不可逆 - 1/2

「あなたの時間を、二日ください」
ひどく緊張しながら、彼にそう伝えたのはまだ八月のことだった。

ダイニングテーブルにふたりぶんのコーヒーだけ置いて向かい合うのは、なんだかまるで面接みたいだなんて思いながら、私は勇気を出して伝えたのだ。

その言葉を発した私が随分かしこまって緊張した様子に見えたのか、ブチャラティさんには一体何を言われるのかと思ったと言われてしまった。
それでも、忙しい彼の二日間なんてそうそう私なんかが独り占めしていいものだなんて思えなくて、そんなことをぼそぼそ言ったら「恋人がオレといたいって言ってくれるのを反故になんかできるものか、」そう言った彼は九月下旬のまるまる二日を、少しの電話のあとすぐに、わたしにくれると言ったのだ。

「でもなんでこの日……、……そういう、ことか?」
「……そういう、ことですね」

案の定、彼の頭から消されていた「ただの一日」を譲り受けて名前を付けるのだ。
わたしが彼の誕生日をはじめて祝う、特別な日として。

ダイニングテーブルからは立ち上がって、冷蔵庫に貼ってある小さなカレンダーの前で日付を確認しながらちょっと固まった彼に向かってにこにこして見せれば、ブチャラティさんはは少し照れたように真顔を作ってみせた。それを見て、余計笑みを深くしながら彼を見上げてしまうしかなくて、気づけば思わずハグをしていた。それでも珍しく、彼の腕がこちらに回し返されることが無くて、私は不思議な気持ちでブチャラティさんを見上げる。

「……なんていうか、どうすごせばいいか……慣れてないんだ」
家族に祝われたりするのは、ずっと昔にあったきりだ、……少し困ったような顔をして彼がそう言うのを聞いて、胸がきゅうと苦しくなってしまう。
ひとつは、慣れてないなんて言葉を聞いたから。……でもきっと、彼の周りの人は祝ってあげたいと思っていたはずだ。淡々と同じ毎日として消化する彼をそばで見ているからこそ、拒んでいるように見えたのかもしれない。
もうひとつは、……普段はきっと、彼は注意して使わないようにしているような「家族」という言葉を聞いてしまったから。その言い方はまるで、私が彼の言う「家族」の中にいるみたいで――。いや、自惚れるな。普通の顔を取り繕って笑って見せる。

「奇遇ですね、あー、私もイタリアのお誕生日の祝い方ってまだわかんなくて……だから、慣れない者どうしだから、いいんじゃあないかな」

そう言えば、彼はふっと表情を緩めて微笑んだ。なんでも出来るのに、こんなところばかり不器用なブチャラティさんのことを、いつだって逆だってわかっているのに、いろんなことから守って、柔らかいものでくるんで、どこかにしまってしまいたくなるのだ。

◇◇◇

私が彼からもらった一日目、誕生日の前日にあたるその日。
いつものスーツを脱いで、シンプルでゆったりとした白のシャツと細身の黒のパンツで私の働くトラットリアへやってきた彼は、お誕生日仕様になった店を見て少し驚いた顔をした。

「オレはてっきり……君と一緒に食事をするだけかと」
「お誕生日だから何かしたいってお店のみんなに相談したらこうなったんです! さあ主役の席はあそこですよ!」

主役が到着する前に当たり前のようにワインの栓は開いていて、チーズや軽い食事はもう振る舞われはじめていた。ブチャラティさんの登場に歓声を上げるのは、トラットリアの私の同僚と、ブチャラティさんの同僚の人たち、それにこの会のことをどこかしらから聞きつけた街の人たちも。
集まっていた人たちが彼の登場に喜んで上げた声にもブチャラティさんは少し驚いていたけれど、この会はパーティと呼ぶにはいくらかささやかなものだった。一番混む夜の時間は避けて、昼間のお店が暇になるようなぽっかりとあいた数時間を借りての食事会。もちろん私だけで出来ることじゃあなくて、やりたいと言っても何もわからない状態だった私よりも、むしろお店の人たちが中心になって動いてくれたのだ。

「おお、ブチャラティ! 誕生日おめでとう! 君に幸福が訪れますように!」
「ルッソさん、ありがとう」

まだ食事会ははじまったばかりだというのにすでに半分酔っ払いながらニコニコしてやって来た、角のタバコ屋さんのルッソさんに場所を譲るようにブチャラティさんの隣から移動する。

私は視界の端に彼を入れたままで、エプロンをさげてキッチンへと向かう。今日の私の仕事はブチャラティさんの隣にいるだけでいい、と店の仲間たちには言われているけれど、せっかくだから自分も動いていたかったのだ。

