誰かに見られている。その感覚に鋭敏になるのは、ブローノ・ブチャラティにとっては当たり前のことだった。それが「当たり前」であることに対して何かを思ったことはなかった。せめて憩いの場であるバールでくらい、穏やかに過ごしたいなどと思うことも。気を張り続けるからこそ、この街でギャングとしてやっていけるのだから。
そして……今も感じている視線の主は、一体誰だ? 尾行でもしているつもりなのか、それとも店の混雑に乗じて人を刺し殺そうとでも言うのか。多くの客が思い思いにコーヒーを楽しみ時間をつぶす、そんな街中のバールではあり得ないほどの強い視線を感じる。ブチャラティは感覚を研ぎ澄ましながら、しかしそれを悟られないよう顔をほんの少し後ろに傾けると、視線を感じた方向に目だけを鋭く向ける。
だがその目線の先には殺気だった人間はもちろん、カタギに見えないような奴も、……そんな奴に金とナイフを握らされて鉄砲玉がわりにされた様子の子供も中毒患者も、見当たらない。
じゃあなんだ? 今の視線が気のせいでないことは確かだ――。
そんなことを考えていればふと、彼の視界の端には必死なようすで、膝の上にのせたスケッチブック
か何かの上にかがみ込んで片手に掴んだ鉛筆を走らせる女の姿が入り込む。
(……もしかして、あれ、……か?)
他に目ぼしい人影もない。女は一瞬だけ顔を上げると、ブチャラティそのものというよりもこちらの方向全体に一瞬目を向けて、また手元の紙の上で手を動かす。
尋常じゃない集中力に見えた。だがそれが『ただの絵描き』なのか、そうやって描くことで対象を規定して発動するスタンドなのかはわからない。……警戒を簡単に解いていいとは思っていないが、不思議なくらい彼女から害意のようなものは感じない。
ただ、巧妙に「こちらの方向を見ているがブチャラティそのものを見ようとしているわけではない」という態度を取ろうと試みているようだった。自分は単にブチャラティのいる方向に目を向けただけであり、視界にその姿が映りこんでいるのは偶然である、とでもいうような。
だが、油断した風を装って背中を向けてやればあからさまに視線が後頭部に突き刺さるのだ。
ブチャラティはそっと身体の角度を変えると、ふたたび目だけをそちらに向けた。横髪の隙間から向けられた視線を、彼女は気づいていないようだ。
人が絵を集中して描くとき、鉛筆はがりがりとせわしなく、細かく動いているものかと思ったが案外そうでもないらしい。柔らかに、迷いなく長いストロークを描いて紙の上を鉛筆が走っていく。もうこちらに目を向けることもなく、女はただひたすらに紙に向かう。そこに悪意や攻撃性などはまったく見えない。少し盗み見ただけでもわかるような、ただ夢中の表情があるだけだった。
ブチャラティが彼女に対して最初に抱いたのは『ずいぶん楽しそうに絵を描く』、という印象だった。窃視するのはどうやら下手なようだが。そう心の中で付け加えつつ。
それからブチャラティは同じバールに来るたびに、自分から彼女の姿を探すようになっていた。会えない日ももちろんあるが、鉛筆を掴んだその姿を見かける日の方が多かった。彼女もこちらを必ず見ているのには気づいていたから、その目線とは重ならないように。気づいていないフリをして過ごすのもなかなかの苦労だったが、そうしているとまるで目が合うと逃げる野良猫でも相手しているような気持ちになる。
だが、もともと監視の任務も嫌いではないのだ。ブチャラティは素知らぬ顔で、また彼女の視線を感じながらコーヒーを口にする。
(……オレに攻撃しようって人間以外に、あんなに飽きずに見つめられるって事もなかなかねえな)
他にはない熱量を持ったその視線をぶつけられるのは、不思議と嫌ではなかったのだ。バレないように気を遣わなければなんて言いながら、彼女とお互いに見ていないフリをし続ける奇妙な逢瀬が、このバールに来るときの楽しみの一つになっていることにはとっくに気づいていた。
ときにこちらを見つめながら、熱が出ているみたいにぼうっとなっていたり、難しい顔をしてゆっくりと迷うように線を引いたり。ある時はまたずいぶん筆がのっているようでほとんど顔を上げず紙にかじりつくように描きこんでいたりする。
