バールのテラス席に腰を下ろして本を広げる。このページのどこまで読んだか、目で一行ずつをたどり始めたその瞬間、きっとこれから1時間は待つだろうと思っていた相手の声で名前を呼ばれたものだから思わず驚きで身体が跳ねて、声の方に勢いよく顔を向ける。
「すまない、待っただろう?」
そう言ってブローノは軽くわたしの顔に手を寄せて、子猫の頭でもなでるみたいに指でぽんぽんとその頬に触れた。恋人扱いというよりも年下扱いばかりが目立つその仕草も、ブローノ・ブチャラティにされてしまうと全然嫌じゃあないから困るのだ。石畳の上に置かれているせいでがたがたするバールの椅子に座ったまま彼を見上げて、思わずだらしなくにやにやしている自分には気付いている。
「全然! むしろ本を開いた瞬間だったよ、今」
「……読書の時間を削らせてしまったか?」
「いいの、早く会えるのが嬉しいから」
素直に言うと、ブローノはふと口元を緩ませた。外では表情を崩しきれない彼の最大限の甘えた表情だと思うと、それだけでいとおしさで胸がきゅっと苦しくなる。
「オレもコーヒーでも飲もう。何かつまむものでもいるか?」
「ううん、だいじょう……あー、やっぱりチョコレートがあれば何か欲しいな」
「わかった」
そう言って、ブローノはわたしの頬に音を立ててキスしてから店内に足を向ける。いちいちこんな、家族同士でもするようなことでドキドキしたりしていても仕方ないとはわかっているけれど、頬は簡単に熱くなってしまう。キスしたあとも眉のあたりはきりりとしたままのブローノが好きだ。
ほどなくして、白いカップと青い包装のチョコレートを掴んで彼がテーブルに戻ってくる。手渡されたチョコレートを受け取ってすぐに小さく割るとそのひとかけらを自分の口に、もうひとかけらをブローノに差し出す。彼は意外にも大人しく顔をこちらに寄せて薄く口を開いた。……こんなことさせてくれるとは思わなかった。口の中にチョコレートを入れてやれば、彼は歯でそれをくわえてから頬張る。そのくちびるは指先で触れると信じられないくらいに柔らかかった。
チョコレートの甘さを流し込むようにカップを口元に運ぶブローノの姿をじっと見つめながら、ふと囁く。
「……なんかね、好きなんだよね」
「このチョコレートか? 君はいつも同じものを食べているとは思っていたんだが、好みならよかった」
「……それも、そうなんだけど。……ブローノのね、カップを持つ手がなんかいいなって思うの。カップが凄く小さく見えて」
同じチョコレートをいつも手に取っていることを人知れず気づいてくれていたのは嬉しいけれど、彼の前でいつもいつも甘いものを食べているみたいで少し気恥ずかしい。……彼の口に放り込んだそのチョコレートももちろん好きだけど、エスプレッソが入った小さなカップを彼の大きな手のひらがつまむ姿が、なんだかかわいくて好きなのだ。
「……イタリアの男はみんなそうだろ、必死に自分の手のひらより小せえカップをちまちまつまんでるのさ。だがティーカップなんかで毎回濃いエスプレッソなんか飲んでたら胃がやられちまう」
「……でもティーカップもブローノの手なら小さく見えるんじゃない?」
テーブルにのせられている彼の手を取る。それから開いた手のひら同士を重ねてみれば、少なくとも関節ひとつ分はブローノの手のひらがわたしの手からはみ出ていた。
「ほら! こんなに大きい!」
想像以上の差に少し興奮しながら言えば、……そっと、彼の指先が曲げられて、私の指先を包むように柔らかく握りこむ。
「……そうだな、君のは……小さな手だ」
そうささやかれてすぐに、彼の指はするりとわたしの指のあいだに入り込んで、ふたりの指を絡めながら手のひらをそっと握る。それから彼の指先がすりすりと手の甲を撫でて、……さっきまではしゃいでいたのが嘘みたいに、息もできなくなってしまう。
そんなわたしに気付いているのか、ブローノはテーブル越しに、じっとわたしの目を見つめる。青の瞳にまつげの影がかかっているのまで見えるくらいだ、きれいな目――。
だんだんと頬が更に熱くなって、顔が赤くなっているのがわかる。こんなの街の恋人同士ならよく見る光景だ、手を握りあうカップルなんて全然普通、もっと近くくっついてるカップルだってよく見るのに、……でもブローノは街中でこういうことをするのを好まないと思っていたから、油断していた。それに……手のひら、手の甲、指の間、手首の裏側、自然な流れだと言わんばかりにその手を余すとこなく柔らかく触れられていると、まるで……ベッドの中、夜のはじまりを思いだしてしまうのだ。
寝室の彼はいつだって、わたしの身体の端からそっと、あまりにも優しく触れる。そしてもどかしいくらいの柔らかさはいつのまにかわたしの腹の奥で熱に変わる。そして今のわたしの身体はそのときの温度を思い出しかけているのだ――。
「……オレも、君の手が好きだ」
ブローノは、掴んだままのわたしの手を自分の顔の方に寄せると、こちらの目を真っ直ぐ見つめたままその手に音を立てて口づける。
耳の端、首の裏までかあっと熱くなって、手に力がこもる……そうして、彼に握られていない方の手の中で柔らかくなったものに気づいて、思わずハッとなって叫んだ。
「……チョコが溶けちゃう!」
「それは……悪かった」
思わず叫んだわたしに、彼は一瞬目を見開いてから柔らかく笑う。街中でみんなに見せるにはあまりにも惜しい、あまりにも穏やかな笑みだった。
「……ブローノは悪くないでしょ……」
チョコレートをテーブルにおいてから、わたしは気持ちを落ち着かせるようにコーヒーを口に運ぶ。苦味よりも香りを強く感じるエスプレッソに心をなだめられるようだった。ブローノの態度やその手にあれだけ翻弄されていたけれど、彼がわたしを見つめていたあの高い温度が自分の叫びでかき消えてしまったのは少し残念だ……なんてことを思っていると、お互いのカップ越しに目があう。やっぱり彼はつまむようにカップを指先でもっている。わたしをいたずらっぽく見つめる瞳は楽しげだけど、……あの熱を彼の中でかき消してなどいないのは明白だった。濃いまつげの奥で、青があやしく揺らぐ。……こんな顔も、街のみんなには見せられないな、そんなことを思うくらいだった。
「……オレの部屋でいいか?」
「…………うん」
囁かれたお互いの声はどこかかすれていた。言葉すくななまま、わたしたちは静かに、でも急かされるように、まだ温かいエスプレッソをあおった。
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jo夢ワンドロワンライさんにお題「喫茶店」で参加作品