その名は希望 -2-

 あの雨の晩からしばらくして、あいつは、あるトラットリアで下働きをはじめた。そしてそこのオーナーのとりはからいで店の上の空き部屋を借り、今はそこで暮らしている。
 結局、オレの家であいつが寝泊まりしたのは二週間かそこらだった。オレとしてはいつまでうちに住んだって構わないとは言ってあったのだが、十分すぎるくらい助けてもらったから、などと言ってあいつはそれを断ったのだ。
 その店の前を通り過ぎるとき、二階の窓から洗濯物と格闘するあいつが見えることがある。そしてときどき、その自室の窓から顔を出してオレに手を振ったりする姿に出会うこともあった。
 そこは、いつもオレ達があつまるリストランテより、もう少しだけ大衆向けで、そして
〝観光客向け〟の店だ。通りが一本違うだけで、この辺りの治安は大きく変わる。
 ……それに、できる限りカタギとして生きやすくするには、オレ達の仕事から少しの距離があった方がいいのだ。例えば、……あいつを売りとばそうとしたチンピラがどうなったかを知ったら、それはそれでショックを受けただろうから。
 あの夜の姿——恐怖と寒さとで真っ白になってるってのに、頬を張られたような痕だけがうっすらと赤く残るずぶ濡れの顔、ほうほうの体で逃げてきたせいかよく見れば片方の靴を落としちまって、ボロボロになった足。
 あの光景を思い出すだけで、今でも新鮮な怒りが湧き上がるくらいだった。
 ……あの日、怯えきったあいつをなだめシャワーに放り込んだあとに気づいたのは、あいつが着られるような、濡れた服の代わりになるものなんかうちにはろくにないという事実だった。なんとか家中をかき回して見つくろってやったガウンを、ほとんど引きずるようにして身につけたところで緊張の糸が切れたのか、首元までボタンを閉じた直後にそのままソファの上に墜落するように妙な格好で眠り込んだ小さなあいつの姿が、今も目に焼き付いている。
 まるでそれがダブルベッドかと見まごうくらいあまりにもすっぽりとソファに収まっている姿を見て妙な感心をしつつ、オレはその身体の上にブランケットをかけてやって、……何も考えずに、ブランケット越しにそっとあいつを撫でていた。あんなことのあとだ、この睡眠が気絶に近いだけとはいえ穏やかな呼吸が手のひらの下で繰り返されていることに、オレはたしかに安堵していた。

 次の日からははじまった同居生活は、表面上は穏やかなものだったが、……ある夜、あいつがソファで寝ているはずのリビングから短い悲鳴が聞こえたときのことは、よく覚えている。それは眠りのさなか、夢の中で恐怖に髪を引っ掴まれたあいつの声だった。
 その時オレは寝付いていたわけではなく、寝室で資料の確認をしている最中だった。その悲鳴のあとには派手な物音も続かず、一瞬放たれた咆哮のような短い声から判断して誰かに襲われているわけではなさそうだったが、確認のため立ち上がろうとしたとき、こちらに向かってくるおぼつかない足音が聞こえた。もう足音はドアのすぐそばだ、それならばとその足音に続くはずのノックを待っていたが、……一向にドアが叩かれる気配はない。
 不思議に思ってそっと部屋の外に出てみたところ、
「…………何をしてるんだ」
 ドアの真横で、驚いた顔をしたあいつが座り込んでいた。
「……あ……の、ごめんなさい……。近くにいると、安心……できるから、……せめて邪魔だけはしないように、って、思って」
「……こんな廊下の床に座っててるだけで、安心できるってのか」
「ごめんなさい……戻る、ね」
「そうじゃあねえだろ」
 不安で人恋しいんだったら、せめてノックぐらいすりゃあいいものを、そう思ってから、そうは言っても男の寝室に入るのも嫌なものかと思い直す。
「……来い」
 座り込んだままのやつに手を貸してやって、キッチンへと向かう。ダイニングテーブルにあいつを座らせてから、引っ張りだしたミルクパンを火にかける。
「……お前、牛乳は飲めるか」
「え……だ、大丈夫」
 その返事を聞いてから、いまだ不安げな顔をしているやつの前に透明なカップを置く。
「……これ……」
「……子供の頃、……母さんがよく作ってくれた。蜂蜜とシナモンを混ぜたってだけのミルクだが、……不思議と楽になる」
 慣れ親しんだはずの波音がやけに鋭く体に響く夜、暗い闇に向かって押し戻し、押し戻される波の動きの永遠に続く営みを思い、思考が広がりすぎてこの宇宙にひとりきりになったような気持ちになって、目を閉じることすらできなくなったとき……母さんはなぜかいつだってオレが夜中に起き出すことがわかっていて、このラッテカルドを飲ませてくれたのだ。
「……ありがとう」
 お礼のあとに小声でぼそぼそと、おそらく母国の言葉を続けてから、あいつが両手でカップを掴むのを見守る。

