世界で一番きれいな、

いつになったらここから出れるだろう、もう濡れるのは覚悟して走っていくしかないか……。

半分絶望的な気持ちで、私は目の前で途切れることなく雨が地面へと降り注ぐ光景を見つめていた。きっと部屋の中にいれば読書にも向きそうな良い雨音だとさえ思えただろう、夜の雨だ。
だが今私がいるのは夜のネアポリスの街のど真ん中、もう今日は店じまいした本屋の前だった。
いつか止むことを信じてここで待ち続けるか、走って——まだここからじゃ距離はそこそこにある自宅までびしょ濡れ覚悟で向かうか、ふたつにひとつだった。傘なんか持っていなかった私が避難した先の本屋の入口、張り出した小さなひさしの下では雨音が余計に強く聞こえる。
せっかく何事もトラブルなく仕事を終えて機嫌よく店を飛び出したのに、家までの道を少し歩きはじめて地面に水滴の跡が見えたと思えば、あとはあっという間。降り始めは突然だった。
お店で余ったマフィンをもらって、新しく店で取り扱うから味見しろと焙煎済みのコーヒー豆も持たせられて、とにかく濡らしたらいけないものばかりが今のカバンには入っているっていうのに雨はまったく止みそうになかった。

あの雨の降り始めの瞬間、この荷物は濡らしたらまずいというその気持ちばかりが急いて、店に戻って傘を借りる、なんて当たり前のことが考えつかなかった自分が恨めしい。まだ降り始めのころだったら、何とかカバンの中身は無事で店にはたどり着けただろう。だがこの誰かがスプリンクラーのスイッチを入れたような雨の中でそれは無理だ。
今いる本屋の軒下に走りこんだ時点では何とか無事だった靴も地面から跳ね返る雨水でだんだん濡れて、もちろん今では靴下までただの濡れた布になっている。じっとしているだけで足元から容赦なく寒さが体を這いのぼっていく。
袖の濡れた薄いシャツとびしょ濡れの靴、これだけあれば初夏のこの季節でもネアポリスの街の中央で凍え死ぬことだってできそうだ――。

「なあ、何してるんだ?」

まさかかけられるとは思っていなかった誰かの声に、思わず体がはねた。しかもそれが男の声なら、なおさら。
怯えの入った顔で振り返ると、……私は気づかないうちに安堵のため息を小さくついていた。

「……ブチャラティ?」
「君は、……バールの」

振り返った先にいたのは、黒い傘を差した彼――ブチャラティだった。うちの常連さんで、店長も彼をとても気に入っている。
店長だけじゃない、うちのバールで働いている人間はきっとみんな彼が好きだ。いつだって礼儀正しくて、困った人を見捨てておけないような優しい人。
ギャングってもっと怖い人のイメージだったのに、彼に怖いなんて思うことはなかった。
誰にも言ったこともないけれど、私は彼にエスプレッソを渡せる日はなんてラッキーな日なんだろうって思うくらいには、ブチャラティを……好ましいと思っていた。
ほかの店員にだってきっと同じ態度だっていうことはわかっているのに、彼がカップを受け取って笑ってくれると何よりうれしい。だんだんブチャラティが好むエスプレッソのカスタマイズも覚えてしまって、彼は追加のミルクについて言う代わりに私に目配せをしてニヤッと笑うようになった。
ブチャラティと(彼とだけじゃない、きっとそれはほかのお客さんと話すのにも役立つはず、と言い聞かせながら、)話のきっかけになればと私はコーヒーについて覚えるだけじゃあなくて、彼が好きだと言った釣りについての情報だって少しずつ雑誌で学び始めたのだ。
今のところ、それが役立ったことはないのだけど。

だから、止まない雨の中で突然目の前に彼が現れて、私はものすごく動揺していた。凍えた私の脳が見せる幻覚か何かだ、と言われた方がしっくりくる。
「今日の夜は仕事じゃあないんだな」
だが私の動揺には気づかない様子で、彼は言った。
「今日は朝が早かったから……」
だから早く帰れるはずだったのに、動けなくなってしまってこのざまだ。そう続けはしなかったけれど、じゃあどうしてここにいるんだ、そんな疑問が彼の表情に浮かんでいた。
「……誰かを待ってるのか?」
「いや、待ち合わせなんかじゃなくて……。雨が止むの待ってたんだけど、全然やまないから動けなくなっちゃって」
私の返事に一瞬だけ考え込んだ顔を作ってから、ブチャラティは当たり前のように言った。
「じゃあ、オレの傘に入っていくか?」
「え! いや! そんな、迷惑じゃ……」
咄嗟に逃げるような言葉が口からこぼれてしまう。この孤島にいるような状況で断られるとは思っていなかったのか、わずかに驚いたような顔をしてから、ブチャラティはふっと表情を緩ませて笑った。
「おいおい、雨が止まなかったら真夜中までここに籠城するのか? ちなみに君を送っていってもオレは全然困らないぜ、……むしろ、こんなところに君を置いていったっていう罪悪感で悩む方が困るな」
いたずらっぽい笑みと共に、なぜか私の方が彼に頼まれるかのような形で提案されてしまう。……そんなの、断れるわけがなかった。

