裏社会のごたごたに巻き込まれて怖い思いをさせられたカタギの女。
一言でいえば、それが彼女だった。
そんな女が、裏社会の権化のようなギャングから好意を寄せられていることを知ったら、……あるいは、好意を伝えられたとしたら、どう思うだろうか。
しかもそれが、赤の他人ってわけではなく、むしろ自分が……家族としての愛情を向けている相手から。
……そう、家族だ。あいつから向けられる感情は、まるでそこにあるのが当たり前だっていうように、いつだってそばにあった。それはそこに込められた敬意すら一目で感じられるほど真っ直ぐで、だが押し付けがましくなく……とにかくそれは、オレからしたら家族と呼ぶのが一番しっくりくるような感情だった。
目が合うだけで笑う、事あるごとに人の名前を呼んで、懐いている態度を隠そうともしない。その感情をオレの前で隠す必要なんかないとあいつは思っている。……家族、なのだから。
だが、オレの方は自分自身の感情と向き合った結果、この思いがもはや友愛とか家族愛という枠では収まらないものだと気付いてしまった。……というより、こいつの言葉で気づかされてしまったのだ。
これは久しぶりの感覚だった。肉体で求める熱とは違う形で異性に焦がれるなんてことが、自分に降りかかるなんて事実に少々驚く。だが、その自らの思いに気付いてしまえば、もはやあいつに惹かれるのは当たり前だとすら思えてくる。見せつけられるむき出しの好意は、きっと何よりも強い。
ただし、その感情に気づいたところで、それをどうにかするのは決して簡単なことじゃあない。
条件1:ブローノ・ブチャラティは地域で名の知れたギャングである。
条件2:彼女には身寄りがおらず、トラブルに巻き込まれたときの後ろ盾がブローノ・ブ
チャラティだと知っている。
それが組み合わされた状況で好意を伝えられるのは、もはや脅しの一種ではないのか?
それでもしも色良い返事をあいつが寄越したとしても、それは……彼女の本当の意思と言えるのだろうか?
「でもよォー、抱いてくれってきたんだろ? 他のやつは嫌だけどブチャラティならいいんだ、ってさぁ。それってスゴクねえか? んで、そうなってるって状態でよ〜、あんたに好きだって言われたら断るってことはねぇんじゃねえの?」
どういう流れで彼らに話すに至ったか、もうはっきりとは覚えていない。珍しく全員で夕食を共にすることになって、いつものリストランテでワインをあけた。しかも、なんともなしに、いつもより数倍はハイペースで。
そういった話をはじめるのは大概ミスタかナランチャだ。普段はそれに軽く相槌を打つぐらいだったのに、……今日、めずらしく奴らからこちらに振られた言葉に、うっかりのってしまったのだ。当たり前のように前のめりで詳細をよこせと騒ぎ立てる二人に促されるまま、アルコールの力も借りて、気づけばこいつらに彼女の話を打ち明けていたのだ。
「……断る、が出来ないと思わせてしまう状況こそが問題なんだ」
そう静かに呟けば、ミスタとナランチャの二人はおんなじように「理解できない」と言わんばかりに片眉をつり上げてから口々に叫ぶ。
「んだよそれむずっかしいなぁ!」
「ブチャラティはさあ! 考えすぎだぜ!」
そのやりとりを黙って聞いていたフーゴのやつがやけに真面目くさった顔をして、まるで大声でその内容に不用意に触れたら何かが壊れちまうと信じているみたいなやり方で、静かに囁くように言った。
「……ブチャラティ、あなたは凄くその人が大切なんですね。きっと、これまでの誰より」
「…………フェアじゃないと感じているだけだ」
今までの相手は、みんな〝こちら側〟の人間だった。自由で、生きる力があって、俺の横っ面を引っ叩くことが物理的にも立場的にも出来るような女たち。
考えてみりゃあ年上も多かった、あっちからしたら半分仕事の延長のようなつもりだったのか、数ヶ月熱に溺れて、あとは波が引いていくようにおだやかに、その関係はなかったことになる。後腐れもなく、一緒にいたところで物理的にも精神的にも、何を壊さないかひやひやする必要だって一切ないような相手だった。
