不可逆 - 2/2

店を出て、二人でネアポリスの街を海に向かって歩いていく。一体どこに連れていかれるのかと、不思議そうな顔をした彼の手を引きながら私は進んでいく。

「……私からのプレゼント、もう一つあるんです! 着くまでは内緒です!」
勢いづいて叫ぶように宣言した私に、彼は柔らかく微笑んで見せた。兄のような顔で笑うものだから、急に少し気恥ずかしくなってしまう。
それでも握った手のひらをそっと握り返されるだけで嬉しくて、さらに彼の指が私の手の甲を優しく撫でてくれるたび、いつだって新鮮に幸福だった。
握りしめあった手は、そのうちお互いの指をからめる形に代わっていた。こうしていると、広げられる自分の指の間の感覚に、彼の手の大きさと熱をよく感じられるようで好きだった。

「ようやく隣にいてくれるな」
「う……、あの、……迷惑でしたか?」
「いや、つまらないこと言ったな……楽しかったよ。ただ、こうしていられるのが嬉しいんだ」

彼に握った手をそっと持ち上げられて、指先にふれるだけのキスが落とされる。指に触れたくちびるの柔らかい感触、キスをするときに伏せられたまつげの先までいとおしくて、言葉が一瞬のどの奥に詰まってしまう。

なんてきれいな人なんだろう。今すぐ強く抱きしめてしまいたくなっているけど、目的地まで向かわなくちゃいけないし、ここは街のど真ん中だ。

「……」
「どうした? 眉が上がってる」
「…………私、ブチャラティさんが想像してる以上に、あなたに惚れているって知ってました? そんなこと言われたら……」

そう言われて彼は明るい笑い声をあげた。ネアポリスの強い日差しできらきらと光る街によく似合うような声だった。

ゆったりとした白いシャツと細身の黒いパンツ姿、オフだとひと目見て分かる姿のブチャラティさんの姿に、声をかけてくる人は少なかった。
スーツだと街を歩くたびにたくさん声をかけられていたけれど、この姿だとある程度街に馴染んでしまうようだ。それか、みんなオフだからって気を使ってるのかもしれない。……そんなお人好しはネアポリスにはいないか、思い浮かんだ考えを一人で打ち消す。
それから、街のみんなのブチャラティさん、ではなくて、ここからは「私のブローノ」と過ごす、……そんなことを考えて、ふと頬が緩んでしまった。

彼と触れ合う手のひらの感触と、横顔ばかりに気を取られていればいつの間にか目指していた港にまでたどり着いていた。近くには新鮮さをウリにするレストランが並ぶような、観光地然とした色の強い、普段あまり二人でやって来ることは少ない場所だ。
そこには帆をたたんだ船がいくつも係留されていて、波に揺らされるたびに色とりどりの船体をちらりとこちらに見せる。

温かく湿度の高い海風が、ブチャラティさんの切りそろえられた髪と、白いシャツを揺らす。
広がる海を見つめる彼の顎のラインを見上げてから、私はここで待ち合わせた人を探す。

「あ! グレコさん!」

桟橋に立つ白い髪のおじいさんがこちらに向かって手を挙げるのを見て、私は大きく手を振って見せる。ブチャラティさんの手を握ったままで、桟橋へと少し早足で向かった。まだ状況がつかめないままだろうけども、彼は何も言わずに私に手を引かれている。

「おまたせしました!」
「ああ、いいんだよ。こちらもさっき着いたばかりだから」
「えっと……こちら、うちのお店によく来てくれるグレコさんです」

まずは彼をブチャラティさんに紹介をしなくちゃ、そう思ったけれど、まだ何も彼に説明していないことに気づく。だけど、目尻に優しい笑いジワが刻まれたグレコさんが優しく確認してくれるほうが早かった。

「この船で一泊、でいいね?」
ブチャラティさんと握手をしながら、グレコさんが言った言葉に強くうなずいて見せる。
「あ、はい! そうです!」
「これ……ここに泊まれるのか」

