La mattina

「おい、棚いらねえか」
「たな? たな、って……これ、棚っていうか……サイドテーブル? かな?」

アジトに帰ってきたブチャラティが部屋に入ってきてすぐ発した言葉に、わたしは一瞬固まった。ブチャラティが玄関ドアの向こうから手招きするのに誘われるがままそちらに行けば、そこにあったのはベッドサイドに置くような、小さな、しかしつくりのしっかりとした、引き出しのついた木のテーブルだった。
最近じゃあ見ないくらいに立派な木材が使われているようで、その表面は美しく飴色に光っていて、小さいけれど存在感はある。引き出しの部分には花の模様が透かし彫りで入っていた。こんなのどうしたの、そう聞けば、北に嫁いだ娘に一人暮らしを心配されてネアポリスからの引っ越しを決めた老人から、とても良いものだから世話になったあんたにと譲られてしまったそうだ。なんてブチャラティらしい話だと思えば勝手ににこにこしてしまうけれど、ブチャラティの方は断れなかったが家に置き場もないと困っているらしい。
「これ、わたしがもらってもいい?」
今は枕元に読みかけの本も飲みかけのペットボトルも散らかしている状況だから、ということは伏せたままそうつぶやけば、ブチャラティはどこかほっとしたような顔をする。
「そりゃあよかった、せっかくの好意を活かしてやれねえのは申し訳なくてな……」
「でもこれ……どうやって運ぼうかな。……結構ちゃんとした木でできてるから重そうだよね。まあ……抱えて持っていけなくもないか……」
サイズを目で測ろうとぐるぐるいろんな方向からそのサイドテーブルを眺めまわしてたら、ブチャラティが言った。
「いや、そんなことしなくても……オレがスティッキィ・フィンガーズで運んでやるさ」
「あ!そっか! それはありがたいな」

でも、運んでもらうためにはブチャラティの身体の中に棚を入れることになるけれど、結局一度は持ち上げる必要があった。残念ながらそれもわたし一人ではなかなかうまくいきそうにない。そこで結局、わたしの身体の中、背中に空間を作って運ぶことになったのだ。
しゃがんでブチャラティに背を向けて待機する。初めての経験でわたしは少しわくわくしてるくらいだけど、スティッキィ・フィンガーズのこちらを傷つけないようにしたいという意思なのか、今まで想像したこともないくらいそおっとわたしにこぶしを当てるものだから、その優しい触れ方がいじらしくて思わず顔には笑みが浮かんでしまう。わたしのにやにやした顔に気付かないまま、ブチャラティは後ろから声をかけてくれる。
「……痛みも何もないとは思うが、何か違和感があったら言えよ」
「うん!」
言われた通り、何かを感じることもほとんどなく、聞きなれたジッパーの音が自分の耳のすぐ後ろから聞こえたのに少し驚いたくらいだった。今、自分の身体の中に亜空間があって、それの中にあのひとかかえはある棚が入ってるっていうのは、なんだかひどく不思議な感覚だった。

「……ほんとにあんな棚が入っちゃったの?」
「ああ、そうだ。だが……妙な感じだな、仲間の身体の中に家具なんかつっこむのは……痛みはねえとわかっちゃいるが、少し心配にもなる」
「いやほんとに痛くも何もないけどさ……そっちが心配しないでよ……ちょっと不安になるじゃん……」

そして無事にわたしひとりで棚を家まで運べても、結局外に出すにはもう一度スティッキィ・フィンガーズの力を借りなければならない。
今日はもう仕事も終えることにして、ブチャラティとふたり連れ立ってわたしの家までの道を歩いていた。
「そういえば、ブチャラティがうちに来るのってはじめて?」
「……ああ、そうだな」
「もっと早く招待しておけばよかったな……。うちの家の近くにさ、凄くおいしいポルチーニ茸のピザを出してくれる店があるのに……ほら、あそこ!」
絶対食べた方がいいブチャラティあんたは絶対食べるべきだ! 何故か「いや、オレは……」とか遠慮がちにする彼に言い聞かせ、そしてそのサイドテーブルを運ぶのを手伝ってくれたお礼もかねて、その店でピザとワインとビールとカルツォーネと、ひとしきりふたりで過ごすための食べ物を買って帰ったのだった。

