“Paso doble” – Bucciarati

これは、腐臭だ。

 潮の匂いに混じって鼻に届く生臭い死の匂い。港の端、淀むばかりで流れも波も発生しないコンクリートで固められたこの場所で、海は腐る。
 接岸する巨大なタンカーの背から、吊り下げられたコンテナがゆらゆらと揺れながら地上に下ろされるまでの緩慢な動きをぼんやりと眺める。
 ここに運び込まれるのは、政府の税関のリストには載らないものたちだ。東アジアで安価に作られていながら、最初からこのイタリアで生まれたという偽のラベルをつけられて素知らぬ顔で店に並ぶはずの服やスニーカー、あるいは産地なんてだれも見ちゃいないようなタバコなんかを運び込み、そのアガリを得る。ああ、なんてギャングらしい仕事だろう、まったく。

 腐臭はまだ消えない。

 ……海はいつだって、どこまでも続く自由の象徴で、青く清浄なものだと感じていた。だがここにはそんな面影はない。
 この許されざる港にあるのは暗い淀み、腐り果てた水だけだ。ここは自由のない、生命の終わる場所だ。世界に平等に降り注ぐはずの光さえ、こんな場所では差し込む日差しもぼやけた輪郭で白く濁り、霧散する。
 この場所では海さえ死ぬのだ。
 タンカーから港へ下ろされたモノに間違いがないか、指定の荷物がキチンと運び込まれているかを確認して、問題があればナメられないように相手をどやしつつ正しい荷物を取り戻し、問題がなけりゃあサインをするだけの仕事。きっと何より簡単な仕事だ。ほとんどは誰を殴る必要だってない。
 そのはずなのに、オレはこの場所に来るたびに、ここで死んだ海水を見るたびに、どんな仕事をするときよりも一番息苦しく感じていた。
「……」
 無言でふたたび、巨大な鉄の棺桶越しの空を見上げる。ぼやけた青だ。
 まだまだ、タンカーからの荷下ろしははじまったばかりだ。確認作業が始められるまでしばらくはかかるだろう。
 オレは静かに海のそばを離れ、「空っぽ」のはずの、役目を終えたコンテナが雑に積まれた結果生まれてしまった迷路の方へと足を向けた。
 空になったコンテナを再利用するわけでもなく、港の端にただ積んでいるだけのもの。コンテナの処分にも金がかかるからと要は不法投棄だが、一般の船舶はほとんどやってこないこの港でそんなことで文句を言うやつはいない。
 この棄てられた迷路に、いつか猫が迷い込んでいたことを思い出す。この港には釣り人などいないことを猫は知らない。そこには餌もなく、囲むのもあいつらの爪で登れるような作りの壁でもなく、どこにもゆけず迷路の隙間に落ち痩せ細った猫をオレは助け出したのだ。ひっ捕まえてやるまで骨の浮いたがりがりの体で暴れ回り、オレの手を傷だらけにしていた猫の怯えた丸い目を思い出す。
 またそんなのが紛れ込んでるかもしれない、そう誰に聞かせるでもないのに心の中で言い訳めいたつぶやきをしながら、積み上げられたコンテナとコンテナの間を行く。高い壁の中を進んでいくと、そんなの体験したことなんてもちろんないのに、塹壕の中を進む兵士はこんな感覚だっただろうか、なんてことを思う。だが頭上に飛び交うのは銃弾なんかではなく、せいぜいがカラスかカモメか、くらいだった。
(……あれ、は)
 そんな益体もないことを考えながら歩いていると、コンテナの向こうに何かがうずくまっているかの様な影を見つけた。……ああ、ほら、死んだ海から逃げ出した意味もあったというものだ。
 また猫か、今度は野良犬か。そのどちらかだろうと当たりをつけてコンテナの角を曲がる。

「……っ…」
 だがそこに落ちていたのは、逃げ出せなかった犬でも猫でもなかった。
 ……どす黒い穴だらけの腕を晒しながら力なく四肢を投げ出す、ひとりのガキだった。
「ッオイ! お前!」
 慌てて駆け寄って身体を揺する。すると目の前でその身体がぐらりと傾いで、地面に倒れこんだ。……気づいてみりゃあ、そいつが倒れた地面には見慣れた注射器がばら撒かれていた。
 それを見て思わず眉を寄せた表情のまま、倒れたガキの脈と呼吸を確かめる。……反応はない。よく見れば体もひどく強張っていて、今さっき生命活動を止めたばかりというわけではないことがわかる。
 ……死因は、過剰摂取だろう。いやと言うほど見てきた、理性が薬に食い尽くされて他のことなんか考えられなくなった結果、すでにこわれかけた身体に注射針を撃ち続け命を落とす人間の姿は。だからといって、慣れるわけではない。目の当たりにするたびに、どうしようもない無力感に襲われるのが常だ。心の奥を蝕んで心臓を締め付けるような死だ。
 考えればここは、誰に咎められることなく薬を打ちまくれる格好の場所だったというわけだろう。そんな場所を求めて彷徨った結果飛び込んだのが、密輸品を運び込んだ巨大な空箱が生んだ袋小路だったのだ。だがそこから出られなくなったのがこいつ自身の意思であるとはオレには思えない。実際に何があったのかなんて知る由もないが、この街のどうしようもない黒い部分が、このガキをこんな場所に追い込んだんじゃあねえのか。

