Una corda

ひとに近づくことは、いつだって怖かった。

スタンド能力が目覚める前は、自分の中を他人に土足で荒らし回られるような気持ちになったから。……目覚めた後は、自分が少し感情を制御しかねるだけで誰かを、それどころかその地域全体の人間を殺しかねないという事実に怯えていたから。

それでも、ブチャラティが近くにいることを全く怖いと思わなかったのは、彼は土足で僕の中にズカズカ入り込んでくることもなかったし、それに僕が暴走したら迷わずに殺してくれると信じられたからだ。

きっと彼はやり遂げるだろう、手がつけられなくなった僕をパープルヘイズごと、一生だってジッパーの中に閉じ込めてくれるだろう。

こんな能力で誰かを傷つけてしまったら、スタンド能力に目覚め、そう不安をこぼした僕に彼はしっかりと目を合わせながら「お前ならできる」と勇気づけるように言い切ってから、ふと怖い目になって、
「……もしも何かあったら、オレがケリをつけてやる」
そう、言い切ったのだ。その仄暗い瞳に、ひどく安心したのを覚えている。ああ、彼はほんとうに、ほんとうにそうしてくれるだろう。

ブチャラティには、僕の冷静であろうとしている部分も、脳の奥がカッと熱くなってしまうと一呼吸だって置く暇もなく誰かの血を見るハメに落ち入るような部分も、どちらも見られていた。だからこそ、僕は彼を信頼できたのだろう。

きっと僕は、自分の暴走する面を知らない人間には心からなつくことはできない。
自分の冷静な面だけを他人には見ていてほしいと思っているのに、そう思いながら、しかしそれは僕の全てではないと心が叫ぶのだ。
……なんてわがままなのだろう。
見てほしい、見ないでほしい、ひどく矛盾した欲望を抱く僕の心をわかる人は彼しかいない、……ブチャラティ、ただ一人だった。

……それなのに今、ぼくは彼から遠く離れたネアポリスの路上、積み上げられたゴミの上に転がっている。
身体中が痛む、特に足はひどく熱を持っていて、足首が妙な方向にねじれているのを感じる。目が腫れて開けにくい。口の中は泥と血の味がした。……せめてと相手のナイフと鼻を折ったことだけはよかった。だが、些細なことで汚い路地裏で口論になり、しかも男2人を相手して殴り合ったこと自体があまり褒められたものではない。たとえそれがブチャラティを揶揄するような言葉を聞いてしまったという理由でも。

だがあの日、あのボートに乗れなかった日から痛みも何もかも遠いような気がするのも事実だった。生きているのか死んでいるのかわからない、どうやって生きてきたのかもわからなくなった。息をする方法を意識してしまった途端に正しい呼吸が思い出せなくなって過呼吸になるようなものだ、無意識に処理できていたことは、気にした瞬間うまくできなくなる。

ろくに回収なんてされずネアポリスの街にさらされていたゴミ袋は、ひどい臭いがした。だが痛みのせいもあり立ち上がることができない。ゴミ袋をクッションにしたまま、僕は足の痛みが引くのを待つ。痛みが引いてから立ち上がればいい、そうは思うが、

(……だけど、立ち上がったところで……何になるっていうんだ?)

向かう先などとうにない。僕は逃げたのだ。……立ち上がったところでゆく先もない、そう思うと少し笑えた。僕はもう一生、ここにいるのがお似合いなのだ。ネアポリスの利権の狭間で板挟みになり、滅多に回収されないゴミ袋の中に溶けてしまいたかったのだ。

「……あの、大丈夫ですか」

やけくそな気持ちでゴミ袋に埋まっていると、そんな声がかけられた。ゆっくりと、半分視界のふさがった目を声の方向へむける。……見知らぬ女が、少し離れたところから気遣わしげな目でこちらを見下ろしていた。
怒りを逃すようにゆっくりと息を吐き出してから、口の隙間から声を絞り出すように返す。