そんな姿を何度も見ていればきっと敵ではないことはわかっていたが、念のため彼女――ナマエの身辺も洗ってみた。予想通り何も出なかったが。
身辺調査までされていることも知らずに、今日もまた熱心に鉛筆を握る彼女をブチャラティは視界の端に捉えながら思う。ナマエには、いったい自分がどんな風に見えているんだろうか――ブチャラティは次第に、彼女の目を通した自分の姿にまで想像を広げるようになっていた。
そして見かけるたびに熱心に紙片に向き合う彼女を通して、ブチャラティは『絵』というものが生まれてはじめて、人生の中に具体的な手触りをもって入り込んできた感覚に不思議な感慨を抱いていた。
絵を見たことがない、なんてことはもちろん言わない。教会なんかのずいぶん立派な天井画はしょっちゅう目にしていたし、贋作師の作った作品を運ぶ仕事もしたことがある。
しかし、天井画のように何人もの画家が何年もかけて描き続けたものは確かに立派なものに仕上がるだろうが、その「立派である」こと自体が、その絵の目的を考えても権威付けというものからは逃れられないように思えたのだ。そして贋作も同じといえば同じで、作品や絵画というものが持つ権威があるからこそ、それを信じる人間がいるからこそ、そんなものが作られるのだ。
ブチャラティが絵について考えるとき、その美しさよりも先に目に入るのは権力と金でしかなかったのだ。
だが――もしかすると彼女が有名な画家という可能性もあるかもしれないが――それでもこの瞬間、ナマエはただ自らのために描いているように見えた。そう思わせるのは、恍惚としたり悩んだり、百面相を浮かべながらこちらを必死で見つめ続け、夢中で描き続ける姿を見たからだ。
そもそも『絵』というものは、絵の具やらなんやら、何百色も使って、部屋にこもりきりで描かれるものだと思っていた。(その考えも、彼が抱く「絵」の持つ特権と権威のイメージを強固にしていた、)だが、一本の鉛筆と紙があればそこから絵は描けるのだ、当たり前のことにはじめて思い至る。
今も彼女の手の下、紙と鉛筆の間で起きる摩擦から作品が生まれているのだ、そう考えると不思議な感慨がまた湧き起こる。しかもそれは、勘違いでなければどうやら自分を描いているようだ。
人間の手仕事を好ましいと思うのは昔からそうだった。
父が無骨な手で網を繕う姿が好きだった、母が白く華奢なその手で、少し握りにくそうなくらいの大きな包丁をものともせず、鮮やかに魚をさばく姿も好きだった。目の前の生活や人生のために、自らの手でなにかを生み出す、ささやかで切実な行為。
楽しそうにこちらを見つめる彼女のことを改めて思う。絵を描く行為というものが権威や金から離れ、筆を握るその人間自身のための行為になりうるのだ、そう理解すると、これまで絵に対して抱いていたイメージ、凝り固まった何かが柔らかくほどけていくように思えた。
純粋で、自分のためだけの手仕事としての絵。それに思い至らせたのは彼女だった。自らの幸福のために、彼女はブチャラティを描いていた。
(……本当に……一体、あいつの目にはオレがどんな風に見えてるんだろうな)
ブチャラティは、いつもの定位置からこちらを見つめる彼女を再びチラリと視界に入れる。
どんなに気になっても彼女が望まないなら声をかけない方がいいことはわかっていた、いくら街の人間に頼りにされているといっても、こちらがギャングということに変わりはない。だがもうしばらくは、この奇妙な視線のやり取りを楽しみたい――ブチャラティはそう思っていた。
ブチャラティのことを見つめていたナマエの方は「ばれないように誰かを見つめる」、ということに長けている自信はあった。
短い時間で観察し、相手の人となりまで想像して絵に落としこむ。
最初は軽い練習のつもりではじめた外で行う人物クロッキーも、街の人たちを眺めながらその人の生活まで想像していたら余計に楽しくなってきて、自分が思っていた以上に夢中になっていた。
田舎でも絵を書き続けることは出来ただろうが、このネアポリスに来たのは正解だったと思う。見た目も年齢も地元よりもずっといろんな人間がいるし、スケッチブックにかじりつく自分のような女も街の背景になって、誰も気にかけることがない。
