悪霊の目は夜半に光る

「ここ、誰か座るかい?」

特にうまくもまずくもない、ただ仕事場から一番近いメシ屋だからという理由だけで通うこの店で、店員以外から声をかけられたのははじめてだった。ぼんやりと顔を上げると、黒い髪をまっすぐに切りそろえた青年が、人の良さそうな顔でこちらをのぞき込みながらオレの目の前の空いた椅子に触れていた。

「いや、誰も座らないが……」
ふとあたりを見回してみる。夕食時だからか店中のテーブルが埋まっていた。この時間じゃほかの店も似たり寄ったりの状況だろう。そして金曜日のディナーを一人で食ってる人間なんて、毎晩この二人掛けのテーブルを占拠している俺以外はほとんどいない。それで困って声をかけてきたようだった。

「あー……座ってくれ、俺は気にしない」
「よかった、ありがとう」

ほっとしたように言った青年は、さっそくオレの目の前の椅子を引いた。初対面だっていうのにひどく人懐っこい笑みを浮かべて、もう一度礼の言葉を囁いてから腰を下ろした男を真正面で見据えて、その時になってはじめてさっきから感じていた彼の動きの妙な違和感に気づく。
その男の左袖は、ひらひらと空っぽのままそよいでいた。あるべきはずの手のひらが、その袖の先から見えることはない。彼の体は、残された腕に引きずられるように右に少し傾いていたのだ。
オレの不躾な視線に気づいたらしい男がふっと微笑む。そんな目線には慣れてる、そうとでも言いたげな、こちらを見透かすような表情だった。恥の感覚でカッと顔に血がのぼる。少しばつが悪くて、ごまかすように彼の方にメニューを押し付ける。

「ありがとう。……どれがうまいとか、おすすめか何かあるかい?」
ぐいと勢いよく押し付けられたメニューを何でもないように広げてその隅々に目をやる男の顔は、正面からみるとひどく整っていた。なんだかそんな顔から発せられるには、強いなまりの入ったその言葉はどこかアンバランスに聞こえるくらいだった。
「……あんた、ネアポリスの出か?」
さっきから俺に向けて浮かべられる笑顔と同じくらい人懐っこく親し気な調子の言葉に思わずつぶやくと、……本人はそこまで意識していなかったのか、驚いたように顔を上げた。
「ああ、このひと月前までネアポリスを出たこともなかったが……ピアチェンツァのあたりには……というより、北の方には初めて来たんだ」
「……そうしたら、トリッパと……とにかく肉がいいだろう。アンティパストもフィオッコを盛るのがいい」
俺がつついていた、この地域の名物の生ハムが盛られた皿を「こいつがフィオッコ、」そう言いながら指さしてやれば、男はそれにするとつぶやいてつづけた。
「……セコンドには……魚もあるみたいだが?」
「海からこんな離れた店で、ネアポリスの出の人間に食わせていいと思えるような魚はないな」
軽く声をあげて奴は笑った。オレは漁師だから、それで正解かもしれないな、そう嬉しそうにつぶやいた。
少し会話しただけで、そいつはどこもかしこも人好きのするような、善良が服を着ているような男に見えた。……左腕がないっていうハンディキャップを気にしていないのか、だからこそなのか、こいつは南イタリアの人間特有の人懐っこさは持っているくせに、俺の知る限りのネアポリス出身の人間が身にまとっているような油断のなさは持ち合わせていないようだった。だがそんな、人懐っこいだけのネアポリスの人間なんて、むしろこいつの地元じゃカモみたいなものじゃあないか? 他人事ながら心配になってしまう。

俺が勧めた通りのメニューを素直に注文してから、目の前の男は思い出したように言った。

「オレの名はブローノ。自己紹介がまだだったな。さっきも言った通り、出稼ぎ仕事で最近初めて南から出てきたんだ。……よかったら、この街のこといろいろ教えてくれないか?」
にこりと微笑みながらブローノ、は言った。このどこか押し付けがましい、でもあまりにも素直に人懐っこいせいで、距離を置くには何故かこちらの罪悪感が伴うような態度は南の人間特有なのかもしれない。オレはきっと最初に感じた、彼の失われた腕をじろじろ眺めてしまったというばつの悪さも相まって、気づけば「街について教えてほしい」なんて相談にうなずいてしまっていたのだ。

