“Foxtrot” – Narancia

ブチャラティが嬉しそうに、恋人ができたのだとみんなの前で言った日のことをよく覚えてる。
 考えすぎーってくらいその人のことを思って考えて、オレたちの前でもたくさん悩んでて、でもブチャラティがかっこよくてめちゃくちゃいい人なのはオレたちは知ってるから絶対大丈夫だってわかってたのに、ブチャラティ本人は、自分の立場とか仕事とかで一歩が踏み出せない、って話をしてたのだ。
 だから、みんなに恋人って例の子か? って聞かれたブチャラティが、ちょっとにやっとしてから、ああ、なんて言うからもう、オレはめちゃくちゃ嬉しくなってしまったのだ。それに、「ああ、」って言ったときはいつものかっこよくて大人っぽい笑顔だったんだけど、そのあとすぐに「夢みてえだ」って続けた時に見せたすっごく嬉しそうな笑顔はなんだか……なんつーんだろ、可愛かった! ブチャラティにそんなことを思ったのがはじめてだったから一瞬自分でびっくりしたんだけど、びっくりしてから、気づけば一緒にニコニコしてたのだ。
 オレたちは別にはじめての恋人ができたばっかりのガキじゃあねえし、今更誰が誰と付き合おうと好きにしろって感じなのは確かなんだけど、……多分、今回のブチャラティの恋ってのが、なんていうんだろう、多分いつもよりも「本気」なんだってのがわかってたからこそ、みんな嬉しかったんだと思う。
 いつか会わせてくれよな、って言ったらブチャラティは、きっと彼女とお前は気が合う、って言ってくれて、オレはさらに嬉しくなってしまった。
 この世に幸せにならなきゃいけない人間がいるとしたら、きっとブチャラティだ。いまのブチャラティが幸せじゃないとは言わないけど、もっと、もっと良いことがこの人の人生には起きていいはずなんだ。
 ひとの悲しみや辛さにひどく敏感で、いつだってやさしい。
 オレはブチャラティのためならなんだってできる、そう思うのは、ブチャラティのそういうやさしさを、そしてそれがかっこいいってことだと知っているからだ。