街を歩くだけでたくさん声をかけられて、色んなものを持たされるような人だ、お誕生日を祝う食事会の話はそんなに多くの人に伝えたわけじゃないのにいつのまにか広がっていたようで、(よく考えれば当たり前だったかもしれない)それを聞いた人たちから持ち込まれる食べ物だって少なくなかった。ベーカリーからは焼き立てのパン、市場からはそれぞれの店主が持ち込んだ野菜に肉、魚なんかも。
すでに私の同僚達が準備してくれた料理と、昨日自分で仕込んでおいたスープと、そして街の人から持ち込まれた食べ物を、お皿にのせて振る舞う。
キッチンとホールを行き来している間にも彼の嬉しそうな笑い声か聞こえてきて、顔を上げれば本当にたくさんの人に囲まれてしまっていた。そんなブチャラティさんが見られるだけで、私は凄く満足感を覚えていた。

私は街のトラットリアで働いているのだ、つまりはこの街のどこよりも人が集まる場所で日々過ごしているのだから、顔だけだとしてもいくらかは街の人々についてよく知っているはずだと思っていたのに、集まってきているのは半分くらいは知らない人だった。
それでも、ブチャラティさんはみんな知っているみたいで、柔らかく、礼儀正しく、時に明るい、そんな態度でもって言葉を交わしている。どれだけ顔が広いのか、改めてそれを目の当たりにするようだった。

「なあなあ!」

突然声をかけられて振り返ると、それはブチャラティさんのチームの人たちが集まっているテーブルからの声だった。
何度か挨拶もしたことがあるし、話だって交わしたことがある。そして何より、ブチャラティさんとの会話の中で出てくるのを何度も聞いているから、きっと実際よりもずっと私は彼らのことを知っていて、この人達に勝手に親しみを抱いていたのだ。
黒髪の男の子がニコニコしながら手を振っている。金髪の彼はちらりと目を上げてから、首だけを傾けて挨拶の代わり。銀の長髪のお兄さんはちょうどワイングラスを口に運んでいた。

そして私を呼んだのは、

「よー。久しぶり」
「ミスタさん! みなさんも来てくれたんですね」
片手をあげた彼が、私にニッと笑って見せた。
「あんまり街のこっち側のトラットリアまで来ることもあんまねえけどよぉ、いや正直……この店かなりうまいな。今度からオレも通わせてもらう……って、いやそれは別にいいんだよ、だけどあんた、いいのか? おっさんらにブチャラティ取られちまって」

あんたがこの会の主催なんだろ? そう言いながら彼がフォークで指した先、確かにブチャラティさんはさっきよりも多くの人に囲まれて、ハグされたり何か手渡されたりしていた。
なんだかその様子を見て、勝手に口角が上がる自分にも気づいていた。

「いいんです! みんな楽しそうだし、それに……」

たくさんの人に囲まれているのを見ると、改めて彼が街とともに生きているのだと、それを目の当たりにするようでうれしくなる。一人でたむろっていた私を、街の中で見つけ出してくれたひと。こんな彼だからこそ、私を見つけてくれたのだ。
だけどその嬉しさをうまく伝えられる気がしなくて、私はニヤニヤしながら言葉を切ってしまうだけだった。

「おー? 本番はこのあとってことかあ?」
面白がるように言われてしまえば、……このあとの予定があるのも事実だし、少し照れながら頷くしかない。さっきの私の笑みの理由ではないけれど事実を当ててくる、彼の洞察力に少し驚く。

「やめとけミスタ、その物言いだと悪趣味に聞こえんぞ」
「お? オレはただ……いやそうだな、下品なオッサンみてえにしか聞こえねえな」

アバッキオさんがなおもワインを口に運びながら、少しぶっきらぼうな態度をにじませながらたしなめるように言ったのに、少しシュンとした様子になってしまったミスタさんに首を振ってみせる。彼は一人ですぐに元気を取り戻して続けた。

「ま、実際ブチャラティもなんだかんだ楽しそうだしな。いいんじゃあねーの? オレらもうまいもん食えて楽しんでるし」

ミスタさんの言葉に乗るように、奥からナランチャくんが半分になったピザを掴んだまま勢いよく声をあげた。

「そーそー! なんかあんまりブチャラティの誕生日におっきくパーティーみたくってのやれてなかったからさあ、オレはすげーいいと思う! オレこういうの好きだな~」

……すべて私の自己満足でしかないのかもしれなくて、彼はやはり、言葉通り私のために自分の時間を使ってくれているだけなのではないか、一瞬でもそう思わなかったと言うのは嘘だ。

でも、私よりもずっと長くブチャラティさんと一緒にいる彼らの言葉で、驚くほど気が楽になる自分にも気づいていた。……思ってたより、私は今日を迎えるにあたって緊張していたみたいだった。

ミスタさんがふと私の後ろに目をやって、それから笑って誰かを呼び寄せるように手を振った。
振り向くと、……こちらに顔を向けたブチャラティさんと目が合った。少し笑ってから、彼は立ち上がる。

「オレを放っておいて、ミスタとは話すのか」
「よー、ブチャラティ!」

近づいてきた彼にそっと肩を抱かれて飛び上がった。
勢いよく見上げた先、いたずらっぽい笑顔を浮かべた彼が私を見下ろしていた。……こんな風に皆の前で恋人として振る舞うことは少なかったから、私はそれだけで簡単に動悸が激しくなってくる。こんなのはこの国では当たり前なのに、……私は彼の恋人なのだと改めて理解させられることをされてしまうと、嬉しくて、同時に凄く落ち着かないのだ。

