Questi sono per te!

「ほーーら、わたしのアモーレたち! 受け取って!」

ハート型の缶ケースの中に規則正しくならぶ、きらきらした包装をまとったチョコレートの粒をにこにこしながら差し出してみせる。するとうちのチームのやつらはいつもたむろっている向かいあったソファや執務机やらからめいめい、みんなして同じような怪訝そうな表情で見つめてきた。何その顔、そうわたしが聞き返す前に口を開いたのはフーゴだった。

「なんていうか……急にどうしたんです? あなた別にチームのやつらにこういう気の使い方できる人間じゃないでしょう。突然そこそこの値段のチョコレートを配ったりして……僕たちに何を求める気なんですか」
「……人をそんな心の冷たい人間みたいに言わなくたっていいだろ……。バレンタイン限定なんだよ、この箱……知らない? 家で使いたいから箱が欲しかっただけ。ひとりで食べきってもいいけど、せっかくだからチームのみんなに分けてあげようって思っただけなのに……」

バレンタインの時期には、いろいろなチョコレートショップが気合いを入れて期間限定のかわいいパッケージのチョコレートを売りだすのだ。そんなの喜ぶのはまんまと企業の商戦にのせられているだけと言う人も多いし、愛は特別な日じゃなくてもほかの365日いつだって伝えられるっていうのがまあ伝統的な意見だけど、バレンタインデーというお祭りにのっかったって悪くはないはず。かわいい箱や街中や店に飾られるきらきらした装飾に罪はない。

だけどフーゴには、わたしが何かしでかしたからこのチョコレートでみんなを買収しようとしたように思われたらしい。……買収するなら、こんな風に全員にまとめて何かふるまうんじゃなくてひとりずつをこっそり呼び出して「あなたにしか頼れない」とか言うよ、でもそうは口にせずにフーゴの手を取って、彼の服の色にも似合うような緑色の包みのチョコ一粒を押し付ける。まだ彼は怪訝そうに眉を寄せたままだけど、突き返しはしないどころか、ぼそぼそとまあ、ありがとうございます、なんてつぶやいた。そういうところが彼のいい所だと思う。結局最後には優しい。

「ほら、他のアモーレたちも受け取って!」
ソファの上でフーゴとのやり取りをぼんやりと眺めていた面子にも箱を広げて見せる。
「なんつーか、そんな感じに言われるとよォー……恋人っていうかマンマって感じで落ち着かねえよ……」
「うるさいなぁミスタは! バレンタインも仕事の人たちに気配りチョコレートだよ? せっかくなんだから大人しくもらっといて」
ほら、取って! そう言って箱を広げて見せて、ミスタ本人にチョコを選ばせる。ちょっと迷ってから、彼はオーソドックスなミルクチョコレートのつつみを指で拾いあげて、グラツィエ、そう言ってニヤッと笑う。そんなやりとりを見ながら、自分も箱からオレンジピール入りのチョコをつまんだナランチャが少し遠慮がちにつぶやく。

「なぁー、もらっておいて悪いけど、ナマエの恋人は気にしねえのかよー。仲間だけどさぁ、オレも男だし……」
三人目になってやっとなんだか優しいことを言われて、思わず自然に笑みがこぼれる。いいの気にしないで、わたしがそう言う前に、ナランチャの隣でもうチョコレートを一口で食べきってしまったミスタがニヤニヤしながら言った。
「おいおいナランチャ〜、それは禁句だぜ?」
「そうそう、いたらこんなふうに仕事仲間をダシにして箱目当てにチョコレート買う必要なんてないんだから気にしないで受け取ってね! ミスタには大サービスで四つもあげる」
「ぃいらねぇっつーの!それか五個よこせ!!」

ソファの上から逃げるミスタを追おうとしてから、そのバタバタした一部始終を眉を寄せたままの顔で向かい側のソファから見ていたアバッキオにも忘れずに一粒を手渡す。
かわいいピンクの包装を押し付けられて、さらにアバッキオの眉間のシワが深くなったのは見えなかったフリをして、それから最後に、ひとりだけみんなと同じソファではなくその奥の執務机に向かったままの彼の前にも、ハート型の箱を広げて見せる。

