彼との待ち合わせは、わたしにとっていつでも心躍るものだった。そしてブチャラティさんよりも先に待ち合わせ場所に来れたときは、余計に嬉しい。
遠くからでもすぐにわたしの姿を見つけて、少し歩調を早めて近づいてくる彼の姿。やわらかく微笑んで手をあげてくれるその姿があまりにも素敵で、そしていつもは見せないような、嬉しそうでかわいい顔をしているから。わたしを見つけた瞬間ぱっと変わる表情を見るたび、幸福が胸を締め付ける。
「ああ! すまない、待たせたか?」
全然待っていないと首を振る、それに、普段は彼より先に到着できる方が稀だった。
待ち合わせをしたからってわたしたちはどこにお出かけするわけでもなくて、市場で少し買い物をして、どちらかの部屋で一緒に料理をして食事をして、それからふたりで眠るのが常だ。そんななだらかな手触りをした毎日の、その一瞬一瞬が何よりいとおしいのだ。
一日一日を何とか繰り返し越えていく『生活』を積み重ねられること、その尊さをきちんと理解できるようになったのはきっと彼と出会ってからだった。平凡で平坦でささやかな幸福に彼と共に触れること、それがどれだけ当たり前じゃあないかをわたしはよく知っていた。
今日も、私とブチャラティさんは街中で待ち合わせてから部屋に向かう。今日は彼の部屋ですごす日だ。わたしの狭い部屋で小さいソファになんとか身体を縮めて押し込めている彼の後ろ姿を見るのも好きだったけれど、ブチャラティさんの部屋に行けばその香りも、家具や目に入る調度品も、その空間がすべて彼に満ちているようで幸せな気持ちになるのだ。
そんなことを思いながら急いで向かった先、今日の待ち合わせ場所にはブチャラティさんの方が先に来ていた。思いっきり手を振って見せようとしてふと気づく。……彼の隣に、見知らぬ背の高い女の人がいる。彼と目線を合わせるには見上げなくてはいけないわたしと違って、彼と顔の高さも近い。そして心の距離もきっと近いのだ、ブチャラティさんはわたしの前ではあまり見せないような表情を、少しいたずらっぽく、眉を片方持ち上げて笑う表情を彼女に向けていた。
――なんだかふたりは、似合いの一対のように見えた。……そんな言葉が自然に頭に浮かんでしまって、胸がきゅっと苦しくなる。
その光景を見て、一瞬そこに近づいて良いのかわからなくなって足が止まる。しかし、まだ少し距離のあるところで足を止めたのにブチャラティさんはすぐにわたしに気づいてくれて、いつもみたいにぱっと表情を明るくしてわたしに向かって手をあげてみせた。
となりにいた褐色の肌がきれいな彼女も、わたしを見て朗らかに笑顔を浮かべて手を振ってみせる。
(彼がいろんな人に囲まれている姿はよく知っているし、……わたしもそんな姿が好きなはずなのに、どうしてこんなに……)
――息苦しく感じているのだろう。
それでも平静を装っておずおずとふたりに近づいていくと、ブチャラティさんは突然わたしの肩に腕を回してぎゅうっと抱き寄せた。
「ナマエ! 紹介しよう」
そして肩から下に向かってゆっくりとたどる手はひじの辺りをさらりと撫でる。いつもの彼らしくないくらい、人前でも愛おしさが溢れ出しているような仕草に、さっきまでのもやもやとした感情は霧散してかわりに驚きがわたしを満たした。
「……こちらはジュリア、市場で働いているんだ。見かけたこともあるかもしれないが」
「チャオ、ナマエ! 話は聞いてたけど……随分……ふふ、ブチャラティ、あんたがわかりやすく女の子にそんな態度取るのはじめて見た」
楽しげな目で、彼女はわたしの肩に戻ったブチャラティさんの手に目をやった。
「ああ……だが、惚れてしまったものは仕方ないだろう?」
今までそんな言い方されたことがなくて、目を丸くしてしまう。……惚れた、なんて。急に照れてしまって顔が熱くなるのがわかる。
わたしが浮かべた表情をみてジュリアさんの方がはじけるように笑い出した。それは嫌な感じではなくて、わたしとブチャラティさん、ふたりともを包みこむような笑い声だった。
いいもの見た、お幸せに!そう素直な様子で言うとわたしの頬にキスまでくれて、今度野菜を買いに来てくれたらおまけしてあげるから、そう言い残すと彼女は手を振って去っていった。
