その名は希望 -5-

 ふたりで、彼女のベッドに隣り合って腰を下ろしている。指先だけをわずかに触れ合ったままにしていれば、そこからまるでお互い感電するみたいに、しびれるように熱い。
「……せっかく整えてもらったって髪だが、くずしてもいいのか」
 隣に顔を向ければ目に入った、きらきらと光る髪留めに思わず呟く。……髪を編み込みたいのなら、簡単なものならオレだって結ってやれるだろう、なんてことを思いながら言う。
「あの、えと……、はい……というか、わたし、シャワー浴び、るんですよね!? こういうのは!!」
 彼女は緊張しきりの様子で叫んでから、はじけるように立ち上がった。おそらくバスルームに飛んで行こうとしてるんだろう、思わず手を伸ばしてその腕を後ろから掴んだ。
「……その必要はない」
 言いながら、掴んだ腕を軽く引く。それだけで彼女はぐらりとバランスを崩して、ベッドに座ったままのオレの膝の上に着地して座り込んだ。
「わ……すみません!」
 オレの上に乗っちまったのに驚いたのか、そう叫んで、このままじゃ膝の上からだってすぐに飛び出して行きそうなのを後ろから抱きしめてみる。黙り込んだまま腕の中で熱を発する身体が、なんとかとにかく落ち着こうと試みて深く息を吸い込もうとしているのを、自らの身体で直接感じる。触れ合っているオレの身体にまで響いてくるその呼吸の音に、これからしようとしていることが一瞬頭から飛んでしまって、ひどく落ち着く心地になる。生きている音がした。
 膝の上にのせたまま彼女に触れるのは、思った以上に都合が良かった。むき出しのうなじに音を立ててキスをするだけで、彼女の身体は小さく跳ねる。何度かキスを落として、軽く首筋を食みながら、服の上から柔らかに身体のラインをなぞっていく。どこに触れられても、いちいち呼吸が小さく乱れ、そのスカートの腿の上に置かれた手のひらがきゅっと握られる。
 だが、その身体をなだめるように、そして少しずつ熱を引き出そうと何度も服の上から触れていても、緊張はほどけないのかオレの腕の中に包み込まれた身体はひどくこわばっているままだった。
 ……後ろから抱きしめているという姿勢のせいもあるだろうが、決して彼女はこちらを見ようとはしない。声だって、例えるならば子猫があくびの時に混じらせるような微かな声が引き結ばれた口元から時折漏れるだけで、……それどころか片方の手のひらが口のあたりを必死に押さえつけている始末だった。
 服の中に侵入しようとしていた手を止める。もう一度彼女の身体をただ抱きしめて、耳元で囁いた。
「……どうか声を聞かせてくれないか。……不安に、なるんだ」
 嫌な思いをさせてはいないだろうか、恐怖はないだろうか、……痛くはないだろうか、
……本心では、やめてしまいたいんじゃないのか。いくらでも不安は浮かび上がる。
 羞恥からくるのか、身体に触れられても感情の何もかもを押し込めるような反応は、彼女が「何」を我慢しているのか見えなくする。
 本心では傷ついているのをオレに慮って我慢しているとしたら、……耐えられない。
 そう言われた彼女は、腕の中からオレの顔を見上げる。その仕草で見えたあいつのひたいに思わず唇を押し付けてからつぶやいた。
「無理に、とは言わないが、……オレは、君を傷つけてないかが不安なんだ。だから……声が、いやなら……セーフワードを決めよう。きみが本当にやめて欲しいと思ったら、そうだな、……カラスミパスタ、と言うのはどうだ?」
 この空間に漂う、湿度の高い、夜が凝縮しはじめたような空気と似合わない単語が気に入ったのか、こいつはいつも通りの明るい声を上げて笑った。
「カラスミパスタ、ですね! それなら忘れないです!」
「……そうだ。君が望まないことはしたくない。だから、これはいつ言ったっていいんだ」
 彼女の手のひらの上にかさねた指で、薄い手の甲を撫でながら言う。小さな手のひらだった。人を殴ったらこの手の方がひしゃげてしまいそうだと、そんなことを思うくらいには。
「……わかり、ました。……ブチャラティさんは、ほんとにやさしいです」
「……オレとお前の間には、物理的に力の差もあるんだ、ルールがなくちゃいけないだろ。……それに、オレは……傷つけるのが怖いだけさ」
 言いながら気づく、腕の中でこわばっていたはずの身体が、ようやくやわらかく力を抜いていることに。緊張はどうにか少しはほぐれたようで、ふと安堵の息が漏れた。

「あの、ちかくだと、よくわかるんですね……ブチャラティさん、すごくいい匂いがします……」
 彼女は惚けたように、思わず口から出てきてしまったといった様子でそんなことをこぼした。その熱に浮かされた声に、一瞬で腹の底からこちらの熱が引き摺り出されるようだった。たまらなくなって、強く抱きしめてからその耳元で囁く。