「ほら、ブチャラティにも。あげる」
「……ああ、悪いな」

ブチャラティには、ホワイトトリュフをなんでもない顔をして手渡した。彼のイメージに合うと思ったから。
……だけど、今のわたしは「自然」が出来てるだろうか? 他意はないから、ただチョコレートを消費してほしくて押し付けただけだからって顔が、うまく出来ているだろうか。
手のひらにのせられたチョコを、ブチャラティはやけにじっと見つめていた。そんなしげしげ見たって、一応毒も何もないよと言おうとしたけれど、彼にとっての毒になりそうな思いはのっかってるかもしれないから黙っておく。
(……あ、これ……今日は食べないかもしれないな)
ふとそんなこと思う。食べる気のないチョコを渡されてその様子をずっと見つめられても困るだろうと、なんでもない様子を装ってブチャラティから離れた。
わたしはブチャラティに背を向けてから、みんなが選ばなかったレモンピールが入ったチョコを口に放り込む。甘く上品な香りに口元は緩むけど、心はひどく冷えていた。
本当ならブチャラティにだけ渡すつもりだったチョコレートを、みんなで食べているという目の前の光景で。

……わたしが抱えるこの箱も、今朝までは、ブチャラティにだけあげるつもりで、自分としては必死の勇気で何日も前から悩んでようやく決めたチョコレートだった。
それをこうして配ることに決めたのは、ブチャラティがひとり、バレンタイン仕様で赤いばらで埋め尽くされそうになっている街の花屋の前で、じっと真剣な様子で花を選ぶ姿を見てしまったからだった。

――ブチャラティにはそのばらの花束を渡す相手がいるのだと、そこで知ってしまったのだ。

なんだろう、なんていうか、その姿を見て「ああ、わたしじゃあないな」って直感で理解してしまったのだ。男所帯のチームの中で、一緒に泥にまみれ地面を這いずりまわって、ときには共に雑魚寝なんかしたってかまわないような人間に、花をプレゼントしようとは思わないだろう。

でも、それにショックを受けるよりも先に、当たり前だなって感じに腑に落ちてしまったのも事実だった。そして何より、ブチャラティがひとりぼっちの時間をバレンタインの日に過ごすより、花束を抱えて誰かと一緒にディナーに行くほうが、きっとわたし自身の幸福に近いのも事実だった。ブチャラティが幸せでいてくれるなら、そこにわたしがいる必要なんてないのだ。

……それでも、別にわたしだって急に恋人になってと言うつもりではなかった。

最初は、なんとなく好きな店がかぶるとか、休みの日に見に行こうと思ってた映画が同じとか、まあ、それなら一緒に行ってもいいか、みたいな、チームの中では一緒にいて気が合うヤツのひとり、って距離感だった。
普通の同僚らしいそんな付き合いを続けているなかで、仕事のときのキリっとした表情はオフになるといつまでも持続するものではなく、年相応に柔らかな顔をするのを知ってしまったり、酔ったときには随分大声で笑うことを知ったり。あるいは仕事をしているとき、クソ生真面目で融通がきかなくて自分ひとりが傷つけばいいと思っているなんてところがあるのを知ってしまったりだとか、仕事でもオフでも、隣でいろんな姿や表情を見ているうちに、わたしはブチャラティのことをただの同僚という目では見られなくなってしまったのだ。
こちらが懐いた分だけブチャラティの方も近づくことを許してくれて、だんだんと仕事のあとふたりきりで食事をするのも普通になって、休みの日もなんとなく一緒にいて、自然とお互いの家で過ごしたりするようになった。
休日に目覚めて、自分の家のソファで前の夜から泊まっていたブチャラティが寝てるのを見たときの得も言われぬ幸福感と高揚は、今も覚えているくらいだった。

そんなこと繰り返しながら、そのときわたしにだけ見せてくれるやわらかな表情を見つめてたら、ああ、もしかしたら惹かれ合ってるのかも、そんなことを自然に思うくらいには、わたしは自分がブチャラティのそばにいるのだと思いこんでいたのだ。