「おいしい……」
 カップのふちに口をつけて、夜の空気に溶けていくような、ささやかなため息混じりの声がそっと吐き出されるのを聞いた。
「それはよかった」
 あいつはもう一度お礼を言おうとしたように口を開きかけたが、ミルクの温かさに当てられたのか、ぽたぽたと音もなくこぼれだした涙に邪魔され何も言えなくなっていた。

 慣れない異国での生活で、ただでさえきっとストレスは溜まっていたのだろう。言葉だって完璧だったわけじゃない。話す相手も日常ではオレくらいしかいなくて、普通にしてたって「幸福な毎日」とは言い難い生活を過ごしていたなか、そこで理不尽な暴力に遭い、自分の自由をもぎ取られかけたんだ。
「……」
 なおも泣いている姿を前にして、二度と、こいつの人生にそんなことがないようにしてやりたい、なんて言葉が素直に心の中に浮かぶ。
 誰も頼れる相手がいないことの恐ろしさと寂しさは、……オレは身を持って知っている。
「……眠れないなら、しばらく側にいてやる」
 その言葉に平気だと言って首を振って見せたのを無言で一蹴して、オレはあいつがなんとか涙を止め、ミルクを飲みきって再びソファで寝息を立て始めるまで、少女の心に深く刻みこまれた、……つけられる必要なんかない心の傷を思いながら、ただ側にいた。

 ……そんな夜があったことも遠い昔に感じるくらいに、トラットリアで働いているうちにあいつはみるみる回復した。日に日に表情は明るくなって、言葉だってさらに語彙が増えていた。
「ブチャラティさん!」
 店に入ってきたオレを見て、テーブルのセッティングをしていたはずのあいつは誰よりも早く嬉しそうな声をあげる。
 ここのオーナーも給仕長も全ての事情をわかっている人間だから、オレが店にくるタイミングで、あいつも休憩に入るのが常だった。下っ端を借りちまって悪いな、そう声をかければオーナーは、忙しいランチのタイミングが終わるのを見計らってから来てくれるのだから文句はないと軽く笑ってそれをいなした。
「あの子はまあ……器用じゃあないですが、よく働きますよ。それにブチャラティさん、あなたにもいつもよりウチに来ていただけるようになって嬉しい限りですしね」
「そうかい? じゃあ懲りずにまた来るさ」
 オーナー直々に促された奥の席につき、いつものメニューを頼む。オレが注文したペスカトーレをどこか誇らしげな顔をして運んできたのは、あいつだった。
 はじめの頃は、持つだけでその熱さに必死の形相になっていた分厚い大皿を、オレの前に危なげなく置くと、おじゃまします、そう呟いてからおずおずと自分用のまかないも同じテーブルに置いた。

「今日もランチをご一緒できて嬉しいです、ブチャラティさん」
「……さん、ねえ。そういやなんで今更〝さん〟なんて言い出したんだ」
 聞きなれない響きにそうつぶやいてみれば、なぜかちょっとだけ焦ったようにしながら、あいつは続けた。
「わたし、……市場であなたのことを見かけたときから、たくさんの人に好かれてることくらいはわかっていたんですが、……ここで働きはじめてから、あなたの……すごさ、が、さらによくわかったんです」
 口に出してみたものの、すごさ、という単語が適切かどうかは自信がないらしい、少しだけ目が泳いでいる。
「……お前が言いたい言葉は、……『権力』か?」
 そんなものを持っていると思ったことはないが、よからぬ相手に妙な動きをさせない一定の効果はあると感じている。ただ、それを権力だと……こいつに認識されるのはどこか、面白くない。
 オレの心を読んだわけじゃないだろうが、聞かれたあいつはなおも考え込むようにしながら続ける。
「権力……では、ないです。凄さ、……うん、凄さ、ですね。それがずっとよくわかるようになって……この〝さん〟は、わたしの尊敬の気持ちです」
「ふうん……」
 嬉しそうに目を細めて言われれば、悪い気はしない。だが、語彙が増えていくにつれ丁寧な喋り方になっていることもあり、知り合って間も無いころよりも今の方がよっぽど距離を取られたような気持ちになるのも確かだった。
 ただ、それはオレに敬意を表したいという純粋な気持ちできっと必死に覚えた言い回しなのだ。やめろなんて言えるわけがなく、黙って魚介のパスタを口に運ぶ。
 何よりも海のものがオレの口に合うのは、きっと一生変わらない。トラットリアで出されるシンプルな味付けは、シンプルがゆえに故郷の町の姿を思い出させるようで気に入っている。
 ……それに加えて、オレにとってこいつとこうして過ごす時間がひどく心地良いものになっているのも、このトラットリアを好ましいと思っている理由の一つだ。
 相変わらずこいつは、……心からオレに懐いている。そう確信させるくらいの、ちょっと心配になるくらいの素直さはそのままだ。
「……そうだ……これ、見てください」
 言いたくってうずうずしてたような様子で、目の前であいつは自分の前髪をつまんで見せた。……言われるがままに見つめた先、髪の先だけが妙な色になってくるくる妙な螺旋を描いている。
……毛染めでも失敗したのか?
「……なんだ、それ」
「はじめてフランベを練習させてもらったんですけど、……前髪焦がしちゃって」
 結構燃えるんです髪の毛って! びっくりしちゃって! そう続けるこいつに、思わず軽く笑い声が漏れる。「やった! ブチャラティさんに笑ってもらおうと切らずにとっておいたんです!」そう嬉しそうに言ってから、あいつはまかないを口に運ぶ。
 ……それに当てられたみたいに、今度は笑い声ともとれないような柔らかな息がオレの口をつく。