……すごく、優しい人だ。ネアポリスの人たちの親切はその場かぎりや口だけものではなくて、本当に心からこちらを気にかけてくれているのだと、この街で過ごす中で知ったのだ。
……ブチャラティさんも、彼女も。こんなに綺麗な人たちのそばにいるのに、どうしてわたしの心は狭く醜くなるのだろうか。
最初にふたりを見かけたときに抱いた寂しさや嫉妬とは違う、罪悪感が胸をつく。
「……彼女は信頼できる人だ。……君の味方を増やすのはきっといつか役に立つ。君にとって信頼できる人間を増やすに越したことはない」
妙な表情を浮かべていたのに気づいてしまったのか、わたしを見つめながら彼は静かに言った。だけどそのあまりにも静かな言い方で、わたしは勝手にブチャラティさんは言葉の最後に『自分がいなくとも、信頼できる人間を君のそばに』……そう言っているみたいに聞こえてしまって、また息苦しさを覚えてしまう。
彼の隣にいるとき、永遠と刹那のどちらもを感じる。彼からの愛を感じているとその瞬間はずっと続くように思えるし、だけどこんな風に自分のいない未来がくるかもしれないのだという態度を取られると、今ここ以外の時間なんてないように思える。
そうやってブチャラティさんの隣にいることに向き合っていたら、嫉妬したりする暇なんてないはずなのに、……どうして、わたしは――。
「……ナマエ?」
口元に淡い微笑みを浮かべながら、彼がそっとこちらを覗き込む。なんでもないの、そう言うつもりで首を振って、ごまかすみたいにブチャラティさんの手を取った。
◇◇◇
ごはんを食べて、ソファで身体を触れ合わせたままテレビでやっていた映画をぼんやりと見て、お互いに身体の表面を撫でるように触れ合って――そのままキスだけで眠るときもあるけれど、今日はそうはならなかった。熱で揺らぐ目と目が見つめあって視線が絡まると、そのままベッドの上に二人でなだれ込む。
はじめは、自分の欲を押し付けているのではないか、……わたしにこの欲を抱くことが許されていると心から信じることが出来なくて、ベッドの上で不安になることもあった。
だけど彼は何度も言葉と態度で言い聞かせてくれたのだ、彼がわたしに抱いている思いも同じかたちをしていて、だからこそこうして触れたいのだと、抱きしめながらささやかれて、わたしは心から穏やかな気持ちで彼と裸でベッドの上にいられるようになったのだ。
いつもは軽やかにさらさらと揺れる彼の髪がベッドの上で、わたしの前で、汗で濡れて少しの束になる。ふたりで同じように汗をかいているから、わたしの髪もとっくに湿って重くなっている。
彼の額に張り付いてよれる、黒い髪を摘んで整えてあげた。だけど彼にはわたしがその額に触れたいだけだとバレているから、ブチャラティさんはわたしの手に額を撫でられながら仕方ないなって顔で笑ってくれるのだ。笑ってから、また首筋にキスを落として、ときに肌に舌を這わせるのに戻る。その柔らかで濡れた感触にまた声が漏れてしまう。
与えられる快感でうまく目が開けてられないときもあるけれど、できることならずっとブチャラティさんの顔が見ていたかった。指や舌、彼自身の熱でぐずぐずに溶かされながら、目の前では大好きな人がこちらを見つめている――わたしはベッドの上で、いつも新鮮にその奇跡を思うばかりだ。
彼に触れられるようになってから、自分は快感にずいぶん弱いたちだと知った。
彼の美しさに触れたことで生じた感情の昂りも、身体を開かれるときの熱さを伴う痛みも、彼に抱きしめられて感じる熱も、彼から与えられるものすべてが快感につながっていて、受け止めきれないそれは涙や声になってあふれでる。
ブチャラティさんはそれを丁寧に、大切そうに拾ってくれる。打ち寄せる波のように柔らかなリズムで与えられる快楽はただただ心地よくて、わたしばかりが与えてもらっているのではないかと少し不安になるくらいだったけれど、……そんな不安を打ち消してくれるのもまたブチャラティさんだった。
わたしの身体をひらきながらこちらを見つめる青の瞳は深海を思わせるように濃くなって、息が出来なくなりそうなくらいに熱い。
