“Jive” – A girl

それは、この街では良くあることだった。ひょんなことから麻薬がらみの事件に巻き込まれる。それまで縁遠かったはずの暴力に晒された心は硬直し、その場所から逃げ出せなくなる。そしてどうにもならなくなった結果、自分の身を売って生きるようになる。そしていつしか憎んだはずの麻薬なしでは生きられなくなって、一生どこにも行けず、この地で心身をすり減らしながら生きるしかなくなる。この街ではよくあることだ。それはこの地で生まれた人間にとっても、この地への移民にとっても。ただ、私は、……たまたまそうはならなかった。この異国の地でそんな事件に巻き込まれた私を、彼が救い上げたのだ。
 ブローノ・ブチャラティ、彼はわたしの〝当たり前によくある運命〟を否定し、目の前から取り除いて見せたのだ。
 何度でも言うが彼はそんなの当たり前だ、そう思っている様子で、会ったばかりのわたしの世話を焼いてくれて、仕事も、希望も、与えてくれたのだ。一生感謝したってしきれないくらいの親切をしておいて、彼はあくまでもそんなの当然のことだと、なんでもないことみたいに言う。私はいつしか〝当たり前〟のように彼に惹かれるようになっていた。

 星のような人だった。あるいは月のような。真夜中を明るく照らし色々な人を導いてくれるけど、本人は誰かを助けようとして光っているわけじゃない。彼にはそれが普通なのだ。たまたまこぼされた光に、人々は勝手に救われているだけなのだ。
 ……夜空にひかる星を自分だけのものにしようとするなんて、それは罪深く、そして不可能なことだとわかっていた。だから思いは秘めておくつもりだったのに、……彼相手におだやかな片思いができるということだけで私はきっと幸福だったのに、あのひとはその目の前で思いをぶちまけてしまって泣きそうになった私の手を優しく取ってくれたのだ。地上でただその光に照らされて生きていただけのこどもの元に、星がみずから降り立ってくれたのだ。
 返せるものもない、ただ彼に助けられただけの私が彼の隣に立っている。好意を抱いたのは私のくせに、改めてそのことを思うとひどく奇妙な気持ちになる。ただ彼は、私がそんな不安を抱えている暇なんてないくらいに、まっすぐに向き合ってくれたのだ。

 ブチャラティさん——ブローノと恋人同士になってから、彼について初めて知ったことがいくつかあった。
 一つ目、ふたりきりの時は、意外と子供っぽい表情をすること。朝が弱い彼を無理やり起こそうとするときなんかは、唸りながら「いやだ」なんて囁く姿が見ることができた。……そして彼はきちんと目覚めてから半分ねぼけていた自分の振る舞いに対して、照れたようにすまない、なんて呟くのだ。だけど機嫌が悪そうな彼を見ることなんてほとんどないから、そんな表情はとても特別で、私からしたら役得ですらあったのだが。
 二つ目として、抱きしめられるときの体温、体の分厚さ、だとか。いつでも、彼に腕を広げて見せれば苦しくなるくらいに強く抱きしめてくれる。体格の差を感じながら押しつぶされそうになるのはなんだか楽しい。さらさらの綺麗な髪を頬で感じながら、身長差のせいで屈んだ姿勢のまま抱きしめてくれるブローノを感じていると、とても満たされたような気持ちになるのだ。
 三つ目、……彼は、一緒にいるときに何も言わずに私の髪をつまんでその端にキスしたり、そっと取った指先にも軽くキスしてみたり、そんな振る舞いを自然にやってのけるということ。そんなことにはもちろん慣れていないから思わず目を丸くしていれば、「……らしくなかったか?」彼はそんな風に聞いてくる。
「らしくないなんてそんな……あの、照れただけで、……王子様、みたいですよ」
 素直に言ってみると、彼は少しだけ不思議そうに首をかしげる。
「王子様だとかはわかんねえが、……いやだってわけじゃあねえんだな?」
「それは、もう」
「……そりゃあよかった」
 そう言って、彼はこっちの目をまっすぐ見ながらまた指先にキスを落とす。仕事をしている人間の指が好きなのだと、そう囁きながら。
 四つ目、……未来の話をしないこと。それはベッドの中の戯れの最中だってそうだった。明日の話、明後日の話、来週の休み、……具体的な日付を与えられた物事についてはいくらでも優しく饒舌に話してくれるのに、「いつか」とか、おばあちゃんになっても、だとか、私のそんな言葉には、少し寂しそうな顔で曖昧に笑うだけなのだ。
 何度かそんな顔をされてから、何も考えずに〝なぜ〟と聞いたことがある。その時、彼は静かに「守れないかもしれない約束はしない」と、そう言ったのだ。
 当たり前みたいな顔でそんな言葉が返ってくるとは思わなくて、わたしは咄嗟に何も言えなくなってしまった。……黙りこんだ私がどうやら泣きそうに見えたのか、ブローノは私をまた強く抱きしめて頭を撫でながら、その「未来」がこの一瞬一瞬の地続きだとはわかっている、だが一日ずつを重ねる努力を繰り返すことしか今の自分にはできない、すまない、……そう続けたのだ。
 彼が悪いことなんて、ひとつもないのに。
 それが悲観的な振る舞いだとは思わない。ただ彼は、私が勝手に悲しくなってしまうくらいに誠実なのだ。未来に対して、私に対して。
 だけど私は傲慢だとわかっていながら、守れるかどうかなんてわからなくていいから、一緒にいると言ってほしいと思ってしまったのも事実だった。