「……ブローノと呼んでくれ」
「…………ぶろーの、」
 呼んで欲しいとねだった名は、彼女の舌の上では半分溶けかけていた。
 真っ赤な顔に手を寄せ、彼女のあごを上に向けさせる。背中側から、溶けた声ごと飲み込むがごとく口付ける。はじめはくちびるを寄せあうだけだったが、次第におずおずとうすく開かれたくちびるを、舌でなぞって割り入る。……熱い。のどの方へと縮こまる彼女の舌をおいかけて、自らの舌をからめる。何度も角度を変えて口の中に触れている間に、こくん、と彼女の喉がふたりぶんの混じりあった唾液を嚥下して小さくうごいたのがわかった。

(……今、こいつとキスしてんだな)
 肉から伝わる感覚を追いかけるように改めて理解した瞬間、自分のなかを満たしていく多幸感に、どれだけ焦がれていたかがわかるようだった。
 ……それがたとえ、彼女が望むのがただ一夜を共にするだけだとしても、オレは今、満たされていた。

 かさついた手のひらで触れる身体は、どこもかしこも不安になるくらいやわらかい。先ほどまでよりかは声も我慢せずにこぼすようになった彼女の、服の下に手を差し入れて触れた皮ふは指に吸い付くようにしっとりとほのかに濡れている。
 我慢しきれず、気づけば彼女の首の後ろに軽く吸い付いて痕をつけていた。それから少しだけ身体を離して、改めて、彼女を正面からベッドに押し倒した。
 まっすぐに見つめた先の彼女は、まだまだ夜の先は長いわけだが、今の時点で色々といっぱいいっぱいになっているようで、ほとんど肩で息をしながらオレのことを見つめ返していた。薄暗いベッドの中では余計に、夜そのものに見えるような暗い色の瞳は潤んでいて、寝室の中のわずかな光を集めてはきらきらとはね返す。もう一度、その頬を両手で包むようにして、今度はさらに奥まで触れたくて深く口付ける。さっきまで戸惑うばかりだった様子の舌が不器用に絡み付こうとしてくるその感覚で、下半身に血液が集まってくるのがわかった。ズボンの下で、欲の塊がずきずきと痛みを伴って主張している。
 そのまま、こちらを抱き寄せるようにオレに向けて両手を広げた彼女に覆いかぶさる。
 ……こうして正面から向き合うと余計に、抱きつぶしてしまいそうな体格差だと今更思う。あの夜よりかはこいつもいくぶん背も伸び肉がついたかもしれないが、あいかわらずオレよりずっと小さいままだ。

 ……それに気づくと、怯えそうになる。……俺はあのとき自分が唾棄したカスどもと同じなのではないか?
 だがそんな自問は、彼女が嬉しそうにあげる甘い声が、必死にこちらを見つめて名前を呼ぶ優しい眼差しが打ち消す。〝自分〟こそが彼女にいま求められているのだと理解すれば、そんな恐怖は遠ざかる。
 それに……そんなことを思えば、こいつがそれを「夢」にして必死に生きたという、これまでの日々にも失礼なことだろう。

 ……だが、なんてことを言うんだ、本当に。

 そんな小さな約束、……むしろ約束とも呼べないような代物をこいつは後生大事に抱えて生きてきたのか?
 俺の言葉を、ほんの一瞬こぼれたような何気ない一言を希望として心に打ち立てて、それでなんとか、すべてに裏切られた異国で生きてきたっていうのか?

(…………なんて、ことだ)

 あの時のオレは、目の前で麻薬に狂わされそうになる「人生」を食い止めなければ、そう思ってとにかく自分の心に従ったにすぎなかった。一度夜の世界に染まってしまえば、……戻ってくるのは簡単じゃあない。きっとあの夜の行動は、彼女自身のためでもあるが、あくまでも「麻薬」という存在を憎むオレ自身のためだった。
 側にいてやることで誰かを助けたい、という切実に湧き上がる思いに、自分の抱えた冷淡さや矛盾を少しでもマシにしたい、そんな風に、何かから逃げるような意図が一切ないとは言わない。心にひたひたと満ちてくる、自分への、そして……少なからずの組織への失望を、他人に手を差し伸べることでなんとか遠ざけようとしているだけだ、そう思うことすらあった。

 でもそんな俺のことばを、こいつは、希望だと——。

 さっきの彼女の発言の持つ意味が、強さが、ようやくオレの腹の中に落ちてくる。
 どれほどの思いがそこにあるというのだろう、……自分がかつてしたように、誰かたった一人への思いを、真っ暗な中を進む道しるべにしてきたという、その告白に。