ブチャラティさんは、目を丸くして桟橋すぐにある船――私達が一泊するはずの、つやつや輝く木のデッキ、折りたたまれた帆を下げたマストが空に伸びている、小さな帆船を見つめていた。

「知り合いにホテルとして貸し出してるって、グレコさんに伺って……。一緒に海の近くにいたいなと思ったから……」
「エンジンもない古い型の船だが、中はきれいにしているよ。水回りもきちんと整備してるし、発電機だって積んでる。うちの家内が今朝作った料理だっておいてあるから温め直せば美味しく食べられるよ。小さい冷蔵庫もあるんだからね」

彼の好みに近いだろうか、サプライズが成功したのかその瞬間まで自信はあまりなかったけれど、この直後に彼が勢いよく話しだしたのを聞いて、私はこっそりと安堵とほのかな喜びを覚えていた。

「早速乗ってみても? 帆を下ろすことは出来るだろうか」
「……ああ、いいとも! こちらからどうぞ」

グレコさんに案内されるがまま、ブチャラティさんは早速大きな一歩で船に足をかける。危なげなく乗り込んでから、追いかけてきた私にそっと手を差し出す。彼の手につかまりながら、私も慣れない船によろよろしながら乗り込む。

ブチャラティさんは、船頭でもあるグレコさんに船のことを色々と勢いよく聞いていた。そして二人で、帆の扱いも、係留するためのロープの結び方も手際よく確認していく。

なんとかついていって一緒に聞いて周りながらも、早口で交わされる、普段の生活ではまったく聞き覚えのない船に関する専門的な単語の数々に、日常会話はなんとかついていけるくらいのイタリア語力しかない私は、ほとんど理解が及ばないままだった。
でも、ひとつひとつ聞いて回って、実際に船のいろいろなところをグレコさんと触って確かめて回るブチャラティさんの表情は凄く真剣で、そして生き生きとしていて、口元は柔らかくほころんでいる。

「船頭としてついていこうかと思っていたんだが……君なら問題なさそうだねえ。港で過ごしてもいいが、せっかくだから、いかりを下ろせば夜だってある程度沖の方で過ごしても問題ないよ。波の見方はわかるんだろう?」
「ええ。ありがとうございます」

私がなんとか聞き取れる速度に戻った会話を聞いて、少し驚く。本当ならば沖までグレコさんに船を出してもらって少しのんびりして、あとは港に戻るはずだった。だけど、運転だってブチャラティさんなら問題ないようなのだ。

その様子に、私の知らない彼の姿があることをまた静かに思い出す。

それから私達は、グレコさんにお祝いにとワインも持たされて、ゆっくりと小さな帆船で港を離れたのだ。

白い帆が、穏やかに風を包んでふわりと伸びる。出発した港の風景が、少しずつ遠くなっていく。風が強いとは感じないのに、それでも確かにこの帆は揚力を集めているのだ。どこか不思議に思いながらデッキに立ってそれを見つめていると、小さな船中を再度見回ってきたブチャラティさんがいつの間にか隣に立っていた。

海風に目を細めて、シャツの裾を踊らせ遠くを見つめる彼の姿は、この海と空が広がる風景によく似合っていた。やはり綺麗だ、そう思って見ていると、彼はこちらを見返して笑った。

「なあ、……誕生日のプレゼントっていうので……こんなに嬉しかったことはなかなかない」
「……いいものを選べたみたいでよかったです! むしろ……なんていうか、色々任せちゃうみたいになって……」
「いいんだ。船に触れるのは好きなんだ。海で過ごすのと同じくらい」

そう言った彼が目を向けるのに合わせて、私も海の方を見つめる。遠くの海では、私達が乗る船と同じような帆を持つ船が何隻か並んでいるけれど、ここからだとまるでおもちゃみたいに見えるくらい小さい。

