Safety Tether

目が覚めたとき、部屋はまだ暗闇に満ちていた。朝が遠い、それだけでわずかに心がふさぐのは何故だ。子供の頃に真夜中に目覚めてしまって、どうにか一人で寝付くまでの間に何か恐ろしいものが暗闇から手を伸ばしてくるんじゃないかとおびえた、ああ無事に夜を越えられなかったと絶望するような、そんな淡い不安のかけらなんかがこんな年になっても、ギャングになっても残っているというのだろうか。……それとも、眠った目をこじ開けるくらいにひどい記憶の残滓でも夢の中で拾い上げたというのだろうか。目覚めた瞬間には、すべてそれが消えていたとしても。

隣には、一緒にベッドに入ったときより斜め上に移動している彼女が髪を顔に貼り付けて妙なポーズのまま、しかし穏やかに寝息を立てていた。……口に入ってしまいそうな横髪をそっとつまみあげて軽く整えてやる。触れられても彼女の息のリズムが変わらないことにわずかに安堵してから、ゆっくりとベッドから足を下ろす。
それだけで、すでにセントラルヒーティングが切られた深夜の部屋の温度はオレの身体を震わせるには十分だった。ベッドの中で温められていた足先が、温度差にびりびりと痛みに似た感覚を覚える。水でも飲もうか、そんなことを考えてベッドから降りようとしたはずだが、ふと目はベッド脇の窓の向こう、ベランダの方に吸い寄せられた。夜でも明るいネアポリスの街に照らされ、暗いはずの夜空が地上の方から淡い赤に染められているのを見て、ふとそちらに足を向ける。

室内だってひどく寒い、しかしそれを忘れたかのように、オレはまっすぐにガラス戸に手をかけた。

冷たい空気が、開けた隙間からすうと入りこんでくる。頬を撫でるその冷たい空気は心地よく、一瞬寒さも忘れる。だが背後のベッドにはぐっすりと寝込んでいる彼女がいるのだ。オレはそのままその隙間に身体を滑りこませると、月明りに照らされた冷たい夜のベランダに出る。

ネアポリスの夜は、街を歩くには女なら不安を覚えてもおかしくないくらいに暗いくせに、夜空から星をかき消すくらいに明るいのだ。
オレンジ色のライトが道を、建物を照らす。その間を白い車のライトがかけてゆく。音もなく、ただ光る街。
冷えた空気の中、ぼんやりとそれを眺めているとどこか柔らかに癒されていくような感覚を覚える。自分の中にたまった澱が、白い息とともに吐きだされていくような、その代わりに身体に入りこむ冷たく清浄な空気が、オレの肺のよどんだ空気と入れ替えられるような、そんな心地になる。実際のネアポリスの空気がきれいだなんてことはありはしないのに。
勝手に奥歯が食い閉められるような寒さ、身を切るような温度に薄着でさらされて、震えながら真冬の空気の中にいて、それと引き換えに何か概念としての清浄さを得ようとしているかのようだった。何を“洗って”しまいたいのかも、わからないというのに。

「……さぁ…っむ…!」
突然聞こえたその声に、咄嗟に振り返る。まだぼんやりとした表情の彼女がベランダに出てきていた。その手には、大きなストールが握られている。
「すまない、起こしたか」
「ううん、勝手に起きただけ……」
そう言いながら、彼女はそっとこちらに手を伸ばす。あたたかな手がオレの冷えた身体に触れて、彼女は少し眉を寄せてささやく。
「こんな寒いところでそんな恰好して……」
せめてそんな薄着はやめてくれと言いながら、彼女がストールを手渡してくる。……自分で羽織るためのものかと思っていたのに、逆にそれをオレに渡しちまったらお前の方が寒そうな恰好になるのに、いろいろ浮かんだが、オレは大人しくそれをマントのように羽織ってから、腕を広げて見せる。

「入るか?」
そう言われたあいつは、こくんとうなずいてからオレの腕の中にするりと入りこむ。抱きしめてやれば腕の中でこちらに背を向けると、オレが何を眺めていたのかを探すように、彼女もまた共にネアポリスの夜の街を眺めていた。
頬に触れる空気は冷たいのに、ストールの中に二人でいればすぐに温かくなって、歯が鳴るような寒さは遠ざかる。身体から発する熱をお互いに分け与えながら、無言のまま夜景をふたりで眺めていた。

そうしているうちに、ふと視線を感じて顔を下に向けると彼女がじっとオレの顔を見つめていた。その視線の意味を問うように軽く首を傾ければ、彼女は腕の中で身体をくるりと反転させてこちらに向かいあってから、そっと背伸びをする。……それに返すべく、彼女の頭のてっぺんまですべてをストールで覆いながら、オレはそっと顔を近づける。
押し当てられたくちびるは、お互いにひどく冷たくなっていた。だがその代わりに、その奥にひそんだ舌の熱さを鮮烈に感じる。生きている温度だった。
その熱はよどみではない、命が肉に火をともす、そんな熱だった。

その痺れるような熱を追って、深く口づける。ストールで頭まで覆ってしまったうえで自分の腕を彼女の身体に巻き付けて、逃げられなくするかのように強く、強く抱きしめる。遭難した人間が縋り付くようなやり方だと自分で思うくらいには必死なやり方だった。腕の中から少し苦しそうに鼻から抜ける息の音が聞こえてから、ハッとなって身体を離す。だが彼女は、平気だとでも言うようにそっとオレのくちびるの端に音をたててキスを落とした。

「……ベッドに行く?」

ストールの中から、ひみつの話をするように彼女がささやく。今度はオレが無言のままうなずくと、彼女はストールの隙間から飛び出した。それから三歩で室内には戻れる狭いベランダでオレの手を取ると、夜明けちかくまでは暖房が消えたままの、だがこんな外よりはいくぶん温かい空気をたたえたベッドルームまでそっとその手を引いていく。握られた指先が、熱とは違う感覚でじりじりと甘く痺れる。

こうしてわかりやすく甘やかされるのを心地よいと思えるようにオレを変えた人間が隣に眠っている。そのことをふと奇跡のように思いながら、オレたちはもう一度、抱き合って眠る。

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Safety Tether=宇宙飛行士が使う/船体と身体をつなぐ安全網



jo夢ワンドロワンライさんにお題「白い吐息」で参加作品