それから、あいつと俺はこのトラットリアで、夜に待ち合わせをするようになった。
ブローノは、初対面の印象から変わらずひどく人懐っこく純朴な男で、お互いの仕事帰りに食事を共にする中で、俺に聞かれるがまま、警戒心もなくどんどん自分の話をした。幼い頃の話から、今働いているこのあたりの農園の仕事の話まで。
一緒に食事を取るような相手もいなかった俺は、この見た目の整った年下の男が自分に懐いてくるのがどこかくすぐったく、そして心地よいものになっていた。
ネアポリスでは、初めて会った日にこぼしたようにずっと漁師の仕事をしていて、魚が取れにくい季節には実家の親に漁師仕事は任せることにして、知り合いのつてを頼って近くの農園の手伝いをしに来ているらしい。
「……片腕だと極端にできることが減っちまうんだ。実際にはできることだって、雇う側が戸惑って雇ってくれないんじゃあできないのと同じだな」
だがそんな言葉とは裏腹に、彼はそう言いながらもひどく明るい様子だった。

「……オレの腕は、確かに今この肘の先にはないが、ここにはないだけなんだ。オレの女神の元に置いてきた。だから今困っていたって、嘆くことなんかない。オレの手は女神が大事に抱えてくれている」
「女神、ねえ……」
ブローノは、自らの存在しない腕についてしばしばそう言った。女神が自分の手元にオレの腕を置いているのだと。それはただの慰めだと思っている様子の人間の言葉ではなかった。自分の肘から下にくっついてないだけで〝女神〟とやらのところには自分の腕がきちんとあるのだと、本当に信じている人間の声だった。
……おそらく、こいつはそう思い込むことで現実との折り合いをつけてきたのだろう。あるいは信心深い親に幼い頃から「お前の腕は女神様のところにある」とか言い聞かされて生きてきたのかもしれない。どちらにせよ、とにかくそれはブローノにとっては現実なのだ。きっとそうやってなんとか生きてきたのだ。それをおかしいと言って捨てることは俺にはできなかった。

腕がないまま生きた二十年の間にブローノの中で女神とやらは随分と細かいディティールを与えられたようで、いつしか俺はこいつが恋人の話でもするように嬉しそうに女神について語るのを聞いてやるのが常になっていた。
こういう現実と夢が曖昧な部分に立っている人間に対しては否定もしないし肯定もしない、それが大事だというがなかなか難しいものだ。時々心配になるくらい、ブローノは存在しない女神に夢中だった。
「オレはいつしか彼女のために何かしてやりたいと思うようになったんだ。オレの腕を持って待っていてくれる人なんだから」

これだけ聞けば本当の恋人の話をしているようにしか聞こえない。これだけまともそうな顔をして、信仰が一周回った結果なのか、それとも辛い現実に対抗する手段として心が勝手に生み出した結果なのか、そこだけが壊れているブローノというこの男はひどく不思議なやつだった。そしてそのディティールにこだわった、狂気と呼ぶにはあまりにも純粋な、恋にも似た感情についてブローノから聞くのは正直悪くなかった。この語りを理解してやれるのは自分だけ、という幻想も相まって、次第に心地よい時間へと変わっていったのだ。

昼間は誰ともしゃべることなく黙って働いて、夜になれば農園の仕事を終えてやってきたブローノと一緒にメシを食って話をして解散する。
妻と些細なすれ違いで別れてから、地元・ミラノを少し離れて寂しく暮らすやもめの男からすれば、こんなに気のいい友人はなかなか得難いものだとわかっていた。
そんな存在がどこも壊れていない完璧な相手だとしたらなんだかあり得ない話になってしまうだろう。だから少しくらい心が壊れているのが、ちょうどいいのだ。