「ナマエ」
呼ばれて、そちらに振り向いた瞬間に抱き寄せられた。ぎゅうと抱きしめ返して、深く息を吸い込む。潮の匂いと、彼の身体が発する大好きな甘く爽やかな「ブチャラティさんの香り」がして、気づくと口元が緩んでいた。

思えば、こんなに明るい日の光の下、しかも外で抱き合うのは初めてのことかもしれないとふと思い至る。
私たちが一緒に時間を過ごす大部分は、お互いの部屋の中、もしくは夜中の街、だった。
昼間に外に出ても、他の恋人たちと違ってできるのは、せいぜい手を繋ぐくらい。
ブチャラティさんはギャングだった。ギャングで、そして誰よりも街の人間に愛されていた。そうなってしまうと、なかなか街中でこんなふうに触れることは難しい。

海風が、少し勢いを強くする。それでも、気持ちがいい強さだった。

太陽に温められた彼の髪が頬にふれる、シャツの布が音を立てて踊る。
街を歩いている時に感じるよりずっと濃い潮風を彼の腕の中で感じていると、泣きそうなくらい嬉しくなってしまう。
改めて抱き締める腕に力を込めてから、少し伸び上がっただけで意図は伝わる。少し顔を寄せてくれた彼に、そっと触れるだけのくちづけを落とす。

「喜んでもらえて嬉しいです、ブチャラティさん。来年は何がいいですか?」

何も考えずにつぶやいてしまった私の突然のその言葉に、彼はそれを受け止め損ねた顔、どんな風に受け止めればよいのか迷ったように、その笑みは優しいのに、少し眉はきゅうっと寄せられている。……そんな顔しないで欲しい、年を重ねることは、来年のことを思うのは悪いことじゃないのに、そんな言葉が頭に浮かぶ。

「……難しいな」
「いいんです、ごめんなさい急に。まだ今日だって終わってないのに」
「きっと、オレはなにかを……きちんと、受け取ることが得意じゃないみたいだ。嬉しいとは思っているのに」

……囁かれた言葉に、それは知ってる、そう反射の速度で返したくなったけど、私は何も言わずに彼をもう一度抱きしめる。

「……ねえ。今はどうしたい?」
「……まだわからない。だけど、……ただ、こうしていたいんだ……」

ブチャラティさんの方からもそっと抱きしめながら返されながら言われてしまえば、ほかにもう何もできなくなってしまう。

人に何かを与えることばかりが底抜けに得意になってしまって、それでも何かを与えられることには突然不器用なところを見せる人だからこそ、私はいくらでも甘やかして幸せにしてしまいたいと思うのだ。

そのまま海を眺めながら、船はいかりを下ろせる場所までゆっくりと流されるように進んだ。
海の上では時間の感覚があいまいにぼやけていくようだった。
私達はそのまま、水平線を眺めながら持たされたワインをあけた。そういえば食事会のあとのはずなのに、なんだかお腹が空いていることに気づいて少し笑う。

あたりにあるのは空と海だけで、その中にそっとふたりの存在が一緒に混ざり合いながら溶けていくような気持ちになっていた。

それから、日差しから少し逃げるように狭い船の中を少しだけ見て回る。狭い中にコンロと水場だけの簡易キッチンと、バスルーム、ベッド……と呼ぶには小さい、マットレスが詰め込まれている寝床。
ブチャラティさんは、その寝心地を確かめるようにマットレスの上に寝転がる。

「寝心地はどうですか?」
「気になるなら……君も一緒に横になったらいい」

手をこちらに差し伸ばされて誘われてしまえば断ることなんてできない。緩んだ顔のまま、私は彼の腕の中に身体を横たえる。
狭いマットレスの上では、いつも二人で眠るベッドよりずっと彼が近い。ブチャラティさんに抱き寄せられながら、彼の首元に顔を寄せる。船の中、二人で静かに横になっていると、波の音と揺れが心地よく身体を満たしていく。