「……あんた、この辺の人間じゃないだろう。この辺の人間ならこんな路地に放り出されてる様なやつはろくな人間じゃないって普通はわかる。……いいからさっさと通り過ぎてくれ、ぼくは機嫌が悪い」

普段なら、脅す様に言ったところでこの顔のせいもあり、こっちがブチギレるまで相手もろくにこちらの本気を理解しないなんてことがあったが、今日はひどく殴られた顔のおかげで少しは、まったく嬉しくはないがハクが出たらしい。低く這う様な声に女は少し顔を歪めてから、……だが言われた通りに離れることはせず、言った。

「……あなたの機嫌が悪いのは見てればわかるよ。あれだけ殴られて機嫌がいい人間は普通いないでしょ。いい反撃もしてたけど」
……この女、僕がふたりがかりで殴られているのを、……そしてよりにもよって、僕がキレた怒声をあげながらひとりの男の鼻をブチ折り、そして掴んだ手のひらごともう一人の男のナイフを建物の壁に叩きつけて指もろともひん曲げるのをどこかで見ていやがったようだ、……それで、大丈夫か、なんて声をかけてきてるのか? 何考えてやがる……?

「……わかってるなら失せろ」

こんな状況でこんなやつにわざわざ声を出させられているのすらムカついていた。どうか痛みと諦念で身体が重いせいでキレずにすんでいるうちに消えて欲しいと心から思っていたのに、この女にその願いが通じることはなかった。

「……そんなんで歩けるんですか? ずいぶんひどい様子に見えますけど」
言いながら女は青くなった足首のあたりを無遠慮に指差した。ひとつ弱々しく舌打ちをして、食いしばった歯の隙間から唸る。
「…………うるっさいな……ほっといてくれと言ったのが聞こえなかったのか…っ、」

残りの言葉は、むせた咳の音に巻き込まれてかき消えた。咳き込むたびに喉も口の中もひどく痛んで、鉄の匂いを強く感じるのが不快だった。弱っているような姿を他人に見られるのも癪で、なおもこちらを見下ろす女を睨みつけるように見つめ返せば、怯えるでも不快な顔をするでもなく、ただフラットな表情で見つめ返しながら、そいつは淡々と言った。

「……んじゃあ聞こえなかった、って答えにしとく」
「あ? ……っ…オイ、お前!」

女はさっき一瞬でも怯えたような顔をしていたのを忘れたかのように、真顔でこちらの腕を掴んで無理やり引き上げる。何をするんだ、そんな叫びに返事は無く、女はオレの脇の下から、傷だらけの身体にあまり気をつかう様子もなく乱暴に持ち上げた。抵抗する力もろくに残っていなくて、呪詛のように悪態を吐き出すことしかできない。女が自らの身体を支えにこちらを無理やり立ち上がらせた瞬間足首にひどい痛みが走って、思わず食いしばった歯の隙間から呻きが漏れる。それを無視してこいつはいう。

「……言っとくけどこれは自分のためだから。あそこに餌付けしてるねこがくるの。その子が怖がってこなくなったら嫌だからあんたをどけるだけ。……あんたの家はここから近いの?」
「そ……んなの、どうだっていいだろ……。ねこのためなら僕のことは隣の通りにでも置き捨てればいいだけだ」

一瞬考え込むように女は眉を寄せたが、すぐに淡々と呟いた。

「……そしたら勝手に連れてく、いやなら腕を振りほどいてみなよ」

身体中が痛みを思い出してしまった今、女の細い腕ですら振り解くことは不可能だった。
されるがままでどこへ連れて行かれるのかと思えば、こいつはゴミ捨て場のすぐ隣にあった地下に向かう階段を、僕を引きずりながらおりていく。

……もう、どうでもいい。好きにしろ、いまここ、以外なら地獄だってまだマシだ……。

引きずり込まれた先は真っ暗闇だった。……普段なら警戒してしかるべきだろうが、なげやりな気持ちがひどい今はその暗闇を前にしても何をしようとも思わなかった。

女が、こちらの身体を支えたまま暗闇に向かって手を伸ばす、身体が傾く。
ぱちんという小さなライトの音と共に見えてきたのは、……磨き込まれて光るカウンターと、その奥であわい間接照明を跳ね返すボトルの数々が並ぶ、小さなバーだった。