 ふと上を見上げれば、覆い被さるように重なったコンテナの向こうから、白く濁った空が覗く。それを見上げながら、ポケットから携帯電話を取りだす。もう何度目だろう、登録された番号に慣れた手つきで電話をかける。

「Pronto? ……あぁ、シスターかい。オレだ、ブチャラティだ。……悪いが、ああ、そうなんだ。また……ああ、確認する」
 電話を左手に持ち替えて、強張った身体に触れる。ポケットを漁るが、出てきたのはわずかな小銭くらいで、名前や年齢が分かりそうなものは見当たらない。
「個人を特定できるものは持っていないようだ……顔にそばかす、赤毛、年齢……13、4、くらい。もっと若いかもしれない。荷物もほとんど持っていないから、更生施設にいたやつかも、……また、任せていいか? ああ、助かるよ。よろしく頼む。また寄付をさせてもらうから。グラッツェ」
 快く遺体を受け入れ、浄め埋葬してくれる、金にならない仕事も受け止めてくれる今時珍しい教会との電話を切ってから、長く息を吐く。やりきれない。ただ、気持ちが沈んでいく。
 この街では、何かが少し欠けているとあっという間に転がり落ちるのだ。そこに本人の瑕疵はない、……運命とは決して呼んでやるつもりはないが、残酷な偶然の重なりで、ただの子供が逃げることなんて出来なくなるのだ。誰も死ぬ必要なんてないのに、本人の何が悪くなくとも、徐々に死への、破滅への道が舗装されていく。誇りに思えるような親のもとで育つことができたのは当然のことじゃあないと知ったのは、この仕事をはじめてからだった。
 ……ただ、こんなところで感傷に浸りつづけることはできない、こんな袋小路で転がしておいたところで、だれも見つけてはくれないだろう。
 迷ったのは一瞬だった。
 自分の身体に大きくジッパーを取り付ける。スティッキィ・フィンガーズの手も借りながらオレはそのガキの死体を持ち上げると、——ジッパーで生まれた開口部から、自らの中に収めた。……収められてしまうような、大きさだったのだ。
 触れた身体の冷たさ、強張り、穴だらけの腕、(……腕どころじゃない、首にまで青黒い穴がありやがる)誰にも見つからないような場所で野良犬みたいに朽ちていくこども。頭の中がぐらぐらと揺らされる。
 びり、と突然走った痛みで、自分が強く唇を噛んでいたことにようやく気づく。怒りにも似た情動が思考を塗りつぶして、感覚を遠ざけていたようだ。
 誰に怒るのだ? ……おそらく、自分自身にだ。
 ここにいると、踏ん張っていなけりゃあ心はいくらでも沈んでいく。心が濁って手足が動かなくなるようになるのは、あっという間だ。瞬きするだけの時間で人は腐る。そうだとわかっていながらも、ガキ一人助けることもできない自分、ただその事実に無力感が心に広がる——。

(あぁ、……あいつの顔がみてえな……)
 絶望で視界が暗くなっていくような感覚のなか、唐突に、彼女に会いたい、そう思った。仕事中にそんなことを思うなんてのは今までなかったはずなのに、思考がどん底をついた今、ふと浮かんだのはあいつの存在だったのだ。
 胸のあたりに縦に走らせた、子供の遺体をしまいこんだジッパーのあたりを撫でながら、あの腐った水をたたえた港へと再びコンテナ群の中をすり抜けて戻る。
 ……オレが、たとえそれが結果的にとはいえクスリ漬けにされそうな状況から助け出すことができた相手。それが彼女だった。目の前で助けてくれと手を伸ばされれば、その手を掴むのなんて誰だってできることだし、誰だってすることだとわかっている。だが、たまたま出会ったオレにそうやって助けを求めて手を伸ばし、心を開き、……オレのしたことを、こちらに与える無償の好意を通してオレ自身に自らに価値があるのではないかと思わせてくれた存在。
 オレはきっと、自分のしたことが間違いではなかったと示してくれる様な彼女の存在自体に、甘えているのだ。