自分の寝室でもう一度しゃがみ込んでブチャラティに背を向けると、再びそっとスティッキィ・フィンガーズがわたしの背中にこぶしを当てる。その壊れ物に触れるような仕草はきっとかわいいだろうけど、見られないのが少し残念だった。また首のすぐ後ろからジッパーの音が聞こえてから、ブチャラティの腕がわたしの背中に触れる。……わたしの中に、知らない空間がある。そこにブチャラティが腕を突っ込んでいる……。なんだか深く考えたら妙な恐怖を覚えてしまいそうで、あまり深くは考えないように目を閉じながら、彼がわたしの中の空間を閉じるのを待つ。

「……終わった?」

思わずささやいた言葉への返事の代わりに聞こえたごとん、という大きな音で振り返ると、サイドテーブルが部屋の中に突然出現していてなんだか笑ってしまう。
二人でそれをベッド脇の丁度良い場所に置こうとしたけれど、壁とベッドの間に微妙に入らないものだから二人でベッドを押す羽目になったのだ。
そんなに大きくないはずのベッドを少しずつ移動させるだけでなかなかに重労働で、無事にサイドテーブルをいい感じに壁とベッドのあいだに押し込めた時には思わずブチャラティにハイタッチなんか求めてしまった。そして彼もちゃんとそれにノッてくれるのだ。
……ここまで手伝ってくれるのが、そしてハイタッチだってしてくれるのが、ブチャラティの優しさの現れだと思う。

それから、わたしとブチャラティは重労働を終えたことを祝ってピザとワインそのほかもろもろで祝杯をあげるべくソファに飛び込む。ピザを片手に掴んだまま、わたしはほとんど手癖でテレビのリモコンに手を伸ばす。

目の前に映し出されたのは、ひしめくように画面を埋め尽くす自転車の群れだった。

「……ジロ? じゃあねえよな、まだそんな季節じゃねえだろ」
「これ……どこか外国のレースみたいだね、生放送だって」
「へえ……」

男たちが車みたいな速度で自転車をこぐ姿には特に覚えもなく、レースなんてイタリア中を走る有名なレースくらいしか思いつかないのはわたしもブチャラティも同じだった。聞き覚えのないどこか遠くの街で行われた自転車レース、そんなのを普段熱中して眺めることもないのだからすぐチャンネルを変えてしまってもよかったかもしれないけれど、わたしもブチャラティも思った以上に夢中になってその試合に見入っていた。レース最終日の終盤戦、ボロボロになりながらも前へ前へと進む姿に思わず声援をあげ、蓄積した疲れか、運にそっぽを向かれてしまったのか、小さなくぼみで落車する選手の姿に悲鳴を漏らし、解説を聞きながらなんだかその選手に感情移入してしまったり、忙しく楽しくレースを観戦していた。

試合を見ている間はあまり食事も進まない。間にはさまるCMに入ってからようやくゆっくりと息ができる気がして、その間になんとかピザを食べる、ということを繰り返していた。

そして何度目かのCM、ついにゴールがあと数キロにまで見えてきたというタイミングでブチャラティはふと、深夜を回った時計を見て静かに言ったのだ。

「さて、……オレはそろそろ帰るとするか。あまり長居するわけには……」
「え!? ここまで見たのに!? 最後まで見ないで平気なの!?」

信じられない! ここまで一緒になって応援してきたのに! おもわずそんなことを叫んでしまう。

「せっかくなんだから最後まで見ていきなよ! それで帰るの大変なら泊っていけばいいじゃん。 タオルと歯ブラシならすぐ貸せるし、あと……寝るのはソファになっちゃうのが悪いけど、毛布もあるから!」
テレビ越しにだってその熱が伝わるような、身と魂を削るようなこのレースの最後だけを見ないで帰るなんてきっと後悔するからと、にわか知識しかないくせにわたしは滔々とブチャラティを説得にかかっていた。
こちらの勢いにおされたのか、ブチャラティは何だか妙に考えこむような、少しだけ困ったような顔を一瞬だけして見せてからうなずいてくれた。

「……だが、いいのか? 本当に……」
「いいっていいって! 楽しいし! 家に友達が泊まりにくるのとか久しぶりでさ」

ビールの缶を掴んだまま、笑顔でそう言ってみる。だけどブチャラティは一瞬だけ口元をきゅっと引き結んで、考えこむような表情を見せてから、ふっと息を吐いて笑う。

「まあ……楽しいと思ってくれるならそれでいいさ」
そんなことをささやく彼に、もちろん楽しいよ、ブチャラティとこうしてるの、そう言ったらまた彼は少し眉を下げて笑った。

