼はどこか満足げに少し笑うと、私がするよりも先に、音を立てて私のくちびるに軽いキスを落とした。

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