忙しい日々の中で、オレたちの生活リズムは中々合わない。付き合ってるって言ったって、まずは何よりもそれぞれの人生を必死に生きてくのが大前提だった。もちろん電話をしたり仕事帰りにお互いの家に行ったり、人並みの繋がりはあっただろうが毎日顔が見れるわけじゃあない。
それはもちろん承知の上だが、……その上でオレはいつしか、彼女が働く店を遠くから眺めてから帰路につくのが日課になっていた。
見晴らしのいい大きなガラス窓が印象的なトラットリア。小さな店だからあいつの姿は店の中を見渡せば、大抵どこかしらに見つけられた。
彼女にふりかかる面倒ごとを、先んじて振り払ってやりたいとはいつも思っている。
だが、彼女自身に対してか弱くあってくれ守れる対象であってくれと思っているわけじゃないのだから、……過保護でいたいわけじゃない。そういうこともあって、ただオレはその姿を見られればそれでよかったのだ。
ずいぶんといじらしいことをしていると自分でも思う。ただ、あいつが一生懸命働いてる姿を遠くから眺めるのは、悪くはなかった。
だがある日、ただその姿が見られればいい、なんてささやかな感情は吹き飛んでしまうことが起こったのだ。
その日は運がいいことに、彼女が退勤する時間に合わせてその店の前を通りかかることができた。店の前にいるべきか裏手に回って待っていようか、そう逡巡していたところ、店の入り口に彼女が姿を現す。
……家に行けばいつだって会えるし、それどころか抱きしめることだってオレはできるのに、何故かその偶然がもたらした巡り合わせにガキみてえに嬉しくなってしまう。
勝手に浮かぶ笑顔は隠さないまま少し早足でその姿に近づこうとして、……足がピタリと止まった。
店の前のあいつはよく見ればまだトラットリアのエプロン姿で、……知らない男と肩を寄せ合って何かを覗き込んでいた。はしゃぐように目を輝かせて、何事かを隣の男に話しかけている。
返事をしながら、男は彼女の肩に手を回して——。
それを目にした途端、気づけば自分でも驚くような行動に出ていた。
「ナマエ！」
大声で彼女の名前を読んで、大股で二人に近寄っていく。呼ばれてすぐパッと顔を上げた彼女は、オレの姿を目にした途端に表情を明るくさせた。
「ブチャラティさん！」
いくらオレは構わないと言っても、公の場では彼女はオレのことを頑なに姓で呼ぶのだ。その響きが好きだからこそと彼女は言う。
「姿が見えたからな、思わず声をかけちまった」
「……！ うれしいです！」
そう言う姿には嘘はにじんでいない。きっとこいつにしっぽでも生えてたら竜巻みたいに振ってるだろう、そう思わせるような無邪気な笑い方だった。そんな彼女に少しだけぎこちなく笑みを浮かべて見せてから、相変わらずあいつに必要以上に近いままの見知らぬ男に目をやる。
「……そちらは？」
「あ！ うちのお客さんなんです！ 日本にもよく行くんですって！ 色々お話聞いてたら懐かしくなっちゃって……写真もたくさん見せてもらったんです！」
どうやら二人で覗き込んでたのは、どうやらそいつが撮った写真らしい。トラットリアにくるのにわざわざ日本の写真を持ち込む、だって？ 理由がなきゃそんなもん持ってたりはしないだろう……そんなことを思ってしまえば、決して彼女のように素直に目を輝かせる気にはなれなかった。
まだ状況がわかっていないのか、呑気によろしくと言って微笑む男に向かって、作り笑いを浮かべて見せる。
「そうか！それは良いな！ 今度ふたりで日本に旅行にでも行きたいから、いろいろ教えてもらえるか？」
言いながら、オレは男のそばで笑っていた彼女の肩をぐいと片手で抱き寄せると、あまり状況がわかってない様子で腕の中で固まったあいつの頭の方に顔を傾け頬を寄せる。
そうして見せるだけで、全て理解した、みたいな顔を浮かべて見せた男に、敵意はあっても害意は出さないようなギリギリの表情で作った笑みを向ける。この男、なかなか頭の回転は速いようで、色々と手間が省けた。
「ああ、また今度ぜひおすすめの旅行先でも紹介しよう。……それじゃあまたね、ナマエ。今日は楽しかったよ！」
この会話が穏便な形で進んでいる間に帰っていくくらいの分別はあったらしい。去っていく背中におやすみなさいとわざわざ挨拶くれてやってるこいつだけが、状況について行けていないようだった。