普段は汗ひとつかいた様子を見せないような、どこか人間離れしているようにすら見えるこの人が夢中になったようすで全身からこぼす汗がわたしの身体に落ちて混じるのを見ると、……いつだって、ひどく興奮してしまうのだ。
わたしを見つめるブチャラティさんのまつげも汗をふくんで少し重そうになっていて、束になったまつげはまるでまばたきから音がしそうなくらいに見えた。
汗をかく額が、濡れたまつげが、快感に流されてしまわないようにするためかきゅっと寄せられた眉が、わたしを抱くときの彼のすべてが愛おしくて、何より――
『……きれい』
……だからこそ、わたしにはもったいないくらいだ。
頭に思い浮かんだ言葉の最後までは言わない分別はまだ残っていたようだけど、思わず気づけばはじめの一言は口に出ていた。そして今自分がこぼしたのが彼にすんなりと伝わる「言葉」ではないことに気付いたのは、ブチャラティさんがぴたりと動きを止めてからだった。
彼は、わたしが異国の人間だと重々承知だ。わたしのことばを聞いて、一瞬動きを止める。じっくり考えて、その言葉が崩れたり失敗したイタリア語ではないことを確信してから聞き返してくれる。そんな彼の仕草を見てから、わたしは自分が無意識に日本語をこぼしていたことを思い出すのだ。
「……今のは?」
「あ……。いまのは……んー……『bello』、かな……」
説明しながらも、たぶん違うな、そんな風に思う。その一言では足りない、彼の美しさを言い表すには。
ブチャラティさんは、普段よりも濃い青色になった瞳でじいっとわたしの目を覗き込んでから、そっとわたしの顔に手を伸ばした。
「そんなこと言ってもらえんのは光栄だが……痛むのかと思った」
寄せてくれた手、親指でわたしの頬を撫でながら、本当に痛かったりしないだろうなと言わんばかりに顔を近づけて見つめてくる。何度身体を重ねても、彼のこういった類の丁寧さが失われることは決してなかった。
一瞬、その顔に改めて見惚れてしまったわたしが何とか頷いて見せるのを待ってから、彼はわたしの目の端に音を立ててキスを落とすと、全身でハグするみたいにもう一度身体をぐっと押し付けてくる。そうされるとまた口から自分の声じゃあないような高い声がこぼれてしまう。おなかの奥まで彼の熱で触れられることにうっすらと怖い気持ちもあるのに、ブチャラティさんと身体を重ねるたび少しずつ、その奥まで開かれる感覚が快感に塗りつぶされるのを感じる。
身体の中で彼を感じながら、汗で濡れた身体同士がぴたりと吸い付くように触れ合うのが心地良かった。
わたしとは違うところばかりをもっているまぶしいばかりの彼と、あつらえたように重なる感覚。そう思うのも少しおこがましいとすら感じるけれど、それでも嬉しかった。
……そんなことを考える余裕は、すぐになくなってしまうのだけど。
「っ……う、ン……あ……」
ゆっくりとぎりぎりまで腰を引かれて、そっと奥まで腰を押し込められる。激しいわけではない、それでも彼の形に慣らされるような動きは、どうしたらわたしの快感を引き出せるのかをよく知っているからこそだった。
「なあ、……もっと、きみの声を聞かせてくれ……」
我慢するな、そう耳元でささやかれながら身体を開かれて、それだけで達しそうになってしまう。びくびくと震える手足と熱を持ったお腹のナカのせいで、きっとその限界の状態もブチャラティさんにバレているのだ。耳元で聞こえた、息の音だけで笑う満足そうな響きでそれを知る。
「……ブチャラティ、さ……」
そうつぶやくと、もう一度彼が無言でわたしの顔を覗き込んでくる。……何か言いたげに少し眉を寄せ目をすがめた表情はいつもより少し幼く見えた。そして彼の言いたいことをすぐに理解する。その様子がなんだかかわいらしくて、わたしは眉を下げつつも思わず笑みを浮かべながらささやく。
「……ブローノ」
ベッドの中ではこう呼んでほしいと言われていた彼の名前を呼んだら、正解のご褒美みたいにくちびるにちゅっと音を立ててキスをくれた。
音を立てた軽いキスから、舌を絡め合わせる深いところまで触れるキスへと続きながら、ゆっくりとまたお腹の奥まで熱を押し込まれる。