 脳裏に浮かぶのは、何度も夢に見た荒れた夜の海のイメージだ。「父を守る」という決意がオレを導く灯台で、その光があるからオレはギャングとしてやってこれた。
 オレが誰かに手を差し伸べるのが当たり前になっていたのは、それが、自らが沈没してしまわないための方法だったからだ。それを当然としてこれまで生きて来たからこそ、オレがすることは何ひとつ特別なことじゃあない、そう思っていた。「誰だってそうする、目の前で沈む船があればそこに手が伸びるだろう」、ただそれだけがオレの生きていく指標なのだ。
 灯台がたとえ光を失っても、そこに光があったという事実を、オレは一生忘れない。

 彼女もまた、荒れた海に夜のボートで漕ぎ出すほかなかった人間だ。
 そして彼女の中では、……こともあろうに、オレ自身が「灯台」となっていた。それほどまでに、思われていたのだ——。

 キスをふたたび止め、彼女の身体をまさぐる手も止めて強く抱きしめる。あふれてしまいそうな感情をどうしたらいいかわからなくて、思わず腕にさらに力がこもる。

「ブチャ…、ぶろーの……?」
 感情を抑えていられない。小さな身体にすがりつくように抱きしめながら、オレは何度か深呼吸をして、食いしばった歯の間からなんとか言葉をこぼす。
「……もう二度と、きみはあの男や、そのまわりの人間から傷つけられることはない。あの夜の恐怖は二度と君を煩わせることはない、それはこの先きみがどんな選択をしようとそうだ、……約束する」
 唐突な発言に、彼女は戸惑っているだろうか。もうそれを気遣うこともできず、腕の中に語り聞かせるように囁く。
「……だが、このオレの手を取れば、別の危機やかなしみが君に訪れるかもしれない。ギャングなんて生き方してるんだ、一切無事だなんて保証をする方が不誠実だ。……ただもう、オレは……一晩っきりの相手となって、君を抱くことはできない、それじゃきっと、後悔するだろう」
 どうか先に言わせてくれ、ここから進める前に、そう続けて、さらに強く彼女を抱きしめる。

「オレにほかの恋人なんていない、オレは……きみがすきだ」

 かすれた声でささやく。……なんて余裕のない声なんだ、情けない、切羽詰まったような響きになるのが気恥ずかしいばかりだが、今そこまで気を使う余裕もなかった。
 一瞬の静寂が部屋の中に満ちる。聞こえるのは、お互いの呼吸の音だけだ。

「ゆ、ゆめみたい……」

 静寂を破ったのは、オレの身体の下から聞こえる震えた声だった。
「わ、わたし、……今日の夜を、一生の宝物にして生きていこうと思ってたんです、……あなたに触れてもらえたことをずっとわすれないで、あなたからもらったことばも、優しさも、ぜんぶ忘れないでいようと思ってて、一晩分、それさえあればきっと生きていけるって、……っだから、あの、信じられなくて…」
 上ずった声は、だんだんと不明瞭な涙まじりの声に変わっていく。

「あの、……わ、わたしで、良いんですか……?」
「お前がいいんだ」

 その言葉には返事はない、ただ代わりに声もなく身体の下から伸びてきた腕が力を込めてオレを抱きしめる。そうしながら、頭の横で小さく、しかしきっぱりとあいつは言った。

「こわくないといったらうそです、……でも、それ以上に、わたしの人生でいちばん……うれしい」
 言い切ってから腕の中で静かに泣き出した小さな熱のかたまりの頭をそっと撫でる。背中に回りきらない腕が、何度もオレの背中を撫で返す。……オレの方まで、目のあたりが熱くなってくる、腕の中の熱がうつったんだ——。
 ふと、そういえばベッドの上にいるっていうのに、お互い服もちゃんと脱ぎきっていない、妙な格好で抱き合っているだけだということにようやく気づく。
 女と一緒のベッドの上でこんなみっともない状況になるのははじめてだった。……でもまったく、悪い気がしない。

 ゆっくりと身体を一度持ち上げて、抱きしめていた先の彼女の顔を見つめる。もう涙は止まっていて、こちらを見つめる瞳はとても柔らかいものだった。……オレが好きだと思った、オレにただ純粋な親愛を寄せる、いつもの表情だ。見つめたまま、そっと問う。

「……続きを?」
「してください、……ちがいますね、しましょう、……したい、です」

 身体を離して、着たままだったジャケットを脱ぎ捨てた。汗で張り付いて、ただ身体にまとわりつく脱ぎにくい布になったそれを放る。
 あいつの服にも手をかけると、彼女の方からも手が伸ばされる。切りそろえられた髪を遊ぶように撫でる小さな手のひらに顔をすり寄せる。

 Top