「……他のやつに肩を抱かれてるの見たら、……落ち着かなくなった」
抱き寄せていた腕をほどきながら、予想以上にふてくされたガキみたいな声になったまま思わずぼそりとつぶやくと、こいつはバッと上を勢いよく見上げた。
「ごめん、ほんと、あの、うまく意識できてなくて……イタリアの人って、誰でも人との距離がこうなんだ、って勝手に思い込んじゃってて……」
「……もうしないと約束してくれ。オレのためにそうしろなんて言うつもりはないが、勘違いする男だっているだろうから、お前の安全のためにもだ」
「わかった、……ごめん」
「謝らなくていい」
そう言ってみるが、彼女は謝罪の言葉を続けるかわりに横からがばりとオレに抱きついてきた。子供が親に、あるいは大きなぬいぐるみに飛びつくみたいに抱きついたまま、急いで着替えてくるから、そう囁いてから店の奥へ飛んでいった。
「……」
一人街路に取り残されてから、ふと気づく。何がオレのためにそうしろってんじゃない、だ。確かに存在する自分の嫉妬を、まるで言い訳するみたいに覆い隠した自分の言葉に、思わず一人顔を歪める。……嫉妬自体よりもそれが、ひどく醜い。
「ブローノ！」
その声に顔をあげれば、あいつは本当に大急ぎで用意をなんとか終わらせたことにしたようだった。髪は乱したまま、カーディガンも袖を通し切らずジタバタ羽織りながら走って出て来たのだ。
乱れた髪を手で撫でるように直してやる。カーディガンもなんとか袖を通させてから、ふたりでオレの家に向かって静かに歩き出した。
オレの家までの短い道中は、さっきの話はお互いに終わったといわんばかりに触れないように関係のない話ばかりで歩いていた。夜の石畳の上は今日に限ってひどく静かで、遠くから聞こえる酔っ払いの声に半分かき消されながらささやき合うように言葉を交わす。穏やかな夜の空気が、オレたちの間には満ちていた。
だが、さっきの行為を、言葉を、なかったことにしておくのは外を歩く間だけで限界だった。
ふたりで部屋にたどり着き、先に彼女を家の中に通してから後ろ手にドアを閉じた瞬間、オレは玄関で彼女を後ろから抱きしめていた。
急に抱きしめられて、腕の中からは少しだけ戸惑ったような空気を感じる。彼女の肩のあたりに首を埋めながら、静かに囁いた。
「……かっこわるいだろ、オレは……こんなことで嫉妬なんてするような男なんだ」
彼女の前だと、どこか感情がたかぶるといつもの自分でいられなくなる。ナマエの前でこそ、余裕のある姿を見せていたいと感じているのに——。
「ブローノ……？」
突然の囁きに、彼女はこちらを気遣うように、自分を包む腕にそっと触れていた。
「しかも、……乱暴に抱き寄せたりして、すまない」
まるでモノみたいに引き寄せた、とっさの動作に思わず自己嫌悪の念が浮かぶ。そっと抱きしめる腕に力を込めると、腕の中からは柔らかく吐き出された、笑った息の音が聞こえた。
「……わたし、ブローノって……嫉妬とか、全然しない人だと思ってたんです」
「…………幻滅、したか？」
「むしろ……嫉妬が嬉しい、っていうんじゃなくて……。自分の感情を、わたしにこんなに見せてくれるんだな、って思うと、それが嬉しいです」
だから隠さないで、そうあいつは続ける。
「わたしもきっと、ブローノが他の女の子の肩を抱いてるのみたら、…………」
「……どうした？」
「……想像してみたら、あなたみたいに静かに嫉妬なんてできないな、って思ったからもう一回謝らせて。……ごめんね」
オレの方だって内心はまったく静かだったわけじゃあないのだが、じゃあお前はどうなっちまうんだ？ そう聞いてみたが、あいつは言いたくない、きっとひどいことになる、やけに深刻そうな顔でそう言い張るばかりだった。その真面目な顔を見てたら少しおかしくって、そしてそれ以上に愛おしくて、抱きしめたままくるりと玄関で体を回してみる。何されたって言わない！ その叫びにまた少しだけ笑って、ふたりでもつれあいながらリビングのソファになだれ込んだ。
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