そして私は言いくるめられるがまま、彼の傘の下にいる。体温だって感じられそうなくらいの距離に……ブローノ・ブチャラティがいる。
信じられないようなその事実にギクシャクとした歩き方になった私の、のろい歩みに彼は合わせてくれる。さっきまで逃げ場などないのだと私を追い詰めていたような雨音は急に、私と彼を二人きりの世界に切り取るベールに変わる。

「……あそこにどれくらいいたんだ? 何だか寒そうだ」
「どれくらいだろ……でも1時間はいなかったと思う」
「……十分長い。帰ったらシャワーでも浴びた方がいい」

あたり前の事を言ってくれているのかもしれないけれどその一言があんまり優しい言い方で、私は何とか「ええ」とか「うん」とかそういう音の真ん中、中途半端な音を口から出しながらうなずくことしかできなかった。
普段彼を平気で見つめていられるのは、店の喧騒の中だったからだとようやく理解する。店の中なら、いろんな人たちの穏やかなおしゃべりに包まれていて、他の店員もいるし、目が合うとしてもカウンター越し。だからなんとかなっていただけで、今のようにふたりきりでこんなに近くでいる、それが平気なわけはなく気づくと緊張で少しずつ自分の身体が勝手に彼から距離を取ろうとする。……だって肩が触れてしまいそうで、雨の湿った空気の合間から私のものではない香水がふわりと一瞬鼻をかすめてしまったりして、……冷静でいるために、私は少しずつ距離を取るしかない。

だけど、そのじりじりと体を遠ざけようとする私の動きに、彼は気づいていた。

「どうして離れるんだ? ほら、濡れちまうだろ。せっかく傘を半分貸しているんだ、もっと寄ってくれ」
かばんが無事なら私は濡れたってかまわないとは思ったけれど、そう言った彼が傘をより私の方に傾けようとするから、彼の方が濡れてしまわないように慌てて彼の方に身体を寄せるしかなかった。

(……近い……)
そんなことを思ってしまってから、近いとか近くないとかそんなこと気にしてるのは私だけだ、彼は何にも気にしてない、それを忘れるな。何度も心の中で言い聞かせる。
……だけどこんな日が来るなんて思ってもみなかった。人生でたった一日だけ神様がくれた幸運なのかもしれない。
明日からはきっといつも通り、店員と常連客、その関係に戻るだけなのだ。そもそも彼からしたら今この瞬間だって私は顔見知りの店員、それ以上ではない。
そう思うとこの偶然も、雨に降られて凍えたことも、その幸運と不運の両方をどうにか受け入れられる気がした。

「そうだ、君の家はどのあたりなんだ?」
そう言われてハッとなって顔を上げる。聞かずに歩きだしてしまったがこちらの道で合っているだろうか、ブチャラティは静かに聞いてくれた。
「ごめんなさい、私も行く方向が合ってるから言ったつもりになってて……。えっと、パン屋の通りの角を曲がって、三つ目の、」
「それ以上は言うな」
私のつたない道順の説明を遮ったその声は聞いたことがないぐらい鋭くて、一瞬息が止まる。その声の鋭さには彼のギャングらしさ、それを感じさせるものがあった。
「ご、ごめん……」
何か気にさわることを言ってしまったのだろうか、思わず謝罪が口をついて出る。私があまりにも縮こまったように見えたのだろうか、彼の方こそ、先ほどまでとは全く違う少し慌てたような声で続けた。
「いや違うんだ、すまない、オレから聞いておいて……。だが君が後悔したら、あとになってから男に住所なんて言うんじゃなかったなんて思わせたら嫌だと思ったんだ。オレの聞き方が悪かった、進む方向があっているかだけ聞くべきだった」
彼は私に怒ったわけではなく、気遣ってくれたのだ。それを知ってほっとわずかに息を吐く。……でも住所だってあなたならいいのに、そう思ったけれどもちろんそうは言わずに黙って首を振る。大丈夫だとだけ伝わればよかった。
「教えてもらうには……そうだな、もっと仲良くなってから聞かせてくれ」
途中で言葉を切って、息の音でだけ少し笑ってから彼は続けた。……一言一言が私をぐらぐら揺らすようだった。揺れてるのはもちろん私の勝手だけれど、……彼の言葉はあまりにも優しくて、そこに嘘がなさ過ぎて、些細な言葉のひとつひとつに動揺させられるばかりだ。
仲良くなってから聞かせて、って……これから、もっと仲良くなってくれるってことなの?
それとも聞く気はないから安心しろってこと? もちろんそんなこと聞けるはずはなかった。