その日は、俺もブローノも翌日が休みで、いつものリストランテからバールへと移動して酒を飲むことになったのだ。
いつものように俺は言葉少なに仕事の愚痴をささやいて、それを眉を下げて聞いてくれたブローノの農場の話を聞いて、またヤツの〝女神〟の話を聞くのだ。
その日、何かが違うとしたらきっとそれは、やけにブローノが女神について細かく語りはじめたくらいだ。

「……あぁ、オレの女神に会いたいよ。ずっと腕だけ任せて離れてるんだ。きっと寂しい思いをしているにちがいない……」

酔った勢いで、赤い顔をして泣きそうな調子でこいつは言った。待たせてるんだ、きっと寂しがっている、そう続けるブローノに調子を合わせてやって、ああそうだな早く顔が見たいよな、そんなこと言ってやればそれは正解だったらしい。嬉しそうな笑顔が返ってきて、ああそうなんだ、本当に、早く顔が見たい。そんなようなことが返ってくる。

「……彼女は、凄く芯のある人なんだ。本人はそう気づいてないかもしれないし、認めないかもしれないが……。生まれ故郷から離れて生きていくって決めることは簡単じゃあない。ミラノから出て……全然違う世界で、違う自分で生きていくなんて。覚悟がないとやっていけない」

その言葉に思わず少し目を見開く。女神はどうやら北部出身らしい、……というよりも、幻覚の女神に出身地まで作っているとは! なかなかに、このブローノは素敵におかしい奴だった。女神なのにどこかの異国じゃあなくて、ミラノなのか。……ネアポリスで生まれ育った人間からしたらミラノは十分異国なのか?
素直で純朴、そしておそらくよく働いているのだろう、ブローノの片方だけの手のひらはよく日に焼けている。そんな頭のてっぺんからつま先まで、ハンディキャップも気にかけずまともに生きてるように見える男がまるで本物の女みたいな不思議とリアリティのある設定で幻覚の女――ああ、女神、か、について語り始めるなんてのを目の当たりにして、普段より更に、どこか面白がってる自分がいた。その女の身長は? 好物は? 聞けば聞くほど、リストランテでもさんざん飲んでいたはずなのにさらに胃が焼けるようなショットをがぱがぱと飲み込みながらもブローノはよどみなく返事をしてくる。
なんだかその不思議な光景に久しぶりに心から愉快な気持ちになって、俺は更にこいつに酒を飲ませながら幻覚を話させるがままにしていた。

だが面白がって飲ませているうちにあとになってハッと気づくことになる。ああしまったやりすぎた、そう思う頃には俺の目の前にはテーブルにつっぷして完全に潰れた男が転がっていた。

「おい、ブローノ……立てるか?」
「……んぅう」
「……ダメそうだな」

いくらかつついてみたが、はじめはやめろだの起きてるだの何かしらのくぐもった声が聞こえていたが、いつしか返ってくるのは無音だけになった。もうこれはダメだ。軽くため息をついてから、俺はブローノを抱えて夜の街へと出たのだ。

「お前の家なんて知らないから、……明日休みなんだろ、とりあえず俺の家にいくからな」
返事なのか何なのか、寝息ともつかない音を返したっきり、ブローノは黙って俺に肩をあずけたまま、なんとか引きずられながら足を一歩ずつ前に出すだけのクソほど重いおもちゃみたいになっていた。

……ブローノが語ったミラノ出身の〝女神〟。やけにリアリティのあるその女の描写に、俺はふと気がつくと頭の中にあるひとりの女の姿が浮かんでいることに気がついた。……懐かしい顔だ。もうしばらく会っていない。全部が重なるわけじゃあないが、ブローノが夢見る女神と、俺が会いたいと思っている女。それがなんだか似ているっていう偶然は、何だか改めて深い友情を感じるのにふさわしい出来事のように思えた。