……でも、そんなのはアバッキオ相手でも、ナランチャ相手でも、とにかくチームの誰に対してだって普通にすることだったと気づいてしまったのは今日、あのばらの花束を買う背中を見てからだった。
わたしに向けられたブチャラティの優しさに、友人以上の特別はきっとない。
大切なチームメイトだと思ってもらえることが十分尊いことだとわかっているのに、気づけばそれ以上を求めてしまって、いまの自分が彼の特別じゃあないことがわからなくなっていたのだ。
それにわたしなんかがあのブチャラティの特別になりたいなんて、そもそもおこがましい話なのだ。

ブチャラティはサプライズを仕掛けるような人ではないし、わたしも花をもらうようなタイプの女ではない。それは勘違いでもなんでもなくて、長い付き合いの中で知っていることだった。そしてよくわかっているからこそ、苦しい。

……それでもまあ、悪くないのかもしれない。わたしにチョコを押し付けられて、あのアバッキオまで眉間に深くシワを刻みながらも小さな包装を大きな手でちまちま剥いて、ハートの形のチョコレートを口に放り込むめずらしい姿なんかも見れたし、フーゴには買収ではないかと実際糾弾されたわけだけど、チョコレートでみんなに恩を売った気になるのも、全然悪いことではない。

それぞれチョコをもう一粒二粒わたしに押し付けられてから、もう今日は仕事もないからと三々五々立ち上がってアジトを後にする男たちを見送る。ブチャラティの顔を見ることはできなかった。
お前は帰らないのかとミスタに聞かれて、もう少し仕事を片付けて行くからとあしらって、ひとり、がらんと広くなった事務所で机に向かった。
ここで計算したお金は当たり前だけどわたしものになるわけでもない、だからこそいつもはいやいや向き合っているだけなのに、今はなにか、そういうものに没頭したかったのだ。わたしの心となんの関係もないものと。

……だけどそんな逃避で手をつけた仕事は、期待したよりも時間を食ってはくれなかった。計算なんて得意じゃないし、いつもなら必ず締め切りをすぎてしまってフーゴに怒られながら作業するくらいなのに。
街での集金と合わせて提出する予定の完成してしまった帳簿を睨んでから、ちらりと時計に目をやる。帰りたくないから真夜中までかかってしまえとさえ思っていたけれど、失恋した相手からの逃避には十分な時間はつぶすことができた。ようやく、おとなしく帰ることにして立ち上がる。
ソファの上に置かれたままの、チョコレートが詰まっていたカラフルなハート型のパッケージが目に入る。
家でなにかに使うつもりだ、なんて言ったはいいものの、結局何も思い浮かばない。ここで捨てていったってよかったはずだけど、箱目当てでチョコレートを買ったと言ってしまった以上それも難しそうだ。
中身が失われたからっぽのハートの箱は、まるで何かの死骸のようだった。

その死骸を拾い上げて部屋を出る。のろのろとした動作でドアを開き、鍵をしめようとして――

「ナマエ」

かけられるはずのない声に一瞬息が止まって、反射で姿勢を低くし臨戦対戦を取りながらバッと後ろを振り返る。その勢いで、手からこぼれた鍵が地面に落ちてかちゃんと音を立てた。

「……すまない、驚かせたな」
わたしの手から吹っ飛んでいったものを目の前で屈んで拾い上げるのは、白いスーツの男だった。
「ブチャ、ラティ……」
……誰より、一番こうして会いたくなかったからわざわざあんな仕事なんか片付けたりしたっていうのに、何故ここに?
しかしなんとか動揺を悟られないよう微笑んでみせれば、ブチャラティの表情も柔らかいものになる。仕事が残ってた? 忘れ物でもした? なんてことを最初は考えたけれど、その笑顔を一目みてわかってしまう。……これは仕事の上司が、同じチームの人間に向ける顔じゃあない。仕事のあとに、わたしと一緒に過ごしてくれるときの顔だ。目の前の事務所のドア一枚挟んでこんな顔できるんだから、もう、ほんと、あんたってひとは! 思わずそんなふうに心の中で叫ぶくらいには、その表情は優しい。