それでもきっと他人からジロジロ見られても平気な人間なんていないから、さっと視線を向けて、さっと下を向いて描くのがクセになっていた。今のところ誰にバレることもなく、ナマエは鉛筆を握りながらの人間観察を続けている。
個人が特定できるような顔の描き込みはしない、あくまで形をとって、絵に映しこむだけだ。いろいろな形を持つ人々を、その違いも楽しみながらできるだけ数多く描いてスケッチブックをにぎやかにするのが好きだった。……しかし、ある日彼女はその認識をある男にひっくり返されてしまった。
それこそが、ブローノ・ブチャラティとの出会いだった。
そのたたずまいだけで只者ではないことはわかった。そして正体がわからないとしても、このあたりでそんな風に感じる相手がどんな職業であるかも彼女自身わかっていた。
それでもナマエはブチャラティから目が離せなくなっていた。
彼は、姿かたちも美しい男だった。低く響く声も、柔らかで聡明な響きをしていた。
完璧なカーブを描いた丸い後頭部、顔の印象と比べると広く感じる肩幅。高い位置でくびれる腰、筋肉がその下にあることがわかるような、白いスーツの中の手足。
時に鋭い目をすることもあったが、基本的には柔和な表情で、相手の目を見て言葉を交わす。
そう、彼の姿で目を引くのは何よりも目、だった。
青のガラスや宝石をいくつも砕いて丸く固め直すと彼の目になるのではと思えるような、光の当たり方でいくらでも表情を変えるその瞳。
じっと遠くから彼を見つめているうちに、その仕事の割に感情豊かな男だと思うようになったが、感じた印象通りに顔の表情自体がころころ変わるわけではないことにはあとから気づいた。正しく言い表すなら、彼の瞳の色が、光を取り込んで多彩に変わるからそう見えるのだ。ひとりでいる時は影を背負って見える瞳が、街の人に話しかけられるときらりと光を集め出す。ただ表情が変わるんじゃない、あまり明るいわけではないバールの中で、目だけが光って変わるのだ。
ブチャラティが意識して目に光を入れているのかどうか、それはナマエにはわからなかった。
このネアポリスの街の中に誰よりもなじんで見えるのに、その美しさのせいでどこか背景にはなれない彼のことを、ナマエは気がつくといつも考えるようになっていた。
コーヒーを注文して静かにそれを飲み干しそっと店を出ていくときもあれば、店の中で誰かしら顔見知りに見つかってしまってしばらく会話に付き合わされている姿も見た。(ブチャラティ、彼の名前をその時の会話で知ることができたのはラッキーだった、)そして彼は必ず、保留コーヒーを——コーヒー1杯分のお金を持ち合わせていない人のためのコーヒーを必ず注文していく。……彼の真似をして、最近はナマエもささやかながら2杯分のコーヒー代を払うようになった。
そして気づけばナマエは、当然のようにブチャラティばかりを描くようになっていたのだ。
さらに言えば街の住人たちを描く普段のスケッチブックとは別にもう一冊、彼専用のスケッチブックを持ち歩くようになるまでそう時間はかからなかった。
バールに行けばいつでも会えるわけではない、というのがさらに、出会えた時には描かなければというナマエの意識に火をつけた。
バールにブチャラティが来たことに気付くと、ナマエはソワソワしながら専用のスケッチブックをカバンから取り出して、そっと鉛筆を走らせる。
……だがこれを見られたら、すべてが終わることはわかっていた。相手はあんなナリをしていたって間違いなくギャングなのだ、スケッチブック没収で済めば御の字、あとは……想像しようと思えばいくらでも怖い想像が浮かんでしまう。それでもやめられなかった。
それは彼が私の『ミューズ』だからなのか、そうふと思う。……そうなのかもしれない。めくってもめくっても終わらない最高の小説をめくり続けるような気持ちで、ナマエはブチャラティを描くことにのめりこんでいった。
