彼は夜に帰ってくる日と、夜から仕事に行く日とがまちまちだ。
言われりゃあなんでもやるのさ下っ端は、そううそぶく彼だけど、逆に言えば彼だったらなんだって出来てしまうから駆り出されるのだとも言い換えられるのだろう。
朝起きて夜に帰る仕事を持つ私と、時間にかかわらない仕事の彼。すれ違うときは一週間近くろくに顔も合わせられないこともザラで、今回もわたしはひとり、同じ家に住んでいるはずの彼の残り香を追うばかりになっていた。
(……わかってるつもりだけど、結構寂しいなぁ……)
彼を困らせたいわけじゃないから、そんなこと一言だって言うつもりはないけれど。
きっと彼の姿を今日も見ることもないのだろうと思いながら歩く仕事帰りの夜道は、余計に寒々として見える。
からっぽの家で食事というよりただ空腹を埋めるためだけに口の中に食べ物を詰め込んで、二人ぶんの広さがあるはずのベッドの端っこで眠る、帰宅してからの予定はそれだけだった。
そんなことを考えながらのろのろと部屋への階段をのぼり、鍵をドアに差し込む。
「……よかった、いま帰りか?」
玄関のドアを開ける直前、そんな声がして息がとまった。バッと勢いよく振り返ると、……思わず目を丸くする。そこには、見慣れない格好をした彼、ブローノ・ブチャラティが立っていた。
「え……服が!」
「ン? ああ、今回の仕事の……制服みたいなもんだな」
彼はなんでもないことみたいに言ってから、鍵を開けただけで〝その格好〟のブローノを見つめたまま動けなくなったわたしを抱きしめるような姿勢で、ドアノブを掴む。
そのままわたしごと雪崩れ込むような形でふたりで部屋に(わたしはうしろずさるようにしながら、)飛び込む。
彼に家の中に押し込められた先、一歩後ろの玄関で固まったわたしを改めて抱きしめてから、ブローノはキッチンへと向かった。
ハッとなってわたわたしながらそれについていく。冷蔵庫から取り出したばかりのミネラルウォーターを勢いよく飲んでいる彼の姿を、わたしは呆然と見つめていた。
いつも彼が仕事で着ているのは、白のスーツだ。もちろん家にいるときや一緒に出かけるときのラフな格好も見ているのだけど、今の彼は白のスーツでもなければ休日のラフなシャツ姿でもない。
きっちりと正装しているのだ。うっすらと刺繍の柄が光って浮き上がる上品な灰色のベストの上に、黒く艶めくジャケットを羽織って、……きっちり上までボタンを閉じたシャツの襟にはボウタイまでしている。
それだけじゃない。普段、すとんと全体が丸く落ちるスタイルでまとめられたボブカットは、片側だけ横髪が耳にかけられていた。そして普段は隠れている彼の耳には、二連のリングのような銀のイヤーカフが光っている。
「仕事の制服、って……」
「ああ、今日の仕事はまあ……用心棒みてえなもんだな。仕事の場所が場所ってのもあるが、……普段のイメージとは違う格好だと、案外プロ相手でも一瞬気づかれないもんだ。その隙を作るには普段のイメージが強固であればあるほどいい。オレっていえば白いスーツ、くらいまで思われてりゃあ好都合だ」
そういう彼の顔は柔かく微笑んでいるけれど、どこか目だけが鋭いままだった。
だけど、そのあと我慢できなかったわたしが思わずこぼした一言でその目もふわりと緩む。
「てっきり俳優にでもなっちゃうのかと思った!」
「それは……なかなかに褒めすぎだな」
半分苦笑しながら、彼は首もとのボウタイを片手で緩めてほどく。その瞬間に汗と混じった柔らかな彼の香りがわたしの鼻腔をかすめた。綺麗な蝶結びだったボウタイは、彼の手によってくたりとしたただの黒いタイに戻されその首元に下げられている。
シャツの襟もくつろげて、首筋からのどぼとけまでの綺麗なラインが目に入ると何か見てはいけないものを見てしまった心地になり、この動揺がさとられないようにふいと思わず目をそらす。
だけど、わたしなんかの動揺を見抜けないような彼ではなかった。キッチンの中を大股の一歩で近づいてきたかと思ったら、わたしの目の前でわざとらしく自分の身体を見下ろしてからニヤ、と笑ってブローノは言った。
「……へーえ? こういう感じが好みなんだな?」
「こ……のみ、っていうか、……わたしだってそれ見ちゃってから気づいたんだってば……」
「何に?」
子供に名前を聞くみたいなやり方で、ゆっくりと優しくわたしに問いかける彼はどこか楽しそうだ。……普段は、あんまりこういうことをする人ではないのに!
「…………いや、かっこいい人だなぁって……」
「嬉しい言葉だが……本当にそれだけか?」
言葉と共に顎を片手ですくい上げられる。彼はじいっとわたしを見つめたままだ。見つめられて焦りと照れとで顔に血が集まるのがわかる。視線を遠くにやりながらなおもごにょごにょとごまかそうとしていると、彼は頬と頬をすり寄せるように顔を近づける。簡単に熱くなったわたしの頬に、外から帰ってきたばかりの冷たい頬が触れる。
「……どう思ったんだ? 聞かせてくれ」
甘い色をのせた、低く優しい彼の声が耳元すぐ近くで響く。それだけで思わず息が漏れてしまう。
……タイを外したその姿。それはきっと外で見ることはできないだろうけど、一緒に住んでいれば寝起きでパンツだけの姿とかも見たことがあるし、露出している量の問題じゃあないのだ。
いま、きっちり着込んだ正装を崩すその瞬間を目の当たりにして、……わたしが思い出しているのベッドでの熱を孕み始めた彼の瞳の色なのだとわかっている、……わたしと裸で抱き合うために自らの服を取り払う、その仕草を思い返しているのだ。
しかも、その格好が普段は見せないような姿だからこそ尚更、それを剥ぐ仕草はこちらをくらくらさせるような色気を纏っていた。
端的に言えば、……ああダメだ、彼に言葉で伝える方が照れてしまう!
わたしはことばを返す代わりに、唐突に彼の顔を両手のひらで包むようにして掴んだ。それから、少し驚いているような様子の彼に何も言わずに口付けた。
恋人同士ではあるけれど、友人同士である時間が長かったわたしたちのキスはくちびるを乗せあうだけのものが常だった。
だけど今日、彼の熱に当てられたわたしは彼のくちびるを舌でなぞって、彼のミネラルウォーターで冷えた口内がわたしと彼の唾液で温められるのをしっかり感じるくらいに深く口付けていた。彼の方が突然のキスで先に息を乱したのを、鼻かかるようなその息の音で感じていた。
散々彼の舌を味わってからぱっと離れて、こちらも荒い息のまま笑って見せる。
「こういうことしたくなるくらい素敵、ってこと……」
「……なるほど、よく伝わった」
そこまでされるとは思ってなかったのか、彼の声にどこか降参だ、そんな雰囲気を感じ取って思わず笑みが深くなる。
そして……ああダメだ、すごく似合っているから長く着ていてほしいのに、わたしたちはもう(自分で火をつけておいて!)お互い手を掴み合って、ベッドまで行くのも間に合わずリビングのソファに雪崩れ込んだ。