俺の部屋までの道はひどく暗い。だが不便な分だけ家賃も安いし、星も見える。いつもは、俺の暗い人生の暗喩のような暗闇の路地を抜けて行かなければならないのを憂鬱に思っていたが、不思議な友情で繋がれた男を引きずって歩いていくには、なかなか悪くない道だった。

なんとか自分の部屋までブローノを運び込んで、キッチンの椅子に座らせる。人間が一人増えるだけで、ひどく手狭になったように感じられるくらいこの部屋は狭かった。薄暗い蛍光灯の下でなんともなしにぐらぐらと揺れているその姿を見て、とりあえず水でも飲ませてやるつもりで冷蔵庫を漁りながらつぶやく。

「なあ。お前の女神の話を聞いてて思い出したんだ。偶然だがオレも……似た女を知ってるんだ」
彼女の姿を思い返しながら、俺は冷蔵庫の中を掘り起こして、飲みかけじゃあない水のボトルを引っ張りだす。ああ、レモンかなんかもあった気がする。入れてやればただの水よりは飲み下しやすいだろう。
「似た……女?」
あの状態で返事ができるとは思っていなかったが、律儀にブローノは声を返してきた。
「半分……いや、今でも家族みたいなもんだな。すごく物分かりがいい女だったんだがな。……だが、少し厳しくしすぎたのか、今はオレのところから家出中でね。あー、もちろんたまに連絡はくる。厳しくしたのは昔の話だし、あいつはまだ若いから、何にもわかっちゃいないんだ。わがままだが、受け入れてやってもいいとは思ってる。また一緒に住むようになるはずさ。きっとお前の女神くらい、いい女だ」
「……ふぅん……。その子の名前は?」

「名前は――」

独り言のように女の名を口にした瞬間――突然、気づくと俺の身体は床にたたきつけられていた。激しい衝撃に手に持っていた水のボトルとなんとか冷蔵庫から引っ張り出したレモンが床を転がっていく。一瞬何が起きたのかはわからなかった、咄嗟に頭に浮かんだのはブローノが立ち上がろうとして失敗した図だった。ああ、片腕でこんな狭い部屋で転ぶのはよくない、絶対にあぶない、そう思って慌てて顔を上げてあいつに大丈夫かと声をかけたはずだが、……ブローノは、見たこともない表情で、まったく身体を揺らすことなく真っ直ぐに俺の後ろに立っていた。
一切の表情が抜け落ちて、ぎらぎらと光る目だけが取り残されている、……そんな印象だった。酔って目が据わったのか? こいつ酔っぱらうとそんな面倒な酔い方するのか……。次に会うときには慰謝料代わりにコーヒーでも一杯奢らせる、バールで覚えておけよ、そう思いながらあいつの名前を呼んだ。

「なあブローノ、お前相当酔ってんな? 家の中で暴れるなって……。ここは俺の家だから安心しておとなしく座っとけ、水でも飲ませてやるから」
「…………やはり、お前だったんだな」

バチン、音をたてて部屋のライトが突然落ちた。真っ暗になった部屋の中でも、ブローノの目だけが窓の外の月明かりを跳ね返して光っている。……まるで、獣のようだと思った。そして俺は――獣に睨まれた小さな小さな生き物になったような、そんな幻覚が頭によぎる。

