Pellegrinaggio

「……これ、よかったら。たまたまお店で見かけて似合うかなと思って! サイズがあわなかったり趣味じゃあなかったら捨てたり誰かにあげたりしたりしたって構わないから」

なんでもない顔で、なんでもない日に、わたしは恋人に美しい柄のシャツを手渡した。手渡されたブチャラティは少しだけ不思議そうに、でも律儀にお礼を言いながらそのシャツを受け取ってくれた。

彼の瞳のように美しく青くきらめくかざりボタン、それが身体の正面で止め合わせる布は左右で違う柄だ。青地に白い花が大きく描きこまれた左と、白地に光る糸の刺繍が入った右の生地。襟元は紺のチェック柄で、肩口には金色の布。全体としては青を基調としながら、だけどまったく異なる顔をした派手さのある生地同士が調和して美しく仕上げられたそのシャツは、きっと彼に良く似合うだろう。

「お、サイズもぴったりじゃあないか。……ありがとうな、ナマエ」
服なんてもらうのはなんだか照れるな、ブチャラティが彼自身の身体にシャツをあてて、淡く微笑みながら言う。わたしはそれにニコニコして返す。

……サイズも彼にあっていてデザインも個性的、そんな服をたまたま見かけたなんて、嘘だった。

インターネットで見かけた、すべてを手製で仕上げられたという一点もののシャツ。その画像を見た瞬間、わたしは彼が着ている姿が見たいと思ってしまったのだ。いやむしろ、彼こそがこのシャツを着るのにふさわしいと思ったのだ。

「週末引き取りに行きますから、取り置きと……あと、サイズのお直しって、お願いできますか?」

気がついたらわたしはネアポリスから遠く離れた場所で美しいシャツを並べるその店に、迷いもなく電話をかけていたのだ。

待ちに待った週末をむかえ、わたしはまずローマ行きの電車に乗った。ローマまでは1時間。
それからテルミニ駅からさらにお店のあるヴェローナまでへは、なんと電車で3時間もかかるのだ。

普段はネアポリスから特別な用がなければ特にどこにも足を伸ばすことのないわたしからしたら、その道程はちょっとした旅行に等しかった。
窓際の席を確保した特急列車に乗り込んで、テルミニ駅からどんどん離れた列車の窓の向こう、知らない街が眼前に広がっては消えていくのを眺めている。
当たり前のことだけど、電車がどんどんネアポリスから離れて行ってもわたしの知らない世界で知らない人たちの生活が広がっていくのを見るのも楽しくて、自分が意外と電車に乗るのが好きだったのだとようやく気づく。
アナウンスされる駅名もだんだん聞き覚えのないものになってくる。もしかしたら一生おりることもないかもしれない駅の風景、住宅地と田園風景が交互に現れる窓の向こうを見つめていると、少しずつ心が浮き足立ってくる。
そしてその旅の喜び以上に、……この長旅が彼へのプレゼントを内緒で買いに行くものだということが、いまのわたしを何より高揚させていた。

シャツのサイズを調べるのも、彼にはバレないようにあくまでさりげなく盗み見るものだった。ふたりで飛び込んだベッドの端に引っかかっていた彼の服を拾うふりでサイズを確認していると、「何をしているんだ? 脱ぎ捨てた皮じゃなくて本人がベッドで待っているっていうのに」なんて言葉と共に後ろから抱きつかれて息が止まった。
「ん? なにも……」
そうごまかすように返事をしてから、彼の腕の中で身体を反転させてハグを返した。
美しい筋肉を下に隠した彼のなめらかな皮ふはひどく熱い。うっすらと汗ばんだ身体に思わず頬をすり寄せる。まるで動物の様な仕草に彼は少しだけ息の音だけで笑って、わたしの頬を両手で包んで顔を寄せる……これ以上は、電車の中で思い出すのはよそう。熱を持ち勝手に赤くなっているのであろう頬に自分の手を当てながら、窓の外に意識を向ける。

どこまでも緑が広がっていて、背の高い建物で隠されることのない空は抜けるように青く澄んでいる。ネアポリスでは海が見えてもこんなに緑が広がっている風景はなかなかない。羊の一匹でもいやしないかと目を凝らして見つめていると、後ろの方から誰かの声がする。振り返れば、切符の確認に来ていた車掌さんと目が合った。彼女に声をかけられる前に、笑顔で切符を手元に用意しておく。

