エコー

※モブに対する暴力描写があります

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「……ほお、冷凍庫の中に隠れるっつうのは、なかなか考えたな」

ブチャラティは、白い棺のような四角の箱――横たわる巨大な冷凍庫に取り付けたジッパーを引き、開いたその中を覗き込んだ。
打ち捨てられた工場の跡地だ、電気も通っていないはずだが、暗い冷凍庫の中に潜んでいるところを突然布でも切り裂くように裂け目を入れられたのを目の当たりにした男は、その白い箱状の置物でしかなかったはずの冷凍庫がまるできちんと中身を冷やしているかのように、がちがちと歯を鳴らしはじめた。

「……見つからなきゃあ、さらに良かったがな」

ひどい熱でも出したかのように震え続ける男を、ブチャラティは感情のない顔で見下ろしていた。見下ろされた方の男は、顔から血の気が失せてほとんど灰色に近い色になっている。

「組織を抜けるって言うんなら、もっと賢いやり方があったんじゃあねえか? 会計士の先生さんよ」
「いけると……思っていたんだ」
ブチャラティはそれには返事をせず、そっとその男に顔を近づけてささやく。
「……口を開けろよ」
その言葉を聞いて、電源の切れた冷蔵庫に横たわったまま動けない会計士はひきつった喉の奥から奇妙な音を立てた。
「……ブチャラティ、頼む、お願いだ……死にたくないんだ、か、家族だって養わなきゃならない! 田舎に行くだけなんだ、田舎で……これまでのことから離れて、オリーブでも育てて生きようと、ただそれだけなんだ!」
その悲鳴のような声に、ブチャラティははじめて表情を柔らかく緩めて見せた。わずかに眉を寄せて、それからふっと息を吐く。言葉もどこか穏やかな響きに変わる。

「おいおい、オレは銃なんか持っちゃいないぜ」

ブチャラティが男に見せたのは、茶色に錆びたペンチだった。

「……あんたは最初の方法を間違えたが、それですべて終わりってワケじゃあない。……歯の一本二本で済むって言ってるんだ、今ならな。……それはあんたがきちんと仕事をしてきた証拠だ」

会計士の方は、やけにやわらかな声で囁かれてほとんど感覚が麻痺しかけていたと言えるだろう。けじめとして歯を麻酔もなしに引き抜くと言われているのはわかっているのに、目の前の男が自分を窮地から救いにきてくれたように見えたのだ。
ただし、会計士の感覚は半分事実だった。ブチャラティ以外の人間が追ってきていたのなら、わざわざ歯を抜いて戻るなんてことはしない。死体にしてしまったほうがよっぽど仕事は早く済む。

「すぐだ、すぐに抜いてやる。……オレはうまいって評判だぜ」

ブチャラティは冷蔵庫の中に男を寝かせたまま、その男の顎に手をかける。逃走中の男がひげを剃る余裕なんかなかったのだろう、掴むとざらついていた。開口器代わりに、そこらに落ちていたネジを男にかませた。指を食いちぎるなよ、ブチャラティがそうささやいたのを恐慌状態の男が聞けていたかはわからない。奥歯に狙いをつけて、きちんと抜いてきたことを証明するために、そして必要以上に痛むことのないよう、割らないように意識を張りながら――ブチャラティは、一息に男の奥歯を引き抜いた。

同じ日の夜、ブチャラティは身体を横たえた人間に、昼間とは全く違う表情で見上げられていた。

期待と興奮と少しの怯えが混じった表情。清潔なベッドの上から、熱を帯びた目が見上げる。恋人であるナマエは、何度身体を重ねてもはじめの一瞬、身体をこわばらせた。ブチャラティははじめ、その様子を見るたびに自分とするのがそんなに嫌なのか、怖いのかと心配にもなったが、いつだって彼女の中では緊張と興奮がないまぜになっているだけで、触れられてからそれがほどけて溶けると知ってからは、その表情にいとおしさを感じるばかりになっていた。

「……口、あけて……キスしたい」

うわごとのような口調で彼女に言われるがまま、ブチャラティは口をうっすらと開いて顔を寄せる。ナマエは目を閉じてブチャラティに向けて腕を伸ばした。自分と同じように開かれた彼女の口から血の匂いはせず、柔らかな口内がブチャラティの舌を受け入れた。顎に手を添えて上を向かせる。滑らかな肌、手に収まってしまうような小さな顎の骨。それがどれだけ壊れやすいものか知っている。それに触れた手に力をこめるのは、いつだってこわい。

キスをして、身体に触れて、彼女の熱を引き出す。言葉を交わすかわりに、彼女の身体は熱で応えた。
自分が、彼女の身体、その奥まで触れて構わないと思われていることが尊いことだと思わない日はなかった。

「……オレを噛んでもいい、痕つけたってかまわない」

さらに奥でつながるための準備をしながら、彼女にささやく。お互いに快楽があったとしても内臓まで揺らされるのは自分ではない、歯の痕くらいつけられてやっと平等なようにブチャラティは思っていた。

命と密接につながり、痛みを残す人体の開口部。他人がおいそれと触れるべきではない場所。そこにブチャラティは触れていた。柔らかに、そしてぶしつけに。

ふと考えることがある。もしも彼女が歯を抜かせてくれと言ってきたら。そうすべきではないと思いながらも素直に歯を抜かせてもかまわないと思っている自分がいることに、ブチャラティは気づいていた。
それどころか、自分が死ぬときには、彼女に歯を渡してもらえないだろうか。そんなことまで思う。……考えたくもないが、彼女の方がもし『先』だとするのなら、自分はその歯を――いや、そんなことは考えるべきじゃあない。

「……ブローノ、キスして…」

ペンチ越しの歯の感触、それを忘れられないままくちびるを重ね合わせて彼女の歯列を舌でなぞる。壊すものと壊さないもの、その線引きの身勝手さを感じながらも思う。身勝手でかまわない、分けることが愛の始まりで、他者の始まりで、そして同じところから憎しみも生まれることを彼は知っていた。