そして見つめれば見つめるほど、彼の美しさを知るのだ。それは見た目のことだけじゃなかった。困った顔をした老婆、キレた酔っ払い、何があったのか泣きはらした目の若い女性……バールを訪れる様々な人々に対して、押しつけがましくない優しさでもって、それぞれ〝一番良い〟方法で向き合う。老婆には目線をあわせてゆっくり話を聞き、ひどい酔っぱらいは店から引きずり出して(……その後そいつがどうなったのかは見えなかったけれど、)戻って来たら店主に拍手なんかされていた。泣いていた女性には適度な距離をとりながら話を聞いてやって、そのあと店の中の別の客を紹介してやっていたようだ。……それぞれ何があったのかは知らないけれど、親切にしすぎってこともあるんじゃあないの、そう心配になるくらいに、彼は人の世話を焼いていたのだ。
描くことを通して『ブチャラティ』に触れながら、ナマエはひとり、自分の中で彼の存在が勝手に大きくなっていくのを感じていた。しかしだからといって声をかけたり、近づいたりするつもりもなかった。絵を描く事への原動力になるような存在に出会えたことにただ感謝しながら、これからもひそかに彼を描ければそれでよい、そう思っていたのだ。
いつものように夜のバールを訪れたブチャラティを迎えたのは、また自分に熱心に視線を注ぐ絵描きの彼女と、眠そうな顔をして本をめくる常連客、そして――どう見てもカタギじゃあない、このバールでは見慣れない人間が一人。その男はカウンターに身体を預けるようにしてコーヒーを口にしていた。彼はブチャラティの方を一瞥して、それからすぐに自分のカップに目線を戻した。誰かを待っているのか、時計に目をやってはイラついた様子でこつこつとテーブルを指先で叩いている。
ブチャラティは何でもない顔でバールマンにいつものコーヒーを注文しながら、その見慣れぬ男の近くのカウンターに立つとそっとそいつの顔を眺めた。
……その整った横顔に、ブチャラティはまったく見覚えがないわけではなかった。何度か組織の集まりで見かけたことはある顔だ。そうでなくても洒落た出で立ちと身体からにじみ出る鋭い空気も相まって、そいつがカタギの人間などではなくパッショーネの人間だということはわかる。だが――どこの幹部の下についていて、どこのチームに属しているか自分が知らないということは、なかなかヤバい仕事を背負わされている連中だろうと見当をつける。そしてそんな仕事を負うようなヤツらは、自分達よりもさらに「カタギとは異なる価値観」で生きていることが多い。
紺地にヘリンボーン柄のスーツに、金髪をオールバックに撫でつけ洒脱な空気をまとったその男を見て、ブチャラティの意識はとっさに、あの『スケッチブックの彼女』に向かった。
これまで、彼女が夢中で描いていたのが絵にされることを面白がっているような自分だったからいいものの、きっとギャング連中にはスケッチされたのを知っただけでキレるような奴もいるだろう。むしろギャングとしてはそっちの方が当たり前の反応だ。そんな切れやすいヤツが自分の逆鱗の場所を紹介しながらうろついているわけじゃあない。もしも彼女――ナマエが、自分への熱量と同じくらいの熱量を持って、今度はこの男に目をひかれたら……そこまで考えたブチャラティは一瞬の逡巡ののち自らのカップを掴むと、彼女の定位置――店の端のテーブルに目を向ける。あくまで距離をとったままでいようと思っていたのは事実だが、それ以前のところで何かあったら困るからだ、彼女を厄介ごとから守るためだ、自分にそう言い聞かせるように心の中でつぶやきながら、目を向けたそのテーブルの方へと足を向ける。
しかしブチャラティの心配をよそにナマエの視線は、あくまでもブチャラティただひとりに注がれていた。今夜も彼に会えた、それだけで心が浮き上がる。……いい加減、見つめすぎだという自覚はあった。彼専用にしたスケッチブックも一冊目が埋まりつつあるくらいだし。だが、まあそれでも今のところはこちらの視線にも気づかれていないのだから何も問題はないか、そんなことを思いながら今日も、カウンターに身体を預けながらバールの店主と会話をかわすブチャラティを眺めていたら――談笑で浮かんだ笑顔のまま彼はふと振り向いて、ナマエの方に顔を向けた。
……思わず、息が止まった。今、目が合ったか?