彼の片手はわたしの頭を撫でていた。そしてもう片方の手は、頬から顔のラインをたどると、さらに少しずつ下に向かって身体を撫でていって、いまはおなかの上を撫でている。
もしかしたらやっぱり痛いのかも、そう思って撫でてくれているようだけど、その優しい手つきも今のわたしには快感にしかならなくて、そのくすぐったいくらいの柔らかな彼の指先の感覚に思わずお腹に力がこもる。それを感じ取ったのか、外側からこの中に自分が入っているのだということを確かめるみたいに、わたしの腹の上にのせられていた彼の手に少しだけ力が入る。
「……ふっ…ン…」
そうされるのはダメだ、ダメ、内側も外側も全部身体の中をブチャラティさんに触れられているのだと思うとそれだけで心臓の音がさらにうるさくなった気がする。やらしい水音は深いところで舌を絡め合わせる口元から、そして――彼の熱を受け止める濡れた肉からたえず響く。
「……っ、きもち、いいっ……です……」
「それはよかった。……だがもっと、……オレを欲しがってくれ」
ゆっくりとした動きだったのが、少しずつわたしを追いつめるように感覚が短くなっていく。彼の顔にはさらに汗が浮かぶようになって、わたしは身体を揺らされるたびに、彼の指先で熱を持った部分を撫でられるたびに喘ぎを漏らして彼にしがみつくことしかできない。
こんなにわたしに与えるのが上手で、普段はあまり何かを欲しがったりもしない、まるで無欲に見える彼がベッドの上では、たとえそれが些細なことだとしても求めてくれるのがうれしかった。わたしに、ブチャラティさんに与えられるものがあるのだと教えてもらえるようで。……そんなこと考えると結局、もらっているのはわたしばかりな気もするけれど。
心が勝手に寂しくなっても、身体は上手に快感をひろって、彼に熱を返す。きっと感じる必要の無い寂しさだとわかっている、ただこの瞬間に酔えばいいだけだとわかっている。
「ナマエ……」
ぎゅうっと強く抱きしめられながら、彼に名前をささやかれる。もうふたりとも限界が近かった、わたしはうわごとみたいに彼の名前を何度も呼んで、彼がもっと欲しいと言ってくれた高く震える声を上げることしかできない。
ブローノが与えてくれる快感はさっきまでの優しいやり方からずっと激しいものになっていて、……そしてそれこそが、今のわたしが欲しいものでもあることを彼は知っているようだった。
「ぶ、ろーの、……も……い、っちゃう…ッ…」
「……ッ、ああ、オレで……イってくれ…」
限界に達したわたしがぎゅうとブチャラティさんを締め付けてしまうと、彼もわたしの一番奥に腰を押し付けたまま身体を震わせる。抱きしめられて、耳元でいつもより荒い息の音を聞くだけでたまらない気持ちになってしまう。きもちよかったのかな、ブローノも、そう思うと、多幸感が身体中をめぐってうっすら鳥肌がたつ。
ブローノは、汗で濡れた髪をわたしの頬に押し付けるみたいにすり寄せてきた。大きなねこみたいな仕草に、自然と彼の頭を撫でてしまう。しばらく彼はわたしにぴったりと身体を寄せて抱きしめてくれる。満足するまでわたしを腕の中に閉じ込めてから、絶頂のあとのけだるさなんて彼には存在しないみたいにきびきびとベッドから飛び出すと、タオルと水のボトルを持って戻ってきてくれる。自分でボトルをベッドまで持ってきたのにまずはわたしに水を飲ませてから、わたしが飲ませてもらったあとの残り、それでもだいぶ残っていたはずの水を勢いよく全部飲んでしまうその姿が何だか好きだった。たくさん汗をかいて、それをきれいな水ですぐに補給するその健全さあふれるサイクルがまぶしい。彼の身体の代謝の良さすらこんなにいとおしいく思えるのかと思うと、ああ、なんだか幸せだなあと熱でぼやけた頭で考えていた。
水を飲んで、汗をぬぐってからのブローノは、もう一度ベッドでわたしを包み込むように背中の方から抱きしめながらぽつりとささやく。
彼は自分の中にしまい込むみたいにハグするのが好きで、わたしも彼にそうされるのが好きだった。
「……なあ、『caro』は……きみの国の言葉ではなんて言うんだ」
「え? っと……うーん…………そうだな……『大切』、かな……」