温かい腕の中にいて、このまま眠りに落ちてしまいそうだけど、うつらうつらし始めた私を見た彼は軽く私の額に、頬に、キスを落とす。その感触のくすぐったさに、少し声が出てしまう。そんなことしておいて、まるで何もしてないとでも言いたげに、どうした? そう聞こうとするみたいに彼は眉を少しあげてこちらをのぞき込んでくる。
そんな仕草は、まるでまだ寝ないでって言う子供みたいに思えた。二人きりでいるのに、そんな風にわかりにくく甘える彼が愛おしくて、喉の奥がきゅっと苦しくなる。

その後もマットレスの上で二人とも横になったまま、くちびるにキスをして、耳にふれて、時に鎖骨にもキスを落として、そうやって淡い熱をお互いの身体に灯すようなふれあいをしているうちに、彼の目の方がとろけるように細められていた。眠そうだ。

だけど彼は、私だけじゃなくて、自分も眠ってしまいたくはなかったようだった。眠気に抵抗しようとするのは見てとれたけれど、私はこの海の音が聞こえて波を感じられる場所でこそよく眠れるというのなら、眠ってしまってほしかった。
きっとこの私にくれた二日間だって、その分をどこかで埋め合わせるつもりなのだろう。忙しさと、毎日ひりひりするような現実に触れながら削られていく穏やかな休息を、ここで得てほしかった。

海の上でなら、きっと何も彼を脅かさない。

そんな言葉が頭に浮かんでしまったらもう駄目だった。身体を少し伸びあがらせて、今度は私が彼を自分の胸で抱きしめられるように少し上に行く。ブチャラティさんの頭を抱えこむように抱きしめて、さらさらの髪を指ですくようになでる。

「ダメだ、」
「……なに?」
「……そうされると、眠くなっちまう……」
「……眠くなってくる、ってことは……少しは、休まなくちゃいけないってことですよ、きっと」

それに反論する言葉はなかった。
少しずつ彼の呼吸がゆるく長く伸びていって、やがて穏やかで規則的な寝息に変わった。

いつの間にか二人で眠ってしまっていた私たちが目覚めたのは、強い西日が船室の中まで入り込んできたからだった。
せっかくの船なのにと、やはり寝てしまったことは少し不満らしいけれど、ぽつんと海の中に取り残された小さな船から眺める水平線の濃い夕日の美しさに、彼はあっというまにのまれてしまったようだった。

いかりを下ろした船は帆をたたまれて、オレンジに染め上げられた世界の中で骨のような帆柱が逆光で黒く高くそびえたつ。その隣で、彼は髪を揺らしながら遠くの水平線を見つめている。私は夕日の美しさだけでなくて、彼の横顔が、空を染める濃いオレンジ色の上に黒い影のように浮かび上がるその光景こそを、美しく思っていた。

彼は、帆柱にそっと触れながら高く伸びるそれを目でたどっていく。彼の視線に合わせて私も目を上げた先には、もう紺色の夜が忍び寄っていて、帆柱の先には星が輝いていた。
海風は少しずつ涼しく感じられるようになっていた。きっとこんな空気の中で、風に吹かれながら飲むワインは格別だろう、そんなことを考える。夜の海風に冷やされる、アルコールで熱を持った頬。

ブチャラティさんは、帆柱の先の星を見つめつつ、そっと口元を笑みの形にほころばせながら言った。

「……昔、父さんと一緒に漁師をしていた頃。こういう帆船にあこがれていたんだ。オレが子供の頃だってもう、エンジンが無いような船で漁をする家なんて少なかったんだが……。でも、憧れはあったんだ」

私は何も言わずに微笑みを返す。小さなブチャラティさんが、目を輝かせて船を見つめる姿を想像してみる。きっと目は、今と同じ目をしているのかもしれない。穏やかで、でも何かに魅せられた人特有の、愛情がこもった、星のように輝く瞳。