どうか偶然だと誰か言ってくれ、わたしの隣の空いてるテーブルで誰かと待ち合わせするからとか、そうでしょう、きっとそう、――だがそんなことを思ってみたところでまったくの無駄だった。彼はバールの店主に向けて何か口を開いてから、……ゆっくりと、ナマエの方へと足を向けた。
(……っ、どうしようっ……バレた、いつ、いつバレた?)
いつだろうと関係ないだろ、そう頭の半分では思いながらもとにかく逃げなければと、慌ててスケッチブックを閉じ鉛筆をペンケースに放り込みバタバタと立ち去る準備をしていたが、……そんな慌てたナマエの前に、彼が現れる方が先だった。
……目の前に、遠くからひそかに見つめ続けた顔がある。人好きのするその笑顔、……それでも、礼儀の正しさでどこか相手に一線引くようなその笑顔。思わず見上げたまま動きが止まってしまう――
「なあ、……オレのこと見てただろう?」
相変わらず顔はにこやかなまま、彼はそうささやいた。その言葉を聞かされたナマエの方は心臓がきゅっと音を立てて縮み上がった気がした。
思わず一瞬息が止まったくらいには彼にバレることを恐れていたのは確かなのに、目の前で自分に向けられるブチャラティの笑顔というものはあまりにも綺麗で、……今すぐこの顔を紙に閉じ込めたいという欲求をナマエは感じていた。
きっと正しい答えは「いえ見てないです失礼します」と脱兎のごとく逃げ出すことだとナマエにもわかっていた。……それでも、身体が動かない。それは恐怖半分、もう半分は泣いて頼めばこの距離で彼の絵を描かせてもらえないだろうか、というこの場にはきっとそぐわない考えが浮かんだせいだった。だが、引き続きブチャラティが柔らかな声で発した言葉に、今度こそ恐怖が濃くなる。
「昨日今日、って話じゃあないだろう、君がこっちを見ていたのは」
「……っ、あの……は、い………………そう、です……」
慌ててかき集めたがカバンにしまいはぐったテーブルの上の鉛筆に、ブチャラティはちらりと目を向ける。
「オレの絵を描いていたのか?」
ここで何かごまかす言葉を言えればよかったのに、何も思い浮かばなかった。相手の素性を考えればウソをついてそのまま信じてもらえるわけでもないだろう、ナマエは静かにうなずくことしかできなかったのだ。
「……やはりな。ずっと気になっていたんだ。……なあ、よければ……どんなのを描いていたのか、オレに見せちゃあもらえないだろうか」
「え……」
想像もしていなかったブチャラティの言葉に、ナマエはぽかんと口を開けて彼を見返す。……作品に、興味があって声をかけてくれたのか……なんてことを一瞬思ったがすぐに思い直す、彼は絵に興味があるわけじゃない、自分に何をされたのかを見たいのだ、ギャングとして――そんな考えに思い至ると、さらに指先が冷たくなっていく気がした。
震える手で、ブチャラティだけが載っているスケッチブックをそっと差し出す。自分は絵を描きたくてネアポリスにきただけの人間だ、街の人間と言うにはあまりにもよそ者で、彼のことを何も知らない。見つめ続けて知ったつもりになっていた優しさも、あくまで知ったつもり、なのだ――。
そんなナマエの目の前で、ブチャラティは受け取ったスケッチブックを一枚ずつゆっくりとめくっていった。
描かれているのは、カウンターで立ったままコーヒーを飲む姿、テーブルに腕を置いて目線を遠くにする姿、バールマンと笑ってやりとりする姿。足を組んで椅子に座っているのも、何故かしゃがみ込んで床に触れている絵も――これはなんだ、一瞬考えてから絵の中に描かれたものを見て理解する。それは床に触れている絵というわけではなく、いつだったかカップを落としてしまった客の代わりに割れた破片を拾い上げている姿のようだ。
どの絵もみな、ブチャラティから見ても良い表情をしていた。どの絵も特に瞳が細かく描きこまれている。こんな柔らかな目が街の人々の前で出来ているのだとしたら、それは――ブチャラティにとって、願ってもないことだった。