「今帰りか?」
「ぇあ、あ、うーん、……そう、終わったから」
自分の声は半分裏返っていて、わかりやすく動揺が漏れ出ていた。こんなのギャング失格だ、でもブチャラティはそれを怪訝に思うことなく続けることにしたようだ。
「そうか。途中まで、一緒に帰っても?」
「もちろん、いい、けど……」

……いいけど、ブチャラティがみんなと一緒にここを出ていってからどれくらい経った? 先に帰ったはずなのに、わざわざ戻ってきたってこと? 
疑問があたまに浮かびまくっている中、ふと、ある可能性にたどり着いてしまう。

――もしかしたら、うまくいかなかったのかな。その人へのプレゼント、が。

ブチャラティが花屋で真剣な様子で選んだ花束が、相手に受け取られずに突き返されるシーンを思い浮かべてしまってから、つまりは彼からの花束を断れる人間がこの世にいるらしいという事実に驚く。ブチャラティに手渡された花束を断るなんて、他に恋人がいるとか、それくらいしか理由は思いつかない……そう考えてから、ギャングから渡される花束の重さ、普段忘れてしまうそんな事実に思い当って、顔が歪みそうになるのをぐっとこらえる。ブチャラティって人は、ギャングに誰より向いているけど、同じくらい誰よりもギャングに向いていないと思う。
そして彼の花束が受け取られなかった光景を想像すると、……自分でも驚くくらい、傷ついていた。全部自分の勝手な想像にすぎないのに、もしかしたらブチャラティが悲しい目にあったのかもしれないと思うだけで苦しい。
自分が感じた失恋の痛みより何より、ブチャラティに悲しいことが起きたのかもしれないという事実の方が、よほどわたしにとっては痛いのだ。

「……食事は? もう済んだのか」
「え? あ、いや、まだ……食べてない」

ぼんやりとひとりで考え込んでいたらそんなことを言われてハッとなる。
……バレンタインなんて、どこのレストランも恋人たちでいっぱいになるような日にそんなこと聞くの、本当、罪な男だと思う。浮かんだ言葉をまた頭から振り払おうとしていると、ブチャラティはごく自然に、いつもの仕事帰りと何ら変わらない様子で言った。

「なあ、お前さえよければ一緒にメシでも食っていかないか」
「……こんな日に? ディナー? どこも空いてないんじゃ……まあバールとかならバレンタインっていっても心配することないか」
でも、……ねえブチャラティ、混雑はバールなら気にならないかもしれないけれど、バレンタインにディナーに誘うって行為は、……勘違いされるよ。そう言ってやりたくなるけれど、わたしはずるい人間だから言ってやらない。

しかもそれが、きっとブチャラティは伝える気がないとしても、失恋した彼がひとりでいたくないから、そのための「誰か」として選ばれただけの食事だとわかっている。
でもわたしはそれでいいのだ。ブチャラティがすべてをわたしに話す必要なんてないし、もし少しでもそのつらさを散らすための手伝いができるんだったら、……そうしたいと思ったときにわたしを思い浮かべてくれたのだとしたら。
ねえ、それって恋愛とは関係なくても、チームの中でも一番の仲良しって思い込んでいいってこと? こんな状況だっていうのに、胸に淡い痛みを覚えながらも、ほの暗い喜びを感じてしまうのも事実だった。

「いや、バールでもない」
「……じゃ、どこ? テイクアウト? なら角の中華かピザがいいけど……」
「……ついて来てくれればわかるさ」

はっきり言わないのブチャラティに連れられるがまま一緒に歩いていく。ふたりの間にはいつも以上に言葉が少ない。いつもならわたしがブチャラティと話すのが楽しくて、いろんな話をしたくてずっと自分から口を開いているのだと気づく。わたしがうまく話せない今すごく静かにふたりで歩いているだけだけど、そこにあるのは居心地の悪い沈黙ではなかった。