突然言われたその言葉に、なんとか絞り出すように頭の中の引き出しをかき回して差し出した。……熱で溶けそうなタイミングだからとはいえとっさに言葉が出ない自分が少しふがいなくて、きゅっと眉が寄ってしまう。そんなわたしを、彼はさらに後ろからぎゅっと抱きしめながらささやいた。
「……オレは、きみが『たいせつ』、だ」
一瞬、耳慣れない『日本語』混じりの言葉に驚いてわたしの動きが固まる。後ろから裸のままでわたしを抱きしめながら、ブチャラティさんは続けた。
「……今日だって……言葉が足りなくて、きみを不安にさせたのはオレだとわかっているんだ、だから……何度だって言わせてくれ、きみが『たいせつ』だ」
……失いたくない、そう続けてささやきながら、彼は抱きしめる腕に力をこめた。
ブローノは知っていたのだ、何とか隠せていると思っていた私が抱えた不安も、なにもかも。
彼の隣に立つということで、いつかこの日々を失う覚悟をしている、それは本当だ。……それでも、いまここ、に心が囚われて嫉妬したり、さらに恋しく思ったり、一人の夜には寂しくなって、触れられない日は苦しくて、美しい彼と並び立つことに自信がなくて、彼の時間や愛を一方的にうばっているような気持ちになることもあって――。
聖人めいたところのある彼と並ぶにはあまりにも卑近な感情だ、それでもなんとかブローノ、あなたには隠していたいと思っていたのに――彼はきっとわかっていた。そして自分が彼女を紹介したことで、わたしの暗い部分をあらわにしてしまったことも。
だとしても、それは全部わたしの問題であなたがこちらを不安にさせたわけではないと振り返って伝えようとしたけれど、ぎゅっと強く抱きしめられて動けない。……かわりに、後ろから抱きしめられたまま耳元で名前を呼ばれてから、静かにささやかれる。
『いとしいひと』『すき』『たいせつ』『あいしてる』
後ろから抱きしめられながら彼の言葉が雨あられのように降る、わたしが生きてきた世界の耳慣れた言葉が、ブチャラティさんの声で降る。いつかわたしに意味を聞いてくれた言葉も、……教えてあげたおぼえのない言葉、きっと自分で調べてくれたのだろう言葉も、わたしの心にもっと深くしみ込ませようとするかのように、きっと彼からしたら慣れない言葉を静かな声でささやいて聞かせてくれる。
日本の言葉をつぶやくとき、普段の声より少し高く聞こえる彼の声に胸の奥がきゅぅと押しつぶされてしまいそうだった。
我慢できなくなって、半分無理やりに身体を反転させると、勢いよくブチャラティさんに抱き着いた。
彼の背中に腕を回せば、汗をかいている背中とわたしの腕は磁石のようにすいつくようだった。
ブチャラティさんはもう一度、今度は正面から抱え込んで覆うようにわたしを抱きしめてくれる。こんなに愛しいひとに、わたしは一体何をどうやったら同じものを返すことができるというのだろう?
「……ブチャラティさん、……ごめんなさ、んッ……」
ひとりでぐるぐる悩んで、心配をかけてしまって気にかけさせた――そう謝ろうとすると、彼は小さく首を振ってからその言葉を遮るみたいにちゅっと音を立ててくちびるにキスを落とす。しかもそれが一回じゃあないものだからもう喋れなくなってしまう、少し困惑しながら何度もそのキスを受け止めて、……それからやっと理解する。
いったん彼のキスを止めようと自分の口の前に手のひらを置くと、ブチャラティさんはやっぱりわたしのことをじっと青い目で覗き込みながら、……そしてその瞳をいたずらっぽく輝かせて口角を持ち上げたまま、わたしの手のひらにくちづける。手のひら越しにキスをしながらわたしを見つめる彼にそっと囁く。
「……好きです」
その言葉を聞いた彼は、わたしの額にキスを落としてからささやいた。
「…………そうだ、そっちが聞きたいんだ」
満足気にふうと息を吐いて笑う音を聞く。嬉しさがにじむその息の音に、また抱きしめてくれる腕に、めいっぱい甘やかされて彼で満たされながらわたしは、なんだか泣きそうになって彼の名前を呼んだ。
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Special Thanks ミルさん