ブチャラティは時々、『本来の自分』というものがどこにいるのかわからなくなることがあった。
もちろんどう考えたところでギャングはギャングだ、それがベースなのは間違いがないと思っていた。
あの日、父を殺しにきた男たちにナイフを突き立てたときに別の世界に足を踏み入れる覚悟は出来ていた、それを後悔することはない。それでも、街の中で人々と過ごしている自分と、暗がりでろくでなし共を怒鳴りながら殴りつけている自分、そのどちらが『元の自分』だったと言えるのか、たまにそんなことを考えることがあったのだ。答えなど出ないことはわかっているのに。
だがこの絵を見ていると、その問いに答えが出るわけではないが……自分がこの街で良い時間を過ごせていることは確かなように思えた。街の中で、他者と関わり生きている。少なくとも、このバールの中で交流する時間はきっと独りよがりなものではないのだ、……そう思わせる力が、彼女の絵にはあったのだ。
――絵を描く、描かれることを通して熱心に見つめられているというのは自覚していたが、改めて想像以上の熱量を、自分の姿で埋め尽くされたスケッチブックから感じる。なんだか礼の一つでも言いたくなってふと顔を上げれば、ブチャラティの目の前でナマエは青い顔をして震えんばかりになっていた。
あれだけ熱心に自分を見つめていたはずなのに、いまのナマエとは目線が合わない。……悪いことをした、そんなことを思う。これで彼女が絵を描くことまで怖がってしまったら……それは、ひどく残念だ。
彼女に描くことを止めさせたいわけではなかった。むしろ――。
「……なあ、何故オレなんだ?」
だがナマエの顔がこれ以上青ざめていくのを止めるための言葉をかける前に、口をついて出たのはあまりの熱量を見せつけられたせいで思わず浮かんだ疑問のほうだった。しかし結果として、この言葉はナマエに息を吹き返させる力があったようだった。一瞬言葉を喉に詰まらせてから、彼女はぱっと顔をブチャラティの方に向けると、まっすぐに彼の方を見つめながら必死な様子で囁いた。
「……すごく、綺麗だったから! あと、凄く、あなたが親切で……もっと綺麗だと思ったから! 保留コーヒーをレジで頼んでるのに、店の入り口のところの寄付のビンにもお金を入れてたり、最初は不思議だったけど、どこか隠れていたいのかなって思ったり、靴紐を結び直す間その人のコーヒーを持ってあげてるの見たり、おばあさんと長話してるときの顔がすごく優しいんだな、とか……あと……あれも……全部素敵で……」
ナマエは混乱したままの語り口で、しかし絵の上にのっていたものと同じ熱量で語り出した。止まる様子もない。だが、その覚えのある目線にも似た熱を直接浴びたブチャラティの方は、想像もしていなかった言葉の奔流にそのまま押し流されるような心地になっていた。その流れを押しとどめるようにナマエに向けて手のひらを向けて言葉を遮る。
「……そのあたりでいい、十分わかった……君には、隠し事ができないようだ」
「……っ…、ごめんなさい……」
何か勘違いした様子のナマエが青い顔をしてあわてて口を閉ざすのに首を振って見せてから、ブチャラティは熱を持った頬を口元ごと隠すように顔の上に手をのせる。
「いや、……驚いているだけだから、気にしないでくれ……」
驚いている、ブチャラティが口にしたのはその言葉だが、正しく言えば照れの方がより近いもので、今度はブチャラティの方が彼女から目線を外す番だった。見せつけられたまるで子供のような純粋な感情、それは彼からしたらまったく想定外だったのだ。もっと何か、……絵を描く人間が持つ特別な感覚があるのではないかと思っていたのだ。何か……人体のバランスがいいとか、そんなことで描くのにちょうどいいモチーフが、たまたま自分なのだと。