「何言ってんだよ、ブチャラティがあんまりそわそわした顔してっから呼んでやったんじゃねえか! 主役は大変だねえ!」

ミスタさんはそう言ってワイングラスを掲げる。チームの面々も同じようにグラスを上げて、口々にお祝いの言葉を伝える。それに返している彼の顔は見えないままだ。私は、肩に回された手の温度をシャツ越しに温かく感じているだけだった。
その代わりにふと目があったミスタさんは、私がドキドキしてるのも見抜いているみたいで、ちょっとおもしろがるように、でも親しみを込めた目で私にだけニヤッと微笑んで見せた。

「……だが、街ですれ違って挨拶するだけじゃなくて、彼らときちんと話ができるのは嬉しいよ。こんなに人が集まってくるとは思わなかったが……。みんな君が呼んだのか?」
ブチャラティさんにそう言われて、慌てて首を振る。
「え! 半分は知らない人でしたよ」
「こーゆーのはそんなもんだろ、どっかしらから聞きつけてやってくるんだよ。しかもブチャラティの誕生日ってなりゃあ、これでも少ないくらいだと思うぜ」

ミスタさんの言葉に、会場を見渡す。本当にたくさんの人が思い思いに食事を楽しみながら会話をしている。主役が真ん中にいなくても回るパーティの風景は、この国では珍しいものでもない。ブチャラティさんへの気持ちがあるのは本当で、そしてみんな誰かとのおしゃべりも大好きで。そしてそんな風景を眺めるブチャラティさんの目はすごく優しいのだ。

「あ、あそこにいんの誰だっけ……ぜ~~ったい見たことあるんだけど……」
「どれです? ……あの茶色のシャツの人?」

ナランチャくんとフーゴくんが誰だっけと悩みはじめたら、テーブルのみんなで思い出そうとしてタバコ屋、美容師、市場の……口々に当てようといろんな職業をあげはじめる。
ブチャラティさんがさっそく答えを言おうとしたのはみんなに止められてしまった。喉のあたりまでは思い出しかけてるからって。

そんな思い出し大会が始まってしまえば私とブチャラティさんはテーブルから少し切り離されてしまって、人々が交わすおしゃべりの網から少しだけはみ出したパーティの隙間で、二人きりになったような心地になる。ここだけは不思議と静かだった。
ここにいると、あまり行ったこともないのに水族館の中にいるような気持ちになる。ふと、隣にある彼の手に指を絡ませると、骨ばっていて少しだけかさついた指が握り返してくれた。

「……君は今日の主催者だから、忙しいんだろうか」
見えにくい位置で指だけを絡ませあいながら、ぽつりとつぶやかれた一言に思わず勢いよく顔を上げる。
「いろんな人と話ができるのは、すごくイイんだ。街のことをもっともっと知れるのは、いろんな意味で役立つし、そうでなくたってオレのためってんで来てくれた人たちだ。だが……君が、隣にいるものだと思っていたから」
そう言って彼は目を細めて微笑んだ。大人として、この街で地に足をつけて生きる人の言葉が、その声音も変えないまま急に甘えるような言葉につながって、ただそれだけで凄くいとおしくて、絡めた指にきゅっと力が入ってしまう。
この街で頼りにされる人と、私の隣で微笑んでくれる人。どこか自分自身こそがそこに線を引いていたことに気づかされる。

「……この後、連れていきたいところがあるんです。それまで少しだけ待って」

そっとつぶやいた声は、自分が思った以上に甘い響きをしていた。
私がブチャラティさんに向けたささやきを、みんなと一緒に「あの人は誰」合戦に参加していたはずのミスタさんは耳聡く聞いていたようだ。

「らしいぜ。ナマエが言うには、この後の予定があるんだとよ。いいんじゃあねえか? 主役がいなくたってこういうのはだらーっと続いてくもんだし、そういうのがいいんだよ」

行け行け、もうデザートも食ったんだから。このままじゃ永遠にブチャラティに礼拝しにくる人たちに囲まれ続けんぞ、ミスタさんはそう続ける。

「そんじゃあ、とりあえず……ここらでもう一回乾杯でもしておこうぜ! ほら乾杯だ! ブチャラティに!」

ミスタさんが突然あげた乾杯の掛け声につられ、みんな何がなんだかわからないまま立ち上がって乾杯を交わしている。グラスが鳴る音、誰かの笑い声、おしゃべりの声、お皿とフォークがぶつかって立てる高い音。さざ波のようにそれが広がって、ブチャラティさんが席にいなくてもパーティーは続いていく。その光景を、やはり彼は温かい瞳で見つめていた。

そして、終わりそうにない食事会の続きは店の同僚たちとブチャラティさんの同僚の皆さんにあとは任せて、私たちはそっと店をあとにする。