「港で古くから漁師をやっていて、その頃も帆船で魚を捕ってたような爺さんたちに、ある程度のことを教わりにいってたんだ。あの人たちも喜んで教えてくれてな。ここで役に立つとは思わなかったが」
「……そうなんだ。……もっと、聞かせてほしいです、……船のこと、海のこと」

そこから、彼は静かに私に海で過ごした日々の話を聞かせてくれた。静かで、変化はほとんどなくて、それでもただ穏やかであったかというとそうではない。自然そのものの海とともに生きるということは、生半可なものではなかった。例として溺れそうになった話をしようとして、今ふたりがいる場所が海の上であることを思い出してから、私を怖がらせないようにこれは今度にしようと言葉を切った。

それから、ブチャラティさんは私が子供の頃、海で過ごしていたころのブチャラティさんと同い年くらいの私の話をしてほしいと頼んだのだ。
この国から見れば遠い異国、東の果ての国で過ごした子供の毎日は、ブチャラティさんの日々と比べたらどこか茫洋としていて、掴みどころのない日々にしか聞こえなかった。幼いころの私はきっと、彼のように少し先を見通す目も、未来の自分を思い描くことも、どちらもできていなかったのだ。
それでも彼は、穏やかに、つまらないんじゃないかと心配になるような私の下手な話を聞いてくれていた。

かすかに揺れ続ける船の上、甲板に小さなテーブルを出してきて、用意してもらった食事をいただきながら、過去をそっとなぞるような会話は続く。
楽しみだったワインのボトルもあけて、想像したように熱くなる頬を海の夜風にさらすのは、想像していたよりずっと心地よいものだった。
夕日はもうとっくに消え失せて、夜がだんだんと濃くなっていく。少し眠ってしまったからか、遅い時間になっても目は冴えたままだった。夜になってからチラチラと腕時計に目を向けるようになったのは、多分彼に気づかれている。

少し遠くに見える街の明かりが、クリスマスのイルミネーションかざりのようにちらちらと光っている。小さなランタンのような屋外用のライトをつけて、私たちは波音を直接聞きながら、静かに言葉を交わしていた。

昔の話をしながら思う。わたしはきっとしばらく……下手したらこれからもうずっと、日本に戻れないし、ブチャラティさんもきっと、こんなに焦がれているのに、まだしばらくは海で生きるのは難しいだろう。

それでも、こうして過去の話をするのはきっと、悲しいことじゃない。

お互いにひどく遠くなった世界のことだとはわかっていた。それでもただの寂寥や懐古で言ってるんじゃあない。確かにあった幸福を、私たちが確かに持っていたことを確かめるように、私たちが何で出来ているのかをお互いに確かめ、触れ合うように、私たちがそこにいたのだと確かめるように、きっと聞かせあっているのだ。

食事をしながら、ゆっくりと会話は子供だった頃から今に近づいていって、そして私が家族を亡くしてこの国に来た、もうとっくに知っていることだけど、そうつぶやいたときに、ブチャラティさんはそれまでの微笑みを急にこわばらせたのだ。

その一瞬表情の消えた表情の意味を聞けないまま、ブチャラティさんは話をそこで切るかのように、そういえばデザートがまだだったな、そう呟いて立ち上がろうとする。

今を逃したらきっとその表情の理由をずっと聞けないだろう。そんな予感があって、私は咄嗟に彼の手を掴んでいた。

どうして私が手を掴んだのか、きっと彼はわかっていた。私が何かを問うように首を傾けただけで、彼は目を細めて、苦いものを口にしてしまった時のように顔を静かにゆがめる。そうしてから、彼はそっと口を開いて静かにささやいた。

「……オレはきっと、このままそばにいれば、また君に……近しい人を失わせる」

一瞬、何を言われたのかわからなかった。近しい人。一番近いのはあなただ、なのに何を、……そこまで考えてから、彼が何が言いたいのか思い至る。ブチャラティさんは、自分の未来の話をしているのだ。