――そうして歩いているうちに、だんだんと風景が「綺麗」になっていくのに気づく。いつも仕事のあとになだれ込むような路地のバールや下町のトラットリアが並ぶようなところを越えて、観光客だって多い、海の近くの小綺麗な通りに出たあたりでわたしはもう怪訝そうな表情を隠せなくなった。妙な顔をしたわたしを見て、ブチャラティは静かに笑う。

そうして、混乱したままのわたしを連れて彼が最終的に触れた扉は、夜の海とネアポリスが見渡せるリストランテのロビーに続く白く立派なドアだった。
こんなとこ、仲間たちとくることも、ふたりで来ることももちろんない。……普段でさえきっと簡単に入れるような店じゃあないし、バレンタインの夜なんてしばらく前に予約でもしないといけないだろうに、……「なぜ」がずっと頭に浮かんでしまって、怪訝そうな表情はもう取り繕うこともできないくらいにわたしの顔に貼り付いていた。

綺麗に着飾った恋人たちばかりがいる店内では、仕事の後で化粧も剥がれかけているはずの、あとは帰るだけのところを捕まってここまで来てしまったわたしだけが浮いているような気持ちになる。頭の中でぐるぐると渦巻くのは、もしかしたらこの店は『ばらの花束を断った誰か』と来るはずだった店かもしれない、という予想だった。せっかくの予約がもったいないからわたしをなんとなく連れてきたのかも。
そんなことを考えてると、自分で自分の心にナイフを押し込むような気持ちになる。悲しみに、呼吸が浅くなる。

だけど、……そう思うと同時に、そこまで無神経なことをする人だろうか、なんて思ってしまうのも事実だった。ブチャラティのことをよく知っているからこそ、長く共に過ごしたからこそ、……彼の優しさのかたちを、都合よく解釈してしまいそうな自分が嫌だった。期待するな、冷静になれ。

カメリエーレにテーブルに案内されて、半分頭の中はパニックのまま、なんだかカチコチになってるわたしを見てブチャラティはニヤッと笑って言った。

「……なあ、いつになったらその警戒を解いてくれるんだ?」
「だ、ってさあ……こんなところ……」
「あいつらにチョコレートなんかふるまっちまったのを目の前で見たのに、こうしてバレンタインの夜に食事に誘った勇気は認めてくれよ」
「……」
「……まあ、だまし討ちしたのは事実だが」

そう言ってブチャラティは少しだけ寂しそうに眉を下げて笑う。肋骨の間、心臓のあたりがきゅうっと締め付けられるような心地になる。――今の、何それ? なんで、そんなの、まるで――。

「……こんなとこ、本当は誰と来たかったの?」

わたしじゃあ、ないでしょう。

なにかを振り払うように思わずぽつりとこぼれたその一言は、自分も、ブチャラティも、どちらも傷つける一言だってわかっていた。それでも止めることができなかったのだ。
自らにとって都合のいいように考える自分への苛立ちから出た言葉で傷つけるなら自分だけにすればいいのに、ブチャラティまで切りつける必要なんてなかったのに、……クソ、なんて醜い。
その言葉を聞いたブチャラティは目を一瞬軽く見開いて、それから眉を寄せて目を細める。
でもその表情は、わたしの言葉に傷ついた顔には見えなかった。癇癪を言う子供を仕方ないなって見つめるみたいな、すべてわかってる、とでも言いたげな笑顔。

「……オレは、お前以外には思い付かなかったが、」
「…………う、うそだ」
「そんなこと言われるくらいに脈がないとは思えなかったんだがな」
「っ……そ、れは、さあ……」

だって、こんなの都合がよすぎるのだ、わたしの妄想だって言われたほうがまだ納得できる。脈があるかもってわたしだって今朝まで本気で思ってたのは事実だけど、少し頭を冷やしてしまえばあのブチャラティ相手に何を言うんだ、ただの部下が! そんな風に思えてしかたがないくらいだったのに。