 その恋人ができたって話の後のある朝、珍しくすっげー朝早くにはじまる仕事にオレとブチャラティで行くことになった。別に内容は大した仕事じゃなくて、賭場の集金に行くってだけだから、早起きできるかなってこと以外は心配していなかった。あっちからしたら朝早いってのは、もうすぐ寝るって時間にオレたちがくるってわけだった。
 仕事の前に渡したいものがあるから家に寄ってくれってブチャラティに言われたオレは、なんとか早起きをがんばって、眩しすぎる見慣れない朝の光に目を細めながら、あくびをしながら言われた通りにブチャラティんちに向かっていた。
 朝早い時間って、なんか好きになれねえ。なんつーか、ちゃんと早起きしてちゃんと社会の一員ですって感じの人間ばっかな感じがして、なんとなく居心地が悪い。
 まあ町の中でも場所にもよるんだろうが。だけどいかにもオレとおんなじ側にいるタイプ、ああ夜通し仕事して疲れた寝るかあって感じのおねーさんとかオッサンとか見ると、なんだか親近感が湧いて、思わずお疲れ様〜って言いたくなってしまうのだ。
 日差しを浴びながら歩いていったら、たどり着くころには目も覚めてるかと思ったんだけど全然まぶたは重いままだ。ぼーっとしてるとまつげの上と下がくっついちゃいそうなくらいの眠気の中にいながら、なんとか目を少しでも大きく開こうとしつつ、オレはむにゃむにゃしながらブチャラティんちのチャイムを鳴らした。
「ふわ……ぁ、あ……?」
 あくびを噛み殺し損ねたのは、チャイムの音に反応して開いたドアの向こうにいたのが、——全然見たことない、外国の女の子だったからだ。
「あ……っれー? わりぃ、部屋間違えたかも……」
 言いながらちらりとドアの横の番号なんかを確認してみるけれど、たしかにブチャラティの家で間違いなかった。一瞬眠気に負けていた頭ではどういうことだかわからなくなってしまって、えーと、なんだっけ、とかゴニョゴニョ言ってたら、その子の後ろから聞き慣れた声が叫んだ。
「……ナランチャか! あがってくれ!」
 ……ブチャラティの声だ、ここはブチャランティんちで間違いない、ってことは、……この目の前の、オレより頭いっこ分くらい小さいこの子が、例のカノジョなのだ。真っ黒い目がオレを見てニコってして、手のひらでどうぞって感じに部屋に促してくれる。リビングに案内されながら、そういや彼女が外国の子だってのは聞いてたけど、どこの国の子なのかってのは聞いたことがなかったことを思い出す。
「は、はろー…」
 それ以外、外国語とかうかばねーし、知らねーし、でも多分アジアのひとにだってこれは通じるだろ、って思ってとりあえずそんな風に挨拶してみる。彼女は一瞬驚いたような顔してからまたちょっと笑って、
「私、下手くそかもしれないですが、イタリア語で大丈夫ですよ」
「へ、下手じゃないよ!」
 とっさにそんなことを言ってから、……ああ、しまった、と思った。
「あのさ、ごめん……。気を悪くしたら、ほんとごめん。オレ外国の人と話したりすることあんまなくて、あの、イタリア語話せねえだろ〜! って思ってたわけじゃなくって……ごめん」
 しどろもどろで言うオレに、彼女はむしろさっきよりも驚いた顔して見せた。
「いいんですよ! 本当に……気にしないで。むしろそんな気遣いをしてくれてありがとう。わたしの方こそ先に挨拶すればよかったんだから」
 コーヒー飲む? そう言われてオレは無言で頷いた。彼女がマキネッタを取り出して、エスプレッソの準備をしてくれてるのをぼんやり見つめる。
(……この子が、ブチャラティの、)
 ブチャラティがあれだけ大事にしたい、でも好きで、好きだからこそ自分なんかとじゃあダメなんじゃ、(ブチャラティはあんないい人なのにこんなこと言うんだ、思い返すたびそれにちょっと驚く、)って散々悩みまくってた相手が、この子なのだ。
「あ、あのさ、ブチャラティと、一緒に住んでるの?」
「ううん。……たまたま昨日の夜泊まったから。でもそれでナランチャさんに会えてよかった!」
「さん、とかさァー! いらないよ! ブチャラティもオレのこと呼び捨てだし!」
 なんつーか、ちいっさくておとなしい感じ、だった。守ってやらなきゃって気持ちになるなぁ確かに、そういうところがブチャラティは好きなのかな? なんて勝手に思う。そんな風にぼんやりしていたら、後ろの方からブチャラティが何かを叫んだ声が聞こえた。

「—— !」

(……? いまなんて……?)
 声の方に振り返って大声で聞き返そうとしたら、それよりも先にあの子が返事をしてそっちへ向かったのを見て、はっと気づく。いまの、あの子の名前かあ! イタリアじゃあ聞き慣れない変わった響きで気づかなかったし、——ブチャラティのあの子を呼ぶ声にも、すごくびっくりしてうまく理解が追いつかなかったのだ。
 いつもオレたちの前で話すのより少しだけ高くて柔らかい声、気取ってないし、かっこつけてるわけでもなくって、すごく自然で、優しくて、なんかいいなあって思ってしまうような声。……そんな声するのもきっと、この子の前でだけなんだろうな、と思う。
 ブチャラティはずっとオレの憧れのひとで、オレなんかよりずーっと年上で頼れる大人の男のひとだって思ってたんだけど、なんていうか、その感覚が変わっちゃうわけじゃあなくて、でもそれと同時に、オレより3つ上の人なんだったって、今のでふと思い出した。……なんだか、すっごく単純かもしれないけど、ブチャラティがそんな風にちょっとでもその人の目の前でなら「ゆるむ」感じになれる人がいるんだ、って思ったら、オレはまた嬉しくなってしまうし、胸のなかにじわっとあったかく何かが広がって行くのがわかった。
「……ナランチャ、待たせて悪いな。ちょっと来てくれ」
「あ、ブチャラティ! おはようー」
 ソファの後ろからブチャラティが覗き込むように声をかけてくれたのに返事しながら立ち上がる。なんだかにこにこしちゃうのを隠せないオレに、ブチャラティは少しだけ不思議そうな顔していた。
 声をかけられるがまま立ち上がって、ブチャラティの後ろをついていく。クローゼットの前まで連れてこられて、クローゼットをごそごそしはじめたブチャラティを前に今度はオレの方が不思議そうな顔する番だった。
「なーブチャラティ、そろそろ出ねえと遅くなっちゃうんじゃ……」
「ああ。だから早くしねえとな」
 ブチャラティは、そう言ってオレの目の前に一着のスーツを取り出してみせた。
「今日行く店は、たとえ集金のギャングだろうとスーツじゃあなきゃ入れねえ店なんだ。まあ面倒だが、少しはそういうところに慣れとくのも悪くないだろう。ちゃんとしたやつは一緒に店にいって仕立てよう。……悪いが今日は急ぎの手配だから、オレが昔着てたスーツをお前のために丈を整えただけのものだが……我慢してくれ」
「え……うわ、これくれるの……? てか、い、いつ測ったんだよブチャラティ! ぴったりじゃん!」
 お前にやる、そう言いながらオレにスーツを押し当ててくるブチャラティに、オレはあわあわしてしまうしかない。仕事の前に家に来いって変なの〜、不思議〜、って思ってたらそういうことかよ! しかもブチャラティは、いま目の前に見せてくれてるオレの長さに合わせてくれたスーツだけじゃなくて、もう一着新品のをやるって言って聞かないのだ。