「良い旅を、お嬢さん」
「ありがとう!」

今の時点で、少なくともわたしにとってはすでにこの列車の旅は「良い旅」なのは間違いなかった。
他の人からみたらどこを観光するわけでもなく、時間と旅費をかけてプレゼントを買いに行くなんて退屈だと思われるかもしれないけれど。

袖を通してくれるだろうか、喜んでくれるだろうか、そういう彼の反応というのは今のわたしにとってはどこか遠くの話で、これはあくまでも自己満足のための行為だと理解していた。
自分がしたいからしているだけで、それでもそれは彼を思うからこそのことでもあって……これはあえて呼ぶならば巡礼に近い、そんなことを思う。
彼のあずかり知らぬ場所で、彼のために遠く旅をする。ここにあるのはわたしが彼を好きだという、彼のために遠出をしたいというわたしの感情だけがある。
きっとブチャラティ本人にだって奪えないし、彼に与えることだって出来ない、わたしだけが抱え込む感情。
信仰のように、……もっと近い言葉に言い換えれば片思いをしているときのように、わたしだけのために彼を思う。本当の彼はここにはいない、わたしの心の中にだけ住むブローノ・ブチャラティを、わたしは思っているのだ。

それはとても、贅沢な感覚であるように思えたのだ。

ヴェローナにたどり着き、飴色に磨き込まれたドアを押した先のブティックは、まるで神聖な森の中のような静けさと冷たさと、清潔な香りをたたえていた。ガス灯で照らされているかのような薄暗い店の中、奥から持ち出されてきた彼のサイズに直された美しいシャツを受け取って、……その瞬間に、わたしの巡礼は完成したのかもしれない。

「ナマエ」

巡礼の数日後、待ち合わせの場所でわたしの前に現れた彼は、プレゼントしたあのシャツを着ていた。ともすれば下品な着こなしになってしまいかねない、パーツによって色や柄が違うシャツは、——ああわかっていた! ブチャラティが着ることでひどく美しい、品をたたえたものになっていた。
それに黒の細身のパンツを合わせた彼は、思わず笑みを隠せないわたしをみてニヤッと笑って見せる。わたしはそのいたずらっ子みたいな、仲の良い相手にしか見せないその顔がとても好きだった。

「わあ! 着てくれたんだ! よく似合ってる!」
「……なあ、この服の店なんだが」
笑顔で彼に駆け寄ろうとしてそんなことを言われて、ドキっとして思わず足が止まる。
 
「ネアポリスどころかローマにすらない店じゃねえか」
ヴェローナにしかないのか? 服の胸元を軽くつまみながら、ささやくみたいに彼は言った。
「えー……あー…へへ…調べたんだね」
「好みのテイストだったから、ほかも見たい思ったんだが……」

……なんとなくバレないんじゃないかな、なんて楽観的に考えていたのだけど、そんなことはなかったのだ。……さすがに冷静になれば往復8時間をかけたプレゼントなんてきっと重くて仕方ないと思われるとはわかっていたから、どうかバレないようにとどこかで思っていた。

「どうしても似合うと思ったから、……ごめん、あの……重いよね。わざわざ急なプレゼントでそんな……」
「……重い? オレがおまえの思いに尻込みするような男だとは思ってないだろ」

すごく優しい言い方で、彼に釣り合わないのではと思って臆病になったわたしを全部わかってるみたいに囁いてくれる。これが作為でもなく本当にさらりと自然に出てくるのが、ブチャラティというひとなのだ。

「ただ……遠かったな、大変だっただろ」
そう言われて、わたしはそれを勢いよく否定する。

「全然! 大変なんてことは! 久しぶりにトレニタニアに乗って、ずっとその間ブチャラティのことを考えてて……むしろおかげですっごくいい旅をさせてもらっちゃったなって!」
そう言って笑って見せれば、彼は一瞬驚いたような顔をして、それからふわりとやわらかく笑う。

「なあ、今度はオレも連れて行ってくれるか? その旅に」
「もちろん! 行こう! 電車も海沿いを走るのに乗って!」
ちょっと遠回りかもしれないけどきっときれいだよ、そう言いながら見上げて笑えばブチャラティはほんの一瞬目を見開いて、口をきゅっと何かを我慢するみたいに引き結んでから、何にも言わずにわたしをハグした。