僕を地下に引き摺り込んだこの若い女の店にしてはどこか不釣り合いな、ひどく年季が入った店だ。ただ、センスは古いが手入れが行き届いている。ホコリひとつない店内に、あえて暗闇を残す様なあわい照明。時間が丁寧に染み込んだ空間。
こういう店は貴重だ、死んだ心地になっていたはずなのに、気づけばこの狭く居心地の良い場所を目にして、心がほんの少し高揚する。

その直後、無言のまま女はぼくをどさりとソファに落とした。一言の声かけもなく突然落下させられ激しくなった痛みに呻くぼくの目の前に、濡らされたタオルと湿布、痛み止めの薬が無言で並べられる。
それからことわりもなくタバコを吸い始めた女をじっと見ていたら、彼女はぼくも吸うのかとタバコの箱を差し出すがそれには首を振って、大人しく痛み止めに手を伸ばす。

「……ここ、あんたの店、なのか」
「そう、……先週からね。祖父の店だったけど、葬式の次の日からは私の店」

それだけつぶやいてタバコを消すと、やはり無言のまま立ち上がり店の奥へと向かう女を目で追う。バックヤードへの入口付近、部屋の奥で酒が入っていた空の木箱をその上に積み上げられてしまっているのは、……なかなか立派なピアノだった。窮屈な店の中に、しかも物置として押し込められている気の毒なそれにふと目が止まる。

「ピアノ、ひけるの?」

まさか見られているとは思わず、突然かけられた声に身体がびくんと跳ねる。奥へひっこんだと思っていた女が、バックヤードの入り口でこちらを見つめていた。

「……あんなのでピアノが弾けると言ったらピアニストに殴られる。ぼくはただ鍵盤を叩けるだけだ」
「じゃあ叩いてみなよ、せっかくだから」
「……」

間をつなぐためにか、彼女からしたらきっと適当に言った言葉だ、そんなもの無視だってできた。でもぼくは気づいたら、痛む身体をなんとか起こして、椅子を掴みながら小さな店の中を這うようにピアノににじり寄っていた。

……ピアノは弾ける。だが弾けるようになりたいと自分の意思で選んだわけじゃあなかった。
子供の頃には自分の意思で選んだものなんて、ほとんどなかった。求められることを求められるがまま努力して、そのうち崩壊した。
ピアノだってそうだった、「ピアノが弾けるこども」を、親が求めただけだったのだから。

だが、いま痛む身体を引きずって、すがりつく様に鍵盤に触れているのも事実だった。

ひさしぶりに誰かに何かを頼まれた、それが嬉しかったのだろうか? ……わからない、こんなの単なる気まぐれだ。

息をひとつ吐き出してから、鍵盤を叩き始める。……勝手に指が動き出した後になって遅れて気づく、これはレクイエムだ、……失礼な女の祖父、孫は口下手なくせにひどく強引なやつだが、ぼろぼろの自分がハッとするくらいに良い店を守ってきたその男に捧げてやるつもりで、鍵盤を叩く。

そうして響き始めたピアノの音色の中で浮かんできたのは、……あの人の言葉だった。 
(お前はすごいな、ピアノも弾けるのか。
いろんなことを知っているし、頭も回るし、こんなことまでできるんだもんなぁ、なんて器用なんだ! 
オレとは正反対だ。こんなに出来るうえに頼れる男と偶然出会ったオレは運がいいなぁ)

笑って言う彼、ビール瓶を片手に、ご機嫌な様子で調子はずれにピアノに合わせて歌おうとする彼、ピアノから手を離せないぼくの頭をふざけて撫でた彼、……ブチャラティ。

こんなに痛む足ではペダルはうまく踏めない、そのせいで音は伸びずただ平坦なものになる。
演奏とも言えないような情けない音を奏でながら、……ぼくは気づけば泣いていた。