それから、改めてふたりでソファの上、少しずつビールを口に流し込みながら真剣にテレビの中のレースを追う。なんだかこの試合を観るときにはワインは合わない気がしたのだ。
ときに仲間を前に進めさせるために風よけの壁となり、ライバルと自転車のフレームが触れてしまいそうなくらい接近戦をしかけ、ぼろぼろになりながら進み続ける選手の姿から目を離すことができない。
そしてついに、ふたりで応援していた方のチームが、出しきった、そんな表情を浮かべて、憔悴して汗だくになりながらテープを切るのを見届けてから隣を見た。ゴールの瞬間に漏れたのは歓声ではなく満足気なため息だったのは、わたしもブチャラティも同じだった。
「……良いレースだったな、」
わたしの目線に応えるようにそうささやいたブチャラティはまぶたがいつもより重そうで、二重がさらにくっきりしている。眠そうなブローノ・ブチャラティ、なんてものきっとなかなか見ることができないだろう。なんだか珍しいものが見れた喜びと、どこか幼く見えるような表情に、気づくと勝手にわたしの口元は笑みのかたちに緩んでいた。
とっくに日付は変わっていて、ともすると夜明けも近い時間になっている。眠くなるのも仕方ない。わたしの身体もだんだんと眠気を思い出してしまって、ずっしりと手足が重くなってくる。
「本当だね……。ね、見ていってよかったでしょ。あ、歯ブラシ新しいの出しとくね。シャワーも勝手に浴びていいし、使っていいタオルもバスルームに出しておくから」
「ああ、悪いな」
「全然! じゃあ、おやすみ」

いい試合を見た、しかもブチャラティと!という高揚感をそのままに、わたしはベッドに飛び込んで、そして次の瞬間には意識を手放していた。

◇◇◇

次の日、わたしは昨日のことを半分忘れたままでベッドから起き上がる。なんだか楽しかったという記憶だけが夢の奥に残っていて、うまく働かない頭のまま、ベッドから足を下ろす。
家の中で履いているスニーカーをぺたぺたと鳴らしながらリビングにむかって、――そこで目にしたもののせいで、息がとまった。

「……ぉ、あっ……」
思わず変な音が出た口を押さえる、目の前には、……わたしの部屋の決して広くないリビングの中、ソファの上で寝息を立てるブローノ・ブチャラティがそこにいた。

自分で泊まっていけと言ったくせにそれを半分忘れていたのだからどうしようもない。でも、変な声が出るくらいに驚いてしまったのは、忘れていたせいだけじゃない。

わたしの前ですうすうと寝息を立てているブチャラティ、寝るときに邪魔だからと上着は脱いでしまったようで、裸の胸のあたりまでをわたしが貸した毛布が覆っている。彼の片方の腕はソファから落ちていて、もう片方の腕は窓から差し込む光をまぶしがるように彼の額にのせられているけれど、うまく顔は隠せていない。

朝日は彼の顔を照らして、黒くつややかな、彼の額からこぼれて広がるその髪も光らせている。いつも引き結ばれている口元も今ばかりは少し緩んでいる。

光に浮かび上がるその姿。熱を持ち呼吸でかすかに上下する身体、光って見えるくらいのまつげ、長い手足、まるで一枚の絵のようにすべてが美しく見えるのは、……きっとそれは、ブチャラティが本当にきれいってだけじゃあなくて、どう考えても、わたしが、彼のことを――。

(う、わ……)

気づいてしまった瞬間、心臓がものすごい速さで鳴り始める。耳元でばくばく聞こえてうるさいくらいだった。
わたし、昨日の夜の考えなしのわたし! ……一体なんてことをしてしまったんだろう、それにようやく気づいてしまう。簡単に泊まっていけなんて!
そして、……これまで彼に対して抱いていたものとは違う、でも突然生まれたわけじゃあなくて、どこか無意識に蓋をして過ごしていた感情が自分の中でその蓋を押し上げて芽吹く瞬間を、はっきりと感じたのだった。

「……んん……」
嵐のような感情を抱えたまま呆然と彼を見つめていたら、ブチャラティが小さくうめいてからゆっくりとまぶたを持ち上げる。
平静を装った顔をなんとか作るように努力しながら、何でもないようにささやく。
「っ、あ、ごめん、あの……起こした?」
「……いや、平気だ」

ブチャラティがゆっくりと身体を起こすと、毛布がはらりと落ちる。

(……寝るときは、あのインナーも外すんだな……)

もっとちゃんと考えなくちゃいけないことがあるはずなのに、混乱した頭はそんなことを一番はじめに勝手に考えてしまう。呆然とブチャラティを見つめているだけのわたしに、彼は寝起きのくせに随分優しい声で笑って言った。

「……Buongiorno」
「……ぼ、んじょるの……」

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