「……ぅう、あ……ぐ、ううぅううぅ」
眠りながら、……いやこれは眠っているなんて穏やかなものではない。意識を失ったまま、唸り声をあげる彼をベッド脇に置いた椅子から眺めている。
私は、わかっているつもりになっていた。彼が生きる世界のことを。でもそんな私の想像がいかに浅く、いかに楽観的な根拠のない希望にみちていたものなのかを今、思い知っている。
彼がいる場所。……それはいつ命を落とすかもしれない、氷の上なのだ。
拭いても拭いても溢れてくる彼の汗を、それでもぬぐう。タオルで彼の皮ふに触れながら目に入った、お腹から背中に向かって巻かれているはずの包帯、傷は背中側だと聞いたはずなのに、……今、彼の包帯は、お腹の方まで赤が侵食していた。……恐ろしさに、私の背中が冷える。彼を失うかもしれない、そんな恐怖がこちらの手を震えさせる。
冷えた汗を拭き、シーツをかけ直した瞬間、びくんと彼の体が跳ねた。その痙攣にも似た動きに合わせて暴れる彼の腕がベッドサイドのテーブルを殴りつけた。大きな音を立ててテーブルに乗っていたはずの水差しがひっくり返り、私は思わず小さな悲鳴をあげていた。
「……どうした!」
物音を聞きつけて部屋に駆けつけてくれたのはミスタさんだった。
半分パニックになって荒くなった呼吸をなんとか抑えようと試みつつ、とにかく平気だと首を振る。気遣わしげな目をした彼に、大丈夫だと小さな声で伝えてみる。
——撃たれたブローノを病院に運び込み、傷を縫ってもらって痛み止めをもらう、そんなところまでやってくれたのは彼だ。しかも、今だってこの部屋に何か良くない輩が来たら大変だからと今夜はここにいると言ってくれたのだ。本当は、そんなたくさんのことをやってくれた彼に、ありがとう帰っていいですよお疲れ様、なんて言えたらよかった、でも、……いまのブローノに何かあったときにひとりで対処できるかどうか、自信はなかったのだ。
……太ももを撃たれていた、なんて、改めて想像しただけで恐ろしくて背中が冷えて行く。そんな場所を撃たれながらなんとか持ちこたえていられるのは、ほとんど奇跡なのかもしれない。
ブローノを見つめる私があんまりひどい顔をしていたのだろうか、きっと彼だって不安にちがいないのに、ミスタさんは私の肩を強く掴んでまっすぐこちらの目を見ながら言った。
「……朝になれば、痛みは残ってるかもしれねえが、この状態はきっと治ってるはずだ。だから、気を落とすんじゃねえぞ」
まだ手の震えがおさまらない私は、ゆっくりと頷いてみせることしかできない。
「……ブチャラティはよぉ、こんなになってんのに、……さっきまでずーっとあんたのことばっか言ってたぜ」
目線をまっすぐ、ベッドの上のブローノに向けたまま彼は静かに囁く。
「……あんたを、ギャングの世界に巻き込んでんじゃねえか、って」
「!」
それを聞いて私は驚いた顔でミスタさんを見上げてしまう。その顔を見せただけで彼には伝わったのか、目の前でにやっと笑って続けた。
「起きたらよぉ、なんか言ってやってくれよ。あんたも重々知ってるかもしれねえが……この人は、そういうとこがあんだよ。自分の欲しいもんより、誰かのためってもんを優先しようとしちまうんだ」
そう続けてブローノの顔を見下ろす表情があまりにも柔らかくて、私はミスタさんがどれだけ彼のことを大切に思っているのか、その強い感情の一端に触れた実感に思わず嬉しくなっていた。
……そして、ミスタさんの言ったことは私もすごくわかる。彼はいつだって、誰かのために動いてばかりなのだ。
「んじゃ、……オレはまた戻るから……なんかありゃあ呼びな。すぐ行ってやるから」
「……ありがとう」
こちらに背中を向けたまま片手をあげたミスタさんが、廊下へ戻っていくのを見送る。今夜はふたりで、寝ずの番だった。
目を覚まさないままの彼のそば、ベッドサイドの椅子に腰掛けると、ブローノの顔に手を触れさせて、囁く。
「巻き込んだなんて……言わないでよ、ブローノ」
親指の腹で、今はなんとか穏やかに一定に近いリズムで呼吸を繰り返す彼のほおを撫でながらつぶやく。
「わたしはあなたに出会えていなかったら、あのとき死んでたかもしれないのに! ……そうだよ、わたしは、きっと一度死んでいるんだよ。あなたに出会って、なんとかもう一回生きられたってだけで……もらってばかりなのはわたしなのに、どうしてそんなこと言うの……?」
巻き込んだなんて、……なんて寂しいことを言うんだろう。私は私自身で未来を選んだ。選んだ結果、あなたと一緒にいるのに。触れていた頬から彼のからだをゆっくりと指でたどっていった先、ブローノの手のひらを柔らかく握る。冷たい手だった。綺麗に浮き出た骨をなぞるように、手の甲を何度も指で撫でる。
「……未来なんてない、のは……あなたは詭弁だって言うかもしれないけど、この世に生きてるみんながそうだよ、……あした死ぬかもしれないのは、この世のみんながそうでしょう」
冗談を言うみたいに言ってるはずなのに、顔は笑っているはずなのに、だんだんと瞳に涙が浮かんでくる。こぼさないように必死に目を開いたままでいようとしているけれど、膜になって視界を歪め、瞳を覆うなみだはあっという間に決壊して、目からこぼれる。
ひとつこぼれてしまえばあとはあっという間だった。止まらない涙が頬を滑っていく。泣きたくなんてなかった、弱さを彼の前でみせることは、……優しい彼の負担を増やすことに他ならないのだから。
ベッドサイドでしゃくりあげながら、なんとか涙を止めようとする。代わりに苦しげな声が口から勝手に出てきてしまう。……彼はまだ寝ているのに。
そんなことを思いながら見つめた先、ふと気がつくと……彼の目がぼんやりと開かれていた。気づいて思わず息をのむ。焦点のあっていない瞳を見つめていたら、必死にこらえようとしていたのなんて嘘のようにぼろぼろと涙があふれてくる。
「……ブローノ……?」
「…………なんだ、泣いてんのか……? どうした……?」
……泣きながら自分を覗き込んでくる私の顔を見て、彼が最初にかすれ声で言ったのはそんな一言だった。
それはひどく枯れてひしゃげた声だった。その言葉のあとには何かが絡まったような辛そうな咳の音が続く。だけど彼の手はまず、ゆっくりと私の涙を拭ったのだ。
「泣かないでくれ、テゾーロ……、アモーレ……。きみに泣かれると、オレは心から苦しいんだ……」
こんなに傷ついているのに彼は痛みを叫ぶよりもまず、彼の名前を呼びながら泣く私の心配をしているのだ。……この人はどこまで、どこまでやさしいのだろう。余計に涙が止まらない。
(あなたが好きだ、わたしはあなたが好きだ)
私の涙を拭ってくれた彼の手を取る、強く掴む。
(すべての覚悟をして、側にいよう)
握りしめた手のひらに、自分のひたいを押し付けながら泣いた。
世界で一番優しいギャングといつか壊れてしまうかもしれない世界で、その日がくるまで共に過ごすこと、これこそが私の欲で、私の夢だった。
優しい人よ、いとしいあなた。
あなたが歩む道が砂の上でも氷の上でも、わたしを側に居させてほしい。あなたと共に、その氷割れ落ちる瞬間も、そのあとも、どうか共に。