ぽつりぽつりと途切れかけの会話を交わすわたしたちのもとに、メニューを持ったカメリエーレがやって来る。彼からワインリスト受け取って、ようやく息ができた。

コースを予約してある、ブチャラティがなんでもないみたいに言ったその言葉に、何も言えずにうなずくしかできない。ずっとニコニコしたままのカメリエーレに勧められるままワインを注文してしまえば、あまりにも手際が良い彼の手によってあっという間にグラスに注がれて、またふたりきりの時間がやってくる。ブチャラティの方が見られない。テーブルの端に置かれたキャンドルを黙ったままぼんやりと見つめていると、

「……ナマエ」

ブチャラティの低く柔らかな声が、わたしの耳をうつ。
こうして呼ばれるだけで嬉しくなってしまうのも事実だ。ああわたし犬じゃなくてよかった、もしわたしが犬なら顔は緊張してるくせに呼ばれたうれしさでしっぽは勢いよく振り回してる、こんなに心はぐちゃぐちゃなのに、なんてこの場にそぐわないことがとりとめもなく思い浮かぶ。

呼ばれる声を無視なんかできない、卑屈なやり方で顔を上げて、片目に少しかかる髪越しに彼を見つめる。殻に閉じこもるようなやり方をするわたしを見て、ブチャラティはまた優しく笑うのだ。

「……嫌だったら、振り払ってくれ」

そうささやいてから、ブチャラティはこちらに手を伸ばして、テーブルにのったままだったわたしの手を包むようにそっと握った。

(……冷たい……)
余裕たっぷりに見える様子でわたしに笑いかけて、完璧な仕草で手を掴んだと思ったのに、……今わたしの手をそっと握ったブチャラティの手はひどく冷たかった。
あのブチャラティが、緊張、しているのだ。
ロマンチックにしたいから、思いがあふれたから、ただそれだけの理由でブチャラティがわたしの手を握ったわけじゃあないのだとわかる。
この手の冷たさを伝えることで、自分も同じだと言いたかったのかもしれない。

急に彼への愛おしさがあふれてしまう、そして自分が自らの感情しか見えなくて、ブチャラティの思いをぜんぜん考えることができていなかったことにようやく気づく。

今の彼の目は真剣そのものだった。
その鋭い瞳に見つめられて息をのんだ私をみて、ブチャラティはふっと眉間を緩ませると笑って言った。取って食われるとでも思ってるみてえな顔してるぞ、そう面白がってささやく声に、わたしが返せたのはたどたどしい「大丈夫」という一言だけだった。冷静になると何がなんだか、食べられたって平気ってこと?
だけどそれを聞いたブチャラティはまた苦笑して、それからさらに表情を柔らかくゆるませる。

「このまま、お前とは友情と恋愛感情のあわいにいるのも、悪くないと思っていたんだ。……いや、……正直言えば、ナマエを同じチームの仲間とは違う形で縛ったりしたら、お前はオレから逃げてしまうんじゃないかと不安だった」

つぶやきながら、ブチャラティはその目を握り合う手のほうに向ける。そうして少し伏せられた青い瞳にキャンドルの光が入って揺らめくと、どこか泣きそうな顔にも見えてしまう。……そんな顔しないでよ、ブチャラティ、頼むから。
きゅっ、と彼の手に力が込められる。ずっとブチャラティのそばにいて、立ち上がらせるとか腕相撲するとか、そういう必要にかられて触れたことはあっても、こうしてやわらかく包み込まれるように手を握られるのははじめてだった。同じ部屋で休日を過ごすときにうっかり触れてしまうことがあっても、なんでもないすまないって顔するのがいつもだった。
指先からたどって耳の先まで、しびれるような熱が走る。きっと赤くなっている耳の端を、ブチャラティは気づいているのかもしれない。

「……だが、我慢しきれなくなったんだ」

その言葉と共に、握られた手とキャンドル越しに真剣な瞳が再びこちらを射抜く。その瞳に絡めとられるようだった。
もうわたしは言葉もなく、ブチャラティを見つめることしかできない。

