久しぶりに彼の姿を見たのは、私が慌てながらアツアツのピザのお皿を、その熱さに汗をかきつつ必死に運んでいるときだった。
いつものテーブルに見慣れた、そしてこの一週間誰より焦がれていた彼の丸い、美しく整えられた後頭部を見たときの心のはね具合といったら!
仕事で遠くに行く、そう言い残して私の前から消えた彼も待ちきれなかったのか、わざわざ私が働くリストランテまで足を運んでくれたのだ。前にも何度かあったことだけど、何度目だろうときっと彼の〝出張〟に慣れることなんてないのだ。
嬉しくなって、私のおごりのつもりでこっそりとジェラートをテーブルに運ぶ。少し驚いたようにこちらに顔を上げてくれた彼に、口の動きもついてきてしまうような下手くそなウインクをしてみせると、ブローノは優しい苦笑をしてから言った。
「……ありがとう。ありがたくいただくよ。だが……随分忙しそうだな。一応、迎えに来たんだが……」
彼は私のシフトが終わる時間を覚えてくれていて、だからこそこの時間に会いに来てくれたのだとその一言で気づく。……そして彼の言う通り、人手不足と謎の混雑が重なった今日、私はおそらく彼と一緒に帰るのは難しい。
「……ごめんね、せっかく来てくれたのに一緒に帰るのは難しいかも……。でも出来るだけ急いで帰るから! あんまり待たせないようにするから!」
頭の中でどうやってこのあとの仕事をやっつけていかに素早く店を飛び出すかの算段を立てながら言い切る。ブローノは一瞬考え込むように言葉を切ってから、「このあと、一瞬だけ顔を借りれるか?」と囁いた。
「少しなら大丈夫! さっきから休憩だってろくに取れてないんだから! むしろ休む権利があるんだから堂々と抜けてやる!」
「……なら、裏口で」
その言葉にうんうんうなずいて見せてから、(それでもきちんとそこらのお皿をキッチンに持って帰りつつ!)お腹の前に下げていたエプロンを剥ぎ取りながらキッチンを抜けバックヤードも通り抜け、私は彼に言われたとおり店の裏口のドアに手をかける。
空のワインケースが積まれているせいであたりが見渡しにくく狭い店の裏に勢いよく飛び出した瞬間、くんと片方の腕を引かれた。
「!」
引っ張り込まれた先は、裏口を照らしているはずのライトの光がそこまでは入らない、お店の脇の細く暗い路地だった。一瞬だけ、暗闇に引き摺り込まれた恐怖で息が止まる。でも次の瞬間ほのかに香った、柔らかな香水の匂いと彼自身が放つ柔らかな草にも似たほんのりと甘い匂いがまじった香りが、私を掴んでいるのがブローノの手だと理解させてくれたからすぐに怯えはかき消えた。
……真っ暗だ。ほとんど何も見えない中、壁におしつけた私を前から覆うように、ブローノはこちらを抱きしめている。
ほとんど何も見えないからこそ私の感覚は鋭くなって、彼の熱と香りとを貪欲に、そして鋭敏に感じ取ってしまう。全身が、一週間ぶりの彼の存在に満たされじんわりとした幸福感が熱になって身体の中を巡っていく。両手でしがみつくように力を込めて抱きしめ返す。……ああこんなことになるのなら香水でも付け直すんだった、きっといまの私からは焼けたチーズとトマトのにおいがしてるだろう。
それでもとにもかくにも私を抱きしめているのはブローノ・ブチャラティなのだ。この一週間焦がれつづけた、私の恋人。……そう改めて思うだけで、身体中が心臓になったみたいだった。喉のあたりでばくばく音がする。彼の方からは深い呼吸の音が身体から直接伝わってくる。
それだけでもう久しぶりの感覚にいっぱいいっぱいだったのに、ブローノはそっと私の身体を離すと——次の瞬間、暗闇で顎をすくわれる。何かを考える前に、そして何かが見えるようになる前にくちびるに柔らかく熱いものが押しつけられるのが先だった。やわやわと何度かくちびるをはまれて、お返しするみたいに何度か彼のくちびるをはむ。やわらかなリップ音が響くたび、耳に熱が集まってちりちり焼けるような感覚になる。
彼の二の腕のあたり、スーツの生地を握りしめながら、もっと深く繋がりたくてそっと背伸びをする。かすかに笑った息の音を頬で感じたと思えば、キスをしながら彼の手はいつのまにか私の頭を何度もなでていた。
しばらく彼を味わってから、名残惜しく感じつつもなんとかゆっくりと身体を離す。相変わらず暗い中ではほとんど何も見えなくて、荒くなったお互いの息の音だけが聞こえていた。こちらが何かを言い出す前に、彼は私の頬をなでながらぽつりとつぶやいた。
「……悪い、こんな……急なのは、粋じゃあない」
その言葉があんまりにもなんだかさみしげにかすれていて、私はとっさに勢いよく首を振る。でも振ってからきっと見えていないだろうということを思い出す。相変わらずあたりは暗くて、少しずつ目が闇に慣れてきた今でも、見えるのはわずかに光る彼の目くらいだった。
「で、でも……あの……ドキドキしたから!」
素直に言ってしまってから、ただ興奮した勢いしかない言葉に自分で顔が熱くなるけれど、それが私の本心だった。
こちらの言葉のあまりの勢いに彼は少し楽しそうな声音で、優しく返してくれる。
「ドキドキしたのか」
「そう! だから……」
笑って返したその時、私たちが隠れている路地の真横の道を、一台のスクーターが駆け抜けた。
ライトの光が、私を見下ろす彼の顔を照らし出す。
細められた目、柔らかに持ち上がる口角。一瞬浮かび上がったその表情は、淡く微笑んでいるようにも見えた。……でも、より強く感じたのは何かを噛み締めるような、強い悲しみだった。
震えそうな口もととかさついた目元は、笑っているはずなのに泣き出す寸前のような表情にも私には見えたのだ。
……さっきのかすれた声と寂しげに細められる目を目の当たりにして、何かがあったのだ、ただそれだけを理解する。
彼が仕事の後、真っ直ぐ一人で帰りたくなくなるくらいの、〝何か〟が。
そう気づいた途端、たまらなくなって彼を思い切り抱き締める。私はここにいる、あなたを抱きしめている。そう伝えたくて、肩のあたりに顔を押し付けながらささやく。
「……絶対、大急ぎで帰るから」
「……ああ。まあ、オレでも一人で留守番くらいできるから、そんな焦らなくていい」
冗談めかした声に、余計に胸がきゅうっと苦しくなってしまう。きっと自分がどんな顔してるのかなんて、私には見えてないと思っているのかもしれない。
「いや、ほんとに、……大急ぎで帰るから!」
言いながら更に強く抱き締める。暗闇で彼の身体がどこかに消えてしまわないように。
もう一度エプロンをつけてお店に戻る気はどこかに行ってしまった。こんな顔をして私にキスをして抱き締めてくるひとを一人で帰すことは、私には出来なかったのだ。