「これももらっちゃった上にそんなプレゼントとか、わりぃよぉ〜! オレだって、ちゃんと任務してっしよお、それくらい大丈夫だって!」
「……だが、部下にスーツを仕立ててやるのが夢だったって言ってくれたら、受け取ってくれるか?」
 優しく低く響くあの声で、少し微笑みながらそんなこと言われたら、もう何も言えなくなってしまう。
「…………あのさあ、ブチャラティさぁ」
「……なんだ?」
「かっこよすぎるってばぁ! もうオレもっとブチャラティに惚れちゃうって!」
 オレをどうしたいんだよ〜! そんなことを思わず叫ぶように言えば、ブチャラティはフッ……て感じに笑ってくれてもうチクショウ! またかっこいい! いつかそんなふうな笑い方をマスターできんのかな、オレはそんなことを考えていた。
 ブチャラティがくれたスーツに着替えて、あの子がいるはずのリビングに戻る。きっと彼女はこのスーツを見たことあるんだろう、オレの顔と元ブチャラティのスーツと、どっちもに目をやってから、柔らかく笑った。
「雰囲気が随分変わりますね! それも素敵ですよ」
「えへへ……そ、かな」
「なあ! 似合うよな。こいつは元がいいのもあるが、一度袖を通しちまえばなんでも自分の色に変えられるんだぜ」
 いつのまにかあの子の隣に立っていたブチャラティは、自分の仕事の出来栄えを確かめるように頷きながら、また息するくらい当然のことみたいな顔でオレのことを褒めてくれるから、オレは照れちゃうしかない。
 それから、隣同士でふたりしてにこにこしてオレの変身を見ていたブチャラティとあの子の姿は、すごく似合ってるって感じだった。……あの子を守ってあげたい、って思ってるのは多分そうなんだろうけど、それだけじゃない、ブチャラティがこう考える、っていうのをこの子は自然と、なのかそれとも一緒にいる間に染み付いたのか、とにかく知っているのだ。それでもって、その考え方を、あたりまえで受け入れているのだ。
 エスプレッソ一杯といっしょにビスケットを食べてから、ブチャラティんちを出た。出るときに、ブチャラティはあの子のほっぺにキスをした。……誰だってする、家族だって普通はする、もうきっと生きてきた中でいろんな人同士のそんな友愛って感じのキスを何回も見てきたはずなのに、オレはなんだかそのいってきますのキスにうるっときてしまっていた。だってあんまりにもそれが優しくって、ブチャラティの表情もやわらかくって、ブチャラティってこんなまつげ長いんだなあとか、こんな優しい、でも「いってきます」って言うのがちょっと寂しいんだ、みたいな顔するんだ、って、本当、いろんなことを思っちゃうくらいだったから。

 玄関を出て少し歩き始めてから、おれは我慢できなくなってブチャラティに向かって叫ぶ。
「な〜〜〜ブチャラティ! あの子と幸せになってくれよなあ!」
「…………ああ。だが、……オレは幸せなのは確かだが、……彼女の幸せをオレが用意できるかどうかは、まだわからないな」
 それを聞いて、本当おれはビックリしてしまう。もう、すぐそんなこと言うんだぜブチャラティは。自分がこの街で一番いい男だってわかってねえのはブチャラティだけなのに!
「そんなこと言うなよお! あの子泣いちゃうよそれ聞いたら! ……なあ、マジにブチャラティなら大丈夫だよ、オレはよーく知ってるよ」
 だってブチャラティは、オレのヒーローなんだから。