「同僚か上司という枠ではなくて、オレを、どうかそれ以上の近くに置いてくれ」
「……ブチャラティ、」
「きみのそばにいたい、……今より、もっと近くに」

ブチャラティの言葉は、私をまっすぐ射抜く熱っぽい饒舌な瞳には似合わないくらい、彼らしくもなく朴訥な響きで、胸がきゅっと苦しくなってしまう。
ああ、かわいいひとだ、わたしの気持ちなんかきっとブチャラティにダダ漏れもいいところなのに、それでも強引になんか出来なくて、優しくひとつひとつを確認しながら近づいてくるようなその仕草が愛おしいのだ。
こんな綺麗な店、普段でさえ混みそうなお店だ。しかもバレンタインのディナーなんだからきっとわざわざ電話をして予約を取ったのだ、あのブチャラティが。……わたしの、ために。

「…………オレは、お前が好きなんだ」

握られた手がそっと引かれたと思えば、彼はそこに顔を寄せて――指先に、彼のくちびるが触れた。指の背で感じたそのくちびるは信じられないくらいやわらかくて、口付けられたところから、あまりに熱い痺れが走る。伏せられた彼のまつげの長さが、目に焼き付くようだった。
そしてブチャラティは伏せたまぶたを持ち上げる。テーブルに置かれたキャンドルの光をあつめて、今度はまっすぐこちらを見つめて光る青の目に射抜かれれば、呼吸の仕方だって忘れそうで――。
目の前の男があまりにもきれいだから息が止まった? いやきっと違う、手の甲にキスを落としながらのまばたきと共にあらわれた彼の瞳が、あまりに濃くて熱い思いをたたえているのがありありとわかってしまうくらいだったから息が止まったのだ。

その目はじっとこちらを見据えたまま、わたしの返事を待っていた。口の中はもうカラカラだ、必死に何か言おうとして、……でも結局、何も言えないままゆっくりとうなずいて見せることしかできなかった。

でも、それだけでブチャラティには十分だったようだ。
真剣な表情で、こちらが焼け落ちてしまいそうなくらいの熱でもってわたしを見つめていた顔が、ふわりと嬉しそうな笑顔に変わったから。

その顔のまま、ブチャラティはわたしの手をにぎる方の手のひらにぎゅっと力を込める。そしてもう片方の手で自分の顔の半分を覆い隠しながら、囁き声でつぶやく。

「……ダメだ」
「どうしたの?」
「……嬉しくて、……みっともねぇ顔になってそうだ」
見せらんねぇ、ぽつりとそう言うのが……あまりにも、愛おしくて!
さっき、ブチャラティは他の子とのデートのためにここに来るつもりだったんだと思ったときに感じたものとは違う感覚で、胸がきゅうと締め付けられる。ブチャラティがこんなにかわいい人だとは知らなかった。
「え……み、見たい」
「いーや、ダメだ。……今日はくらいはかっこつけてえんだよ」
「……見せてよ、どんな顔してたってかっこいいくせに」
ブチャラティはそんなことを言われるとは思わなかったのか、一瞬動きを止める。そして一呼吸置いてから顔を隠していた手をどけるけれど、その顔は眉間がぎゅっと寄った険しい表情を何とか作ろうとしていた。そうでもしないとすぐ顔が緩むからって言うブチャラティに思わず軽く声をあげて笑ってしまうと、「ようやく笑ったな、」そう言って今度こそ、ブチャラティもまたやわらかに笑った顔を見せてくれる。

思い返すと照れくさいようなその一部始終がきっちり終わってから、いつの間にかそばに控えていたカメリエーレの手が控えめに伸びてきてテーブルの上のセッティングをはじめる。
カメリエーレなんてのはリストランテ中の何でも見ていて知っていて、そしてそれを心にのみ秘めておくのだから凄い仕事だと改めて思う。
てきぱきとした彼の動作を見つめながら、きれいに飾り付けられた生ハムが花のかたちに見えるような前菜がのった皿が目の前のテーブルにのせられた今と五分前で、ブチャラティと違った関係がはじまったことがまだ信じられない。
料理が美味しいことはかろうじてわかるけれど、それでもわたしはあまり食事に集中できないまま、嬉しそうにこちらを見てふと目元をゆるませるブチャラティを見つめては照れて視線を逸らしたり、空元気で明るくふるまったり、いつも自分がブチャラティの前でどんな顔をしてたか半分わからなくなりながらなんとか食事を終えたのだった。