 遅い午後の陽光に照らされた、白いクロスのかけられたふたりきりのテーブルの上にあるのは、これまでになくおだやかで静かな時間だった。
 それは久しく忘れていた感覚だった。下手すりゃ、……幼い頃、何も考えずただ幸せを享受していた、両親と共に過ごしていた日々以来のものだ。
 こいつはオレに、何を隠そうともしない。駆け引きも打算も全て知らないみたいに、ただ心を開く。そんな態度をあやういと思いながらも、どこかそれに、……不思議と、安心にも似た感情を持っているのも事実だった。

「フランベで髪を焼くのは、料理人なら誰だってやるもんなのか?」
「いえ? うちの店でははじめてだって料理長に言われました。……でもいつか、私もブチャラティさんのメニューを担当させてもらえるように頑張りますね!」
「ああ、楽しみにしてる」
 返ってきた言葉が意外だったのか、あいつはなぜか目を丸くして、それから満面の笑みで言った。
「今度、ぜひお仕事仲間とも、……あと、もしよろしかったら恋人の方とも、お店に来てくださいね! 昼間は少しがちゃがちゃしてますが、夜は雰囲気良くって最高なので!」
「……………………ああ」
 やけに間があったな、なんとか返事をした自分の声に、人ごとみたいにそう思った。
 もちろん、自分がどこに引っかかって返事に詰まったのかなんて、わかっていた。……というより、より正確に表現するには今の相手の発言にさらされた結果、突然「気づいてしまった」という方が正しいだろう。

 ああ、「恋人の方」ときた。こいつは、……オレにそういう存在がいると疑っていないのだ。
 だが、オレは——この通りだ。……これまで何度だって、命を掠め取り合うようなぎりぎりのところでのやり取りだってしてきたっていうのに、お前のその言葉ひとつで動揺するような、……お前に言われてようやく自分の感情に気づくような男なのだ。

 思わず自嘲的な笑みが漏れる。オレは自分のことをまったく理解できちゃいなかったっていうのか?
 オレだけがこいつを守れるのだ、オレがこいつを守ってやらなきゃならねえ、そう思っていたはずで、そうやって彼女はあくまでも庇護すべきものだと思っているということが何かの線引きになってるもんだと、それより感情が〝前〟にいくことなんてないはずだと勝手に安心していたのだが、……心ってのは、本当に勝手で厄介だ。

 それと同時に、……あの夜の言葉が脳裏によぎる。
(お前が18になったら、)
 その日が、来週となっていることにも気付いていた。

「……そうだ、来週、お前誕生日だろう」
「そ……そうなんです! 知っててくれたんですね」
 少しだけ驚いた表情を作るのに淡く笑い返しながら、心の中で呟く。
(あのやり取りはどうする? なかったことにするか? ……お前が良いと言うのなら、俺は……きっと、)
 頭の中に浮かんだ言葉を途中で打ち消して、ただ、祝ってやるよとその一言だけを伝えてやれば、……ああまただ、あまりにも手放しで、でも何より素直なやりかたで笑った。
「すっごく、すっごくうれしいです……! 今すぐ! おやすみの日、ずらしてもらってきます!」
 そうだブチャラティさんの食後のドルチェも持ってきますね、そう言って慌てて残りのまかないを平らげると、給仕長! あの! そんなことを叫びながら空の皿を掴んで飛んでいく背中を見つめるオレの顔には、また勝手に笑みが浮かんででいた。

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