「……ブローノ、お前何言ってんだ」
俺の目の前にいるのはただの、あの気のいい若い男だ。一緒にいたのは数週間だったが、こいつが俺に隠し事ができるようには見えなかった。……だから、酔ってるだけなのだ、酔っているだけ――。そう思いながらも、口の中はからからになっていて、何とか絞り出した声はひどくかすれていた。
「……お前が彼女を傷つけたのは昔のことじゃない。たった一年前の話だ」
ブローノは暗闇を俺を見据えたまま音もなくゆっくりと移動していく。その静かに発せられるプレッシャーに、俺は動けないままだ。背中には、とっさの事で閉めることすらできなかった、さっきまであいつに水をやろうとして中をあさっていた冷蔵庫の冷気を感じている。
「……い、いちねんまえ? そ、そんなもんだったか? えっと、ああもっと経ってるかと……思ってた。一人で住むようになると、時間が……時間の感覚がまた、変わるんだな。でも、あの、傷つけたって言うのは、なあ、正しくないだろ? あいつが女のくせにとんでもないわがままだったって話もしないと、フェアじゃあない。妹、俺の妹になったってのに、あんな口ごたえするのが悪いんだろう、……家族になったなら従うべきだ、そうしてれば俺だって殴ったりなんか……」
なんでそのことを知っているんだ、お前は誰だ、もっと今言うべき言葉の数々はあったはずなのに、この時の俺は一切思いつきもしなかった。ただ、突然非難を浴びせられたような状況に、何とか俺だけがそんなふうに言われるのはおかしいだろうと主張することしかできなかった。

「……お前が、」

すべては、その一言だけで十分だった。あまりにも静かで、低く、息継ぎの音すらしないような声。静かな怒りの力に満ちた、その声。
それだけで、俺が見ていたあの気のいいネアポリスなまりの青年は実在しなかったのだと理解できた。ならば俺が見ていたのは、一緒に時間を過ごしたのは一体誰だっていうんだ?

「いや、……誰であろうと、他人を下に見て従わせる権利なんてない」

そこまで言い切ってから、目の前の男は一息に距離を詰めてきた。なんとか距離を取ろうと冷蔵庫に背中をめり込ませながらも逃げ出すこともできないで立ちすくむ俺を、夜の光を跳ね返す深い青の瞳が見下ろしていた。
「……オレと揃いにしてやるよ」
そして次の瞬間、俺はふっと体の右側が軽くなるのを感じた。一体何が起きたのかはわからなかったが……俺から離れたブローノの手の中には、……人間の腕が、握られていた。
恐る恐る自分の腕の先を見ようとして――。

「あ……? あ、あ、おい、……なんだってんだよォ!!!!」
恐怖で思わず〝両手〟を握りしめる、どういうわけか、何が幻覚なのかもわからないが手を握りしめて爪が手のひらに食い込む感覚は、ちゃんとあるのだ、……両手に。
でも俺の肘から先は失われていて、あの男が掴んでる腕がきっと俺のものなのだということは疑うべくもなかった。恐怖に見舞われてとにかくその場から逃げ出そうとするが、突然目の前のキッチンテーブルの足が見えない刃物に切り裂かれたかのように折れて、崩れたテーブルが俺の行く手を阻んだ。もう何がなんだかわからない! 悲鳴をあげながら、部屋中の荷物をひっくり返しながらとにかくあの得体のしれない男から距離を取ろうと必死だった。なぜ俺は、俺はあんな男を友人だなんて思ってしまったんだ!
「お、あ……?」
腕が失われた先の右肘を、止血のつもりで必死に握りしめながら玄関にたどり着く。出血なんかしていなかったことに気づける状況ではなかった。男は玄関にまではどうやらついて来てはいなかったようだ。とにかく逃げて、それから……それからどこに駆け込めばいいんだ?

「逃げたところで、痛みからは逃げられないぞ」

部屋の奥から、俺に向かって軽く叫ぶ声が聞こえた。次の瞬間、……今俺の視線の先には存在しないはずの手のひらが、ひどく痛みだした。

「あぁあ!? 痛え、あああああやめろ!」
叫びながらキッチンに駆け戻る。あの男はあろうことか俺の腕をぎりぎりと足で踏みつけていた。床のタイルが手の甲を傷つけていく、きっと血も出ているだろう。