(でも……結局、あの花屋では何を買ってたんだろう)
店から出て、アルコールが入ったせいで熱を持った頬を夜風に心地よく撫でられながら、ふと思う。
キャンドルが揺らめく中、手を握られながら指先にキスなんてされてしまってもう何より幸福なはずなのに、あの花屋で見かけた背中を忘れることだけはできない。……聞かなければ、ずっと棘のようにその光景が頭にはりついてはがれないのは確実だった。本当にわたしなんかでいいの、その一言を心におさめておくのは、このままでは難しい。

「ね、ブチャラティ……」
「あとは……これを」

わたしの問いかけに、ブチャラティのつぶやきのような声が重なる。石畳が街灯に照らされて光る夜の街の中で、こちらに背を向けたブチャラティの方から耳慣れた『ジッパー』の開閉音がした次の瞬間、振り返って見せた彼の腕の中にはばらの花束が抱えられていた。
「……これ……」
濃い紅の花束越しに見つめられながら、とっさに思う。こんなにばらが似合う人もなかなかいない。ブチャラティという人間は本当、腹が立つくらい絵になる男だった。それでもどこか、今のブチャラティの表情にはプレゼントを開けたくてうずうずしてる子供にも似た、明るい緊張のようなものが漂っている。
「……受け取ってくれるか?」
しみじみばらとブチャラティの似合いぶりに感じ入っていたせいで、彼の言葉が、一瞬飲み込めなくて固まってから、ようやく理解する。
(……あれ……わたしに、だったんだ)
……花なんか誰からもらったこともない、自分でも一輪だって飾ったこともない。ずっと花をもらうことなんかからは無縁で生きてきた。
思いを伝えるためだけに手渡された花が、こんなに嬉しくさせてくれるなんて知らなかった。
この一瞬で目の上が熱くなるように感じたのは、アルコールのせいだけじゃない。
今日一日ひとりでぐるぐる考え込んでいた分、色々とせき止めていたものが溢れそうになってしまって、わたしは口元を手で抑えながらそっとうつむく。
「……ナマエ、……すまない、無理をさせたか? あんな場所で思いを伝えられたら、逃げ場がねえも同然だ、」
わたしが声も出せなくなったのを、よくない方に取ったのかブチャラティが切羽詰まった様子の声を出してくるから、慌てて目元をこすってから顔を上げる。
「違う! よろこんで受け取るよ! ……だけど、ああっもう、……昼とか、もう、ずっと、何でもない顔してこんな、……もう!」
柄にもなく、涼しい顔してここまで隠し通して、レストランもばらの花束もわたしのためにひとりで準備していた彼が愛おしくて、うまく言葉が出てこない。
「……ずるい男だと言ってくれていい、いろいろと準備したのも結局は、お前の逃げ道を必死につぶそうとしてたのと同じことだ」
「ずるいのはこっちだから、そんなこと言わないで」

わたしの言葉に少し不思議そうな顔をしたブチャラティから手渡された、ばらの花束を片手に抱えて彼の隣を歩く。視界を端から埋める赤に顔を近づけて柔らかな香りを吸い込んでいると、そっと横から手が伸びてきて、……はじめて、夜の街で彼と手をつないで歩く。
ブチャラティと過ごすネアポリスの夜、普段ならば闇にまぎれて〝仕事〟に向かうか、あるいは仕事を終えて泥のように疲れ果てながらアルコールを求めて歩くようなこの夜が、こんなに居心地が場所に変わるなんて思ってもみなかった。

その大きな手のひらは指先までしっかりと熱くて、さっきテーブルで感じた冷たさが嘘みたいだった。それがまた、すごく嬉しい。
指を絡めるように握り返してからわたしは、ブチャラティの手がわたしの手よりもずっと分厚くて、そして柔らかで優しいことをはじめて知ったのだった。

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