ぼくの魂を人生最初に救い出してくれた人から離れ、こんなところで燻っている。ぼくは正しいばかにはなれず、それなのに後悔に足を取られ、どこにも行けなくなった呼吸するだけの肉塊だ。
燃えたぎるような怒りも戸惑いも何もぼくを救わない、彼は、ブチャラティは——。

クソ、クソ、ちくしょう、涙が止まらない、なのにピアノを弾く手を止められない。

ぼくがピアノを弾けてよかったなんて思えたのは、あの人の前でだけだったんだ。

「……ハァッ…ハァッ…クソッ!」

ぼくはなぜ見知らぬ女の前でこんなに泣いているんだ? しかもピアノを弾きながら? 冷静になればわけがわからない。
だが適度にかまい、適度に突き放す女の態度が、今のぼくにはある種屈辱ではあるがひどく心地よかったのだ。

最後は鍵盤を殴りつけるようにピアノから音を引き摺り出す。死者に手向けるはずのレクイエムがこんな荒々しい曲じゃないのは確かだ、しかし文句を言われる筋合いもない。

ぶつ切りのように演奏が終わり、唐突に静かになった空間では無音がぼわぼわと耳に残る。悲しみの余韻のようにこの場を満たす、脳内に渦巻くその音ごと振り払うように、乱暴に目を拭った。

ひどい演奏を聴いていたはずの女はぼくが泣いていたことには一切触れず、新しいタバコを吸いながらぼそりと言った。

「あんた、うちでピアノを弾きなよ」
「……はぁ…? いまの演奏、聞いてただろ? ……ぼくはいま痛みでペダルが踏めないんだ。そうでなくとも人に聞かせるようなもんじゃない」
「きっと酔っ払いにはわかりゃしないよ、私だってわかんなかったし。いい演奏に聞こえた」
「……」

そんなわけがないだろう、そうでなければピアノのペダルの発明自体にも作曲者にもつばを吐くようなマネだし、こんな暴走した感情をぶちまけるような演奏がまともなわけがない。

何かを言うかわりにひどい顔を向けているぼくに、彼女は淡々と呟く。

「本当に雇うつもりで言ってるからね、……あんた、名前は?」
「……。…………フーゴ」
逡巡の末に呟いたその言葉に女の顔がぴくりと動く。

……このあたりはパッショーネのシマだ、ブチャラティの担当地区ではなかったが、ぼくの名前を聞いたことくらいはあるのかも知れない。
ああ追い出されるかもな、殴り合ってたのがただの酔っ払いならまだしも、ギャングのやりあいなら面倒に思って当然だ、そんなことをぼんやり思う。

だがあいつは、すぐに当たり前のように返してきた。
「じゃあフーゴ、……働く気なら今日の夜に来て。……働く気がなくても、もう動く気にならないんなら夜までそこのソファで寝てていい。わたしは猫に餌やってから奥でちょっと寝るから。じゃあ、会えるならまた夜にね、フーゴ」

返事も聞かずに言いたいことだけ言い切った女は、今度こそバックヤードに引っ込んでしまった。ぼくの混乱は行き場をなくし、結局ひとり軽く舌打ちをするくらいしかなかった。

あの女は、ぼくの取り乱した演奏も涙も感情も暴力も、すべて目にして、そしてすべてがなんでもないみたいに扱って流す。色々強引なくせに、やけに泰然とした態度に、……ぼくは少しの、楽さを感じているのも事実だった。

あいつは、ぼくのことも拾ったねこくらいにしか思っていないのだろう。いまは、それがよかったのだ。

そんなことを考えながら、ふたたび店の中を半分這うように進み、なんとかソファの上に再び墜落した。
悲しみや怒りが癒える必要はない、せめてぼくに許されたのはこれを抱えて生きることしかないのだから。

だが、相変わらず身体中が痛むが、……いまぼくはひさしぶりに、何に遮られることもない、純粋な眠気に襲われていた。