……どちらの関係がより良い、なんて考えているわけではない。ただ、あいつみたいなあまりにも純粋な好意だけを向けて来る相手に対して、……オレはとにかく慣れていない、というのが正しいのかもしれない。
オレは、父を守るためにギャングになり、そして——その守るべきものを失った。彼のためなら、どんな汚泥の中でもいくらだって這って進んでやる、いや実際進めるのだ、オレはそう心から信じ、彼を守るという誓いを自らの人生の『灯台』がわりにすることで、文字どおり幼い頃から泥水をすすってなんとか生きて来たのだ。
目を閉じれば、いつだって浮かぶのはギャングになってから何度も見た夢の光景だ。
(真夜中の荒れた海を、一人船で進んでいる。波は高く雨は甲板に激しく打ちつける。なぜこんな日に漁になんか出たんだろう、普通の漁師ならこんなことしない——でも、自分はそうしなければいけないんだということは分かっていた。計器も狂い始めてどちらが沖か岸かもわからなくなりかけたころ、……大雨煙る中、遠くにぼんやりと暖かな色の光が見えるのだ。その光が心をほどいていく、その光の方にただ進めば良いのだと、オレは知っている)
はじめは海が恋しくて見ているんだと思っていた。だが、何度も夢に見るうちにだんだんと気がついてくるのだ。この灯台がきっと、「父さんを守る」というオレ自身の意思で、決意なのだと。
そんな、決意の寄る辺とも呼べる守るべき存在を失い、宙吊りになった魂の前に現れた、「オレだけが守れる、オレこそが守るべきだ」と思える相手が——あいつなのだ。彼女に対して、不誠実なことはしたくなかった。できるわけがなかった。それはもはや、オレの魂への裏切りだ。
一つ言えるのは、オレはとにかく、偽善だろうとなんだろうと彼女の助けになりたいのだ、これは心からの真実だった。
彼女はこれ以上、傷つけられる必要なんてない。もう十分すぎるくらいに傷ついた。
ただその思いに、庇護欲以上のものが合わさった結果、……その助けたいという気持ちこそが、これまで支えてきたという事実が、じわじわと相手を追い詰めるものになっているのではないかと思えてならないのだ。
……しかしこのまま兄弟のように見守ってやると腹をくくってそう決意できるほど、無欲でいられないのも事実だった。
「ごちゃごちゃ言ってっけどよお、そいつ本人の意思で〝オレ〟を選んで欲しいってだけだろ、要は。ただそんだけだろ。あんたにしちゃあ随分まわりくどい考え方してんじゃねえか」
ここまで、周りのやりとりを聞いているのかいないのか、という態度で黙ったままワインボトルを空にし続けていたアバッキオが、フンと鼻を鳴らして言った。他の3人が、興味深そうな顔でアバッキオを振り返って見つめた。
「……そう、なんだろうか」
「そうだろうがよ。それに、恩義を感じた、つーのがその女があんたに対するその……家族愛的な好意をもったっていうきっかけだとしても、今となっちゃあそいつもあんたのことがちゃんと好きだっていうことはあるんじゃねえのか? あんたの言い振りじゃまるで、一切の脈がないと思ってるみたいに聞こえるぜ」
彼の言葉に、思わず黙り込む。確かにそうだ。オレがあいつを好ましく感じているのは今じゃオレにとっては当たり前のこととなったが、……あいつがオレのことを同じようなかたちで好ましいと思っているかもしれないなんてことを、自分が一切考えたことがなかったということに今更気づいた。
それはあまりにも突拍子もないことだから除外していたというよりも、……そう考えることが許されていないと思いこんでいた、という方が正しかった。
「…………巻き込みたくない、のかもしれないな」
あいつを苦しめた裏社会に、近づいてほしくない。だがオレとの関係を結ぶってことになれば、そうも言ってられなくなる。