「さあ、もう着くぞ!」
 私の考え込みどこまでも沈んでいきそうな思考を、その言葉が引き上げる。目の前には、嬉しそうな顔で私を呼ぶブローノと、鮮やかな青と陽光、……きらきら光る海辺の風景が広がっていた。
 今日は、久しぶりにふたりきりの外出だった。せっかくあなたと行くなら海へ行きたい、そう言った私に彼はパッと顔を明るくさせたのだ。(その顔が見たくて、海に行こうと言ったところもあった、もちろん)
 ブローノはいつものスーツではなく、陽光を集めて光るような柔らかい素材の白いシャツを羽織り、海の匂いに嬉しそうに目を細めた。海風が彼の髪を踊らせて、シャツをはためかせる。太陽の下を歩く彼は、とても美しい生き物だった。
 手を繋いで、砂浜に足跡をつけながら歩く。斜め上をのぞき見て目に入った彼の表情は、いつもよりふわりと緩んでいるように見えて、私はそれだけで嬉しくなってしまう。
「あ、あれ! ……カニ、かな?」
 視界を横切る小さな生き物を、手を繋いだまま一緒に追いかける。彼が私に手を引かれるままついてきてくれるのがまた、ささやかに嬉しい。カニが消えていったあたりにふたりでしゃがみ込むと、砂浜に黒い穴があいていた。
「……こりゃあ…ヤドカリだろうな」
「ヤドカリ! あんまり近くで見たことないや……」
 少しの間、穴をふたりでで見つめていたけれど、その主が出てくる様子はなかった。
 ふと顔を上げた先、彼の横顔にかかる黒髪を見て、私は思わずその頭に触れていた。先ほどまで風に踊らされていたつややかな髪。彼自身の体温と太陽の光を集めた温度はさわれば熱くて、そしてその熱さが心地よくて私は何度か彼の頭を撫でるように触れていた。
 どうした? そう聞くみたいに細められた彼の目だけが楽しげにこちらを向いている。私はなにも言わずに少し笑って見せれば、彼の方も私の方に手を伸ばして、髪に触れるように頭を撫でてくれた。見つめあったままどちらからともなく身体を近づけて、軽いキスを交わしてから、ヤドカリ穴の監視をやめることにした私たちは立ち上がった。
 白い砂浜を踏みしめて歩く。私の手を握る熱くて大きな手のひら、高い位置から光を届けてくる白い日差し、海の匂いを孕んだ柔らかく湿度を持った風。目を閉じて、思い切り息を吸い込む。潮に混じって、ブローノが纏う香水と彼自身の香りが混じった優しい匂いがした。
 深呼吸をして吐き出した私の息の音に気づいたブローノが、柔らかな笑顔でこちらを見つめてくれる。見上げれば、切りそろえられた髪が一揃えのカーテンのドレープみたいに揺れている。踊る髪から覗く海にも似た青をたたえた瞳。その向こうには、突き抜ける青の空。あんまり綺麗で、私はずっと、一生、この風景を覚えていたいと思った。〝一生〟なんて言葉を使うと寂しい顔をしてしまう彼にはいまの言葉を伝えないまま、呟く。
「……海に来てよかった! ぼんやりしているだけで綺麗なものがたくさん目に入ってくるなんて最高です」
「ああ、……いい風景だ」
 ご機嫌な様子のブローノと、浜辺をゆっくりと歩いていく。しばらくすると、ふと頭上からやわらかなハミングが降ってきた。なんだろう、そう思って見上げると、私と目があってようやく自分が微かな音で鼻歌を歌っていたことに気づいたらしいブローノが、少しだけ照れたように言う。
「この曲……子供の頃、よく聞かなかったか? 父さんの仕事を手伝っているとき、いつもこの曲がラジオから聞こえてきてたんだ。ずっと頭に残ってんのか、たまに出てきちまう」
「わたし……あの、」
 言いかけたところで、彼はハッとした様子で目を見開く。
「そうか……お前はその頃、日本にいたんだな」
「そう……ですね、その頃はきっと」
 小さな彼、漁師をしていたころのブローノと私に同じ経験がないという当たり前のことが、突然ひどく寂しいものに思えてくる。
「……たまに、忘れちまうんだ。お前とずっと昔から一緒にいたような気になってる」
 彼の告白はひどく優しい声で、私は胸がきゅっとしめつけられるのを感じる。彼の手を握った指先に思わず力がこもる。
「時々、オレの人生にもっと前からお前がいたら——きっと、楽しかったと思うんだ」
 お前はここに来ない方が幸せだったのかもしれないが、そう自嘲するみたいに笑うのを止めたくて、私は首を振ってみせてから続ける。

「そ……んなこと言わないで! もう一回歌って、ブローノ。私覚えるから、今から一緒に歌う!」
「ええ? ……歌詞は忘れちまってるぜ」

 そんなこと言いながら、彼は少し上を向いて、ハミングを始めた。優しい歌声に聞き入る。小さなころの彼もきっと歌っていたのであろう歌を、私は下手くそに真似してみる。真似をしてるつもりで音を外してばかりの私の歌声を彼の低く優しい声が包んでくれるのが、ひどく心地よかった。