そのあと傘の下で交わしたのはあたりさわりのない話ばかりだった。今度バールで出す、私のカバンの中にも入っている新しいコーヒーの話、猫がよく集まっている路地の話、とか。彼からはどんな靴でも丁寧に修理をしてくれるというお気に入りの靴屋さんの話を聞いて、私はきっと帰ったらヒールのすり減った靴をシューズボックスから引っ張り出しまくるだろうなという確信を持つ。

彼の隣で普通に見えるようにうなずいたり声を出したりするだけでいっぱいいっぱいになりながら歩いていれば、そのうちさっき私が言いかけた『パン屋の通り』にたどり着く。……これ以上彼の親切に甘えるわけにもいかない。名残惜しさが見えないように、私はなるべく明るい声で言った。

「あの、今日は傘を貸してくれてありがとう! この通りまででいいよ」
それじゃあね、それだけ言って雨の中に飛び出そうとするけれど、
「待ってくれ」
そう言いながら彼は私の腕を掴んだ。雨で冷えた私の腕に触れた彼の手は、ひどく熱かった。
「なあ、この傘だが……。今日は君が持っていってくれ、オレは濡れたってかまわないから」
「送ってもらった上にそんなのさすがに……! 本当に、あと少しだから! ここから走っていけばすぐだから!」
あわあわしながら言葉を重ねる私を見て、またブチャラティはふっと息をはいて笑う。
「女を雨に濡らして帰るなんてことしたくないんだ。それに……」
そしてブチャラティは、さっきまでの会話で見せてくれた柔らかな雰囲気でも、住所をべらべらしゃべりそうになった私を止めた鋭さでもない表情を浮かべた。
――そこにあったのは、熱、だった。
柔らかく細められた瞳はどこか寂しげで、口元は淡く微笑んでいる。さっきよりも少しだけ、ほんの少しだけ傘越しに私に顔を近づけて、こちらの目をまっすぐ覗き込んでくる。私のすぐそばにある濃いまつげやその奥の青に、視線が吸い込まれる。ああその頬に触れてみたいと、勝手に脳がそんな言葉を思い浮かべてしまう。
彼の目に見つめられるだけで心臓がのどのあたりまで移動してきたみたいに、ばくばく言いだすのがわかる。きっと顔もわかりやすく赤くなっている。どうか夜の暗さで見えていませんように、そう祈るような気持ちで彼を見つめ返す。
「……また君と話すために、傘を返してもらうって口実が欲しいと言ったら?」
「え……」 
「…………オレは今日、君に会えるかと思って店に行こうとしてたんだ。……いや、まあとにかく気にするな。じゃあな、また店で会おう」

そう言い切ったブチャラティは、私の手を両手でつつみこむように傘を押し付けると、止める間もなく雨の中へ飛び出して行ってしまった。

押し付けられた彼の傘を握りしめながら、茫然と立ち尽くすしかなかった。
傘の柄には、ずっとこれをにぎっていたブチャラティの体温が残っている、その温度をなぞるようにぎゅっと握りしめる。
そうしながら、彼に今言われたこと、されたことを反芻する。言われた直後にはうまく理解できなかった言葉の意味が今になってじわじわと私の中に浸食してきて、目の周りが熱くなってくる。きっと顔もさっきよりもっと赤くなっているだろう。

(か、神様……)
思わずそんなことを思ってしまうくらいには信じられないほどの幸福が突然降ってきて、私はしばらく傘をぎゅっと握りしめたまま立ち尽くしていた。

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まろてん様の素敵なイラストに捧げたお話です/小説投稿・再録・イラストへのリンクの許可ありがとうございました!