 どんな冷たい泥の中のような場所にいても、彼女のことを考えていると、心の中にしまいこんだ美しい風景を一緒に思い出せるような気がした。
 ——守るべきものがあってこそ、オレはなんとか生きている。
 その対象を世界の全てなんて大それたことはもちろん言わない、だが百を救えないのならゼロでいいなんてことを言う気もさらさらなかった。歯を食いしばれ、オレはこの手にかかえられるものをまず、守り抜かねばならないのだ。
 彼女の存在が、オレの目をひらかせるのだ。
(……彼女を知る前の自分は、一体どうやって生きていたんだろう)
 ふとそんなことを思う。この街はどうしようもないかなしみに満ちている、それを乗り切るためのひとつの希望。自分にはまだやることが、……やれることがあるのだと、信じることができるのも、きっとあいつがいるからだった。
 ぼんやりと考え込みながら歩いていれば、いつのまにか積まれたコンテナの迷路を抜け、あの港へ戻ってきていた。荷下ろしを続ける、(そして仕事が終われば誰に目を留められる間も無く消え去る予定の、)タンカーを見上げる。

◆◆◆

 長い一日だった。タンカーからの密輸品は全て問題なく、オレはサインをするだけでしまいだった。
 だが腹にしまいこんだままの遺体を、教会からの迎えに託して引き渡すことはせず、結局自分で教会に運び込んだ。そうしたい気分だったのだ。教会では行方不明者のリストとの照合も行われたあとだったが、該当する人間はいなかったらしい。聖職者たち以外誰にも見届けられず孤独で逝く少年の旅路にわずかながら寄り添ってから、帰宅した。

 家に着いたとき、部屋のあかりはすでに消えていた。あいつと付き合いはじめてからもお互いの生活リズムが合わないことは知っていたから、無理に一緒に住むことはしなかった。もう彼女は自分の家に戻ったらしい。
 それはいつも通りのことのはずなのに、オレは暗い部屋の窓を見て更に体が重くなるのを感じていた。
 ふらふらと幽霊のような足取りで、寝室に向かう。ひどく疲れ果てていた。
「……!」
 何も考えずに飛び込んでやろうと思っていた、平たいはずのベッドの一部が小さく丸く膨らんでいる。そっと近寄ってみると、……白いシーツにくるまったあいつが、小さな寝息をたてていた。
 勝手に柔らかなため息が漏れる。寒さに凍えながら真冬の街路を抜け、カフェで温かいラテを口にした時の感覚にそれはよく似ていた。腹に落ちた熱さが、柔らかく全身に回っていく。
 寝ている彼女の額をそっと撫でる、穏やかな寝顔に、淡く笑みが浮かんだ。
 ここにあるのは、無垢だ、幸福だ。ひたいを手のひらで撫でて、ほおを指の背で撫でて、そうしながらふと思う。
 あの港にいて苦しくなるのは、海が死んでいるから、なんてまるで環境保護活動家みたいなことを思っているからってだけじゃない。……自分がいる場所が〝こんな場所〟だと、その腐臭は理想からの乖離を思わせるから、苦しいのだ。
 ……本当にこいつのことを思うなら、この街から、いやこの国から出るよう説得するのが正しいのかもしれない。この場所で、……暴力と死がすぐそばにあるオレの隣なんかで、幸せにしてやれるのだろうか? 
 手放してやるべきではないのか、——心の奥でずっと、気づいていたはずの言葉がふっと心に染み込んでいく。ああ、わかっていた、それが正解なのだと——。
 昼間見るよりもあまりにも幼く穏やかな寝顔を見ながらふと、それはあまりにも自明な考えとして浮かぶ。こいつがいるべきところは、穏やかで安全で、暖かな海のはずなのだ。
 そんなことを思っていると、オレの手のひらの下で彼女のまぶたがわずかに震えて持ち上がる。
 まだ何も映していない、寝起きの瞳に思わず薄く微笑みながら、そっと囁く。
「すまない、起こしたか? ……せめて顔だけ見たくてな」
 言いながら、ひたいにかかった髪をはらってやる。言われるがまま、されるがままにぼんやりとした表情をうかべながら、あいつはもそもそと聞き取りにくい声で呟いた。
「かおだけ……なんですか?」
「ン?」
 聞き直すように言ってやれば半分寝ぼけたような様子で、体を起こしながら続ける。
「ちなみにわたしは……抱きしめたいと思ってますよ……」
 寝ないで待ってられなくてごめんなさい、そう続けた、なおも眠気にぐらぐらと体を揺らされている彼女を思わずシーツの上から抱きしめる。黙ったまま力がこもってしまうのに文句も言わず、こいつはそっとこちらの背中に手を回して、オレの背を何度も撫でていた。

 腕の中にあるからだは、柔らかくて、温かい。呼吸をしている。肉の下に骨があるのを感じる。生きた人間の感触だった。