「なのに……きみを、手放すことができない」
「……っ…」

鈍くて熱い痛みが、心臓から始まって、身体中に広がっていく。
少し遠くの未来ですら、彼の誠実さからしたら何かの約束をするのもはばかられるくらい、あまりにも不確かなのだ。来年の誕生日の話だってうまくできない。……それなのに、自分が私の前から消えてしまうことだけは確かだと彼は思っているのだ。

「……いいの、手放さないで。あなたが、私を少しでも好きでいてくれる限り、……捨てちゃいたいって思われない限りは、そばにいたいんです」

そんなこと伝えてみたら、言われた彼の方が、少し傷ついた顔をしていた。……私たち、相手のことを思って、心から思いあっていながら、その臆病で傷つけあっているみたいだった。

「それに……何かを失うことは、きっと、宇宙のはじめから決まってることなんじゃないでしょうか。だから、……あなたのせいじゃないんです。失うことばかり気にしてたら、きっと何も手が届かなくなっちゃう」

そんなことを思って、未来のことを話そうとすると身体がこわばってしまう人。勇気と誠実の化身のようでいて、……そうだからこそ、私を傷つけることを恐れている。
いつか、この誕生日を祝うだなんてささやかな約束を破る日が来ることを、彼は恐れている。

私は立ち上がると、甲板に並べた木の椅子から立ち上がり損ねた彼の前でひざまずく。暗い夜の中、それでも彼の目は青く光る。
ブチャラティさんの瞳の色は、夜の海の色だ。光が少しだけその表面を透き通らせた時の、夜の海。

「ねえ、ブチャラティさん。……私の、手を取ってくれてありがとう、私の好意を受け入れてくれてありがとう」

……どこかで覚悟はしていた。きっといつか、いつか彼が不安に思うその日がまさにやってくることは、確かなのだ。わかってる。それが数年後か、数十年後か、それはわからないけれど、私はそれがいつであろうと、同じように傷つくだろう。

それでも、彼には絶対に言わないけれど、私はきっと残すより、残される方になれそうだという事実に、むしろよかったとさえ思っている。彼をひとりで残していくことを考えると、つらくて心がひしゃげてしまいそうになる。
そんな形のつらい思いならこの人はもうたくさんしてきたのだから。

私が残される方であることを、そしてそれができる限り先のことであることを、ただ祈って、彼の手を取って指先に口づける。……いつか同じことをブチャラティさんからされたことがあった。私が愛情を示すやり方は、だいたいがブチャラティさんが教えてくれたやり方だった。彼が与えてくれたものだった。

見上げた彼の顔は、諦念と呼ぶには優しすぎて、笑顔と呼ぶには悲しそうな色が濃すぎた。それでも、彼は絞り出すような声で、静かに囁いた。

「出来ることなら…………来年も、君といたいんだ」
「うん、きっと、……きっと一緒にいましょう」

彼が口にしたのは、未来の約束ではなかった。それは彼のささやかな希望でしかなかった。
それでも、たった一年後の未来でも、そこで欲しいものを伝えてくれたのだ。それがどれだけ尊いことか。

日付が変わったのを、目に入った自分の腕時計でふと気づく。少し微笑んで、彼を見上げる。

「Tanti auguri、ブチャラティさん」

たくさんの幸福があなたに訪れますよう、そう言って、静かに彼を抱きしめる。

世界がどんなに不安定な場所でも、大嵐がきてこの船が転覆するかもしれなくても、それでもかまわなかった。一秒後にこの世界が壊れたって、今彼を抱きしめているという事実は変わらない。

私が彼とともに過ごした事実は何も変わらずそこにある。私達が辛い過去を書き換えることができないのと同じように、こうして過ごした帆船の上の夜も、事実として変わることなくあり続けるのだ。それにすがればいい、変わらぬ過去をよすがとして、私達は生きていける。