「だが、話聞いてるぶんにはそいつは全部知ってて、それでもあんたに懐いてるんだろ。いろんなこと覚悟するぐらいあんたが好きだって可能性はねえのかよ。……しかも、いったん売り飛ばされそうになった女なんだろ、ほんとのカタギには戻れねえよ、すでにな」
「……」
「……それにブチャラティ、お前のことだ、たとえそいつに振られたってそれまでと変わらない対応ができんだろ。そしたら何にもしねえでいる方が損じゃあねえのか?」
そうだそうだ! アバッキオさすがだぜ! いやオレが言いたいのもまさにそれよ、またナランチャとミスタはやいやいと言いながらウンウン頷いて見せた。
「…………それじゃ、……プレゼントは、何にするかな」
「そりゃあ……花だよ! バラだろ!」
間髪を入れずに叫んだのはナランチャだ。ぐだぐだと悩んでいたオレがようやく前向きなことを言ったのがずいぶん嬉しいのか、その顔は輝いている。
「おお、バラだな! そうだぜブチャラティ、あんたがバラの花束持って道歩いてるだけできっと死人がでるぜ! このオレだって多分あんたからバラの花束なんかもらった日にゃ……おそらくぐらっとくるぜ」
「……ありがとうな。次のバースデーにはおまえんちに死ぬほどバラを持っていってやるから覚悟しとけよ、ミスタ」
ひーこわいぜ、そう笑って続けながらミスタはワインをグラスに注ごうとするも、もうボトルは空になっているようだった。
それに気づいたミスタよりも先にウェイターに手を軽く上げてみせてから、仲間たちに宣言する。
「悪いなお前ら、感謝する。ここはオレのおごりでいい」
「ヒュー! じゃあドルチェもいっこ頼んじゃお!」
……あの夜の浮き立つような心地に押されるがまま、オレはバラの花束を掴んで彼女の家へ向かっている。
結局、その後お互いに仕事が押したこともあり先週の口約束を最後に、彼女の誕生日当日である今日を迎えることになったのだ。……サプライズというつもりじゃなかったが、わざわざこんなものを抱えて部屋に行く、なんてこと伝えるほうが気恥ずかしい。
オレが持ってもひと抱えもあるようなバラの花束と、名前だけを入れた小さなメッセージカード。この花束をあいつに渡したらきっと身体が半分は隠れてしまうんじゃないかと思うと、少しおかしい。
赤のベルベットの隙間から染み出す香りのひとつひとつはかすかでも、これだけ集まると強い存在感を醸し出す。この香りは嫌いじゃない、高貴さと凛とした清潔感の両方を感じる。
あいつが住み込んでいるトラットリアの裏手側に、二階の部屋に向かう階段がある。……そこにたどり着いてはじめて、自分の身体が妙にぎくしゃくして動きづらくなっていることに気づいて思わず一人笑う。オレは緊張してるっていうのか?
……気取るつもりもないが、おかしな様子に見られるってのも良くはない。息を整えながら、その階段をゆっくりと踏みしめて登っていく。
だが、階段をのぼりきった先、あいつが住む部屋のドアのところには見知らぬ人影があった。……おそらくギャングではない、立ち振る舞いも緊張感が一切なく、どう見てもカタギの男だ。
……オレは、そこから動けないまま、そのドアのチャイムを鳴らした男と開かないドアを見つめている。と、すぐにするりと一切の警戒心もなく彼女の部屋のドアが開く。
あいつは、……彼女と同じアジア人らしきその男の顔を見ると嬉しそうにハグをしてから部屋に招き入れた。オレはその一部始終を、相変わらず一歩も動けないままに見つめていた。
……男がドアの向こうにまねかれてしばらくした後、ようやく動けるようになってから、オレの足はもと来た道を勝手に引き返していった。
……同胞のよしみで、きっと深いところで繋がることもあるのだろう。母語というものから切り離された孤独感は、そうして暮らさざるを得ない人間だけが抱えるものだ。それを分かち合えるのは、きっとかなり大きい。
それに、……あいつは笑っていた。あの男に向かって。なら、それでいいのだ、……あいつが幸せに過ごす、それでオレには十分だった。