だが、そうではなさそうだ。彼女が描きたいと思った感情は……まるで好意、そのままじゃあないか。
お互いにどう次の言葉を継げば良いのかわからないままテーブル越しに向かい合っている中、二人の背後から小さな機械音が聞こえた——その直後、ブチャラティが警戒した例の紺スーツのオールバックの男が自身の電話に向かって声を荒げはじめた。
彼女は、突然上がったその声につられるようにブチャラティの後ろを見る。その目線の動きを見て、ブチャラティはそれを遮るようにとっさに呟いていた。
「……なあ、オレだけを見ていてくれ」
彼女が電話の男を見るのを遮ろうとする試みは成功したようだ、驚いた表情のナマエがブチャラティを見つめる。
「ほかのやつなんて描くなよ、モデルでもなんでもしてやるから、……オレだけ見てろ」
それは彼女の絵が気に入ったのも素直な事実だったが、……やはり彼女に危うさを感じているから、というのもまた事実だった。会話をしたら余計にその思いは強くなる。彼女の思いは純粋で眩しく、そして危うい。
何か目を引く、彼女にとって惹かれるものをもっている相手がまともかどうかわからないのだ、それならば自分に彼女の目をくぎ付けにさせておいた方がよいだろうという判断のもと、口をついた言葉だった。
だが、言ってみてから、……そしてこの自分の言葉を聞いて目を丸くして、それから頬から耳までをうっすらと赤く染めた彼女に気付いてから、自分がとんでもないセリフを吐いたことにようやく気付く。
「……っ」
こっちがモデルになるのは構わないが、君が何を描こうと自由なんだ、それを邪魔立てするつもりも権利もオレにはない、それはわかっている、そんな風に今の発言を取り繕うための言葉はいくらでも浮かぶのにうまく声にならないのは、……とっさに出た『オレだけ見てろ』が、ある種の本音だと自分自身わかってしまったからだった。その気づきに言葉をつまらせたブチャラティより、ナマエが驚きと興奮が混じった明るい声をあげるほうが先だった。
「……モデルになって……くれるんですか?」
「っ、ああ、……君さえ望めば、だが……」
「嬉しいです!! そうしたら……そうだ! せっかくだから太陽の下とか、あの、バールにいるときじゃ描けなかったのとか描きたくて……!!!」
あれがしたい、このポーズはどうだ、服も相談できないだろうか、などとまた思いの奔流にさらされて、ブチャラティは困惑とだけ呼ぶには甘い感覚に皮膚がじりじりと熱を持つことに気がついていた。
(さっきまで怯えた顔していたカタギの女だ、目の前にいるのは)
言い聞かせるように、ぐらつきそうな自分を押しとどめるように心の中で呟く。
(だが、まずは友人になればいい、だろうか)
街の中には少なからずこちらを友人と、そう思ってくれているような人間もいる。彼らと同じように、まずはこの彼女——ナマエともまずは友人になれれば、それでいい。
(……”まずは”?)
頭の中に無意識に浮かんだ言葉に一番驚いているのは、ブチャラティ自身だった。その驚きに停止しそうになった思考を、ナマエの言葉が取り戻させる。
「そうだ、あの……勝手に描いてしまってすみません……最初に謝らなくちゃいけなかったのに……」
「いや、……いいんだ、そんなのは」
「わたし、ナマエといいます……あの、あー、よろしくお願いします!」
こうして自己紹介される前から実は君の名前を知っている、いくら動揺していてもブチャラティには彼女の為にそんな言葉を押し留めておける冷静さは残っていた。ナマエの言葉に微笑みだけで返しながら、指に鉛筆のタコが見える手のひらを彼女が握手を求めて自分の方へと差し出したのに、やはりその『仕事』の染み込んだ手のひらを妙に懐かしく、そして快く思いながら、自分の手のひらより薄く小さな手を握り返す。
「……オレは、ブローノ・ブチャラティだ。よろしくな、ナマエ」
/
Special Thanks まろてんさん!