「感覚はあるのがわかるだろ? だから……こんなこともできるわけだ」
男は、流しの中に突っ込まれたままになっていたナイフを拾い上げると、さっきまでぎりぎりと踏みつけていた俺の手を軽く拾い上げるとその甲の上でためらいもなく刃を真横に引いた。熱い何かを押し当てられたような感覚の後、焼けるような痛みがやってくる。なんとか歯を食いしばって耐えようとするが、……キッチンの戸棚には古いミキサーがあることを、俺はふと思い出す。あいつに見つけられたら――そう思うと顔から血の気が失せていくのがわかった。そして、この冷たい目をした、今となっては一切何を考えてるかもわからない男はきっと、やるだろう。

「怪物……お前は……化け物だ……。俺が、俺が何したって言うんだ……!」
痛みで冷や汗と涙が勝手にあとからあとからあふれてくる。言葉どおりだ、俺が一体何をしたっていうんだ? 今となっては――ただ惨めにひっそりと生きているだけのこの俺が!
まるで……災害だった。突然やってきて平穏な生活をぶち壊す厄災が、今俺の部屋にいる――。

「なにをした」
そう返ってきた声は、まるで機械のように平坦な声だった。ああ、クソ……また俺はこいつの訳のわからない逆鱗に触ってしまったようだった。
さっきは皮膚の上を滑るだけだったナイフを、今度はあの男は掴んだままの俺の手のひらに向かって縦に突き刺さした。本当に、まるでオレンジでも切り分けるときのように一切のためらいもなく。耐えきれるわけもなく、悲鳴を上げ体を丸めてうずくまる。
……俺は、恐い。この得体のしれない生き物、まるで悪霊のようなこの男と二人きりで、……しかも親切心から自分の部屋になんか引き入れたことをひどく後悔する。
吸血鬼は誘い込まれないと部屋に入れないんだっけか、なんだかそんなことを場違いにも思い返していた。

「……この拳で、彼女にしたことを、お前は忘れたっていうのか」
「カノジョ、だと……? あの女のこと言ってんのか……? な、なんの関係があるってんだよ! つーかお前……あいつに雇われてんのか! ……クソ生意気な……!」
俺が口走った言葉に返事をする代わりに、男は俺がさっき叫びながら咄嗟の恐怖で目をやった例の戸棚に目を向けた。そうされただけで、痛みでアドレナリンが出始めていたのか半分キレながら勢いよく言葉を吐き出していた俺の口は固まった。
「……なるほど。何かあるんだな? あそこに」
わざわざ口に出してから戸棚に手をのばす。なんにもないって顔ができればよかったのに、ああくそ、まともな顔になりやがれ、ああ、……クソ!
「いやだ……やめてくれ」
「へえ、良いもんもってんじゃねえか。スムージーでも作ってんのか? ……悪いが新しいのを買った方がいいかもな。お前が気にしねえってんならそれでもいいが」
あっという間に、ミキサーはあいつの手の中におさまった。
「お願いだ、本当に……それだけは、死んじまう……」
追いすがって近づこうとしたら、今度は身体がぐらりと傾いだ。その瞬間には痛みも何もなかった。だが、……今度は、片方の足が俺から外れていた。ふとももから外された奇妙な棒のような俺の足がその場でバタンと先に倒れて、それを追うように俺の体全体が床に倒れ伏した。地面に墜落したままずるずると這って進む俺を、部屋のなかはほとんど暗闇にもかかわらず光を集めてギラギラと輝くあいつの目が見下ろしていた。

そして戸棚から引き出したミキサーを、ブローノは手際よく準備していく。よせ、やめてくれ、ブローノの足にすがりつきながらうわ言のように何度も繰り返すがあいつは返事もしなかった。

そしてついに、震える俺の腕をミキサーの中に突っ込んだ状態で彼は地を這うような冷たい声でいった。
「お前が安心して眠れる夜は来ない、もう二度とな」
スイッチに手がかけられるのは、ひどくゆっくりと……まるでスローモーションに見えた。だめだそれだけは駄目だ俺が何をしたっていうんだそんなことをされるようなことなんてしていないちくしょうやめろやめろやめてくれ
「あ゛」

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続き/ブチャラティとヒロインの出会いの話→再生

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