21.一緒に踊る

身体が重い。ひとりのベッドでむかえる朝はいつだってそうだった。

どんなに爽やかな光が寝室に差し込んでいたって、重い手足を持ち上げるのはかんたんなことじゃあない。起きたところでどうせひとりだと思えば余計に、うまく開かないまぶたと格闘する気にもなれずベッドの中で唸るくらいしかできない。血液が身体にめぐりはじめるまでが遅い私の身体は、いつも重力に負けていた。

何度かベッドの中で朝に抵抗するように寝返りをうってから大きくため息をつく。ようやく降参することにして、ベッドから這い出るようにのろのろとキッチンへと向かった。
とりあえずコーヒー、……ビスケットかなんかあるんだっけか……。食欲がなくても、何かを口に入れなければまともに動くことすら難しい。

……ふと、キッチンの方から、ぼそぼそと遠く人の声とかすかな音楽が聞こえているのに気づく。夜からラジオを切り忘れていたみたいだ。電池がなくなっちゃうな……そんなことをぼんやり考えていたら、

「おはよう。勝手にキッチン借りてるぞ」

まぶしさに目をほとんど開けられないままずるずる足を進めてキッチンまでたどり着いたところで、聞こえるはずのないその声を聞いてあれだけ重かったまぶたは一瞬で持ち上がった。

私の部屋の狭いキッチンに、身支度を全て整えて、身体はガスコンロの方に向けたまま爽やかな笑顔だけをこちらに向けるブローノが立っていた。
なんだかそれは、あんまりきれいで、あまりにも私が欲しいと思ってしまった光景で、もはや現実感が希薄に感じられるほどだった。

「……あれ…? 昨日うちに泊まった……んだっけ……?」
そんなこと言いながらもひとりで眠ったのは確かなはずだとわかっていた、だからこそこんなに起きるのが億劫で、起き上がるという行為だけで自分の身体との格闘だったのだから。

「オイオイ、あんなに熱い夜を過ごしたっていうのに……つれないな」
「え!!!!!」
「……冗談だ、そんなに焦るな」
低く色気に満ちた声を突然作って私をひどく動揺させてから、彼は少し眉を下げて笑った。
「いつも朝はキツそうだから、ちょっとでも元気になってもらおうと思ってな」

ブローノは、ダイニングのテーブルに置かれていた紙袋から白い包みを取り出した。

「あ、パニーニだ……」
「角のバールがもう開いてたんだ」
「わあ……ありがとう、嬉しい」

手渡された包みはまだ温かい。それに、ブローノはコンロの上、小さな鍋で何かを混ぜている。それを見つめるわたしの視線に応えるように彼は言う。

「スープも買ったんだ、温めなおすから待ってろ」
「ありがと……」
「どうだ? ギャングのくせにずいぶんいじらしい事してるだろ」

自分からふざけたようにそう言って笑ってみせるブローノが、ものすごくいとおしく思えて胸のあたりがきゅうっと苦しくなる。いじらしい、なんてものじゃない。
朝の身体はまるで他人の身体みたいに重くて、いつまでも起きられない自分がひどくだらしないダメな人間に思えてしまって仕方なかったし、そんな自分が好きじゃあなかった。
こんなダメな自分はブローノとは釣り合わないと思って打ちひしがれたりすることを、彼は知っているのだろうか。
私自身そんなことを思うくらいなのに彼は、私をただだらしない人間だと切り捨てるのではなくて、こうしてわかろうと、助けになろうとしてくれるのだ。それがどれだけ嬉しいことか。

こんな朝早くに私の部屋に来るって事はきっと、昨日の彼は夜中の仕事だったんだろう。きっとその帰り道でわざわざ寄ってくれたのだ。ものすごく甘やかされている、そう気づくと、まだ眠気が覚めきらない顔が思わず緩む。
夜の間きちんとベッドにいたはずの私よりも、一晩中起きていたはずのブローノの方がシャキッとしていて、朝日を浴びた彼は全身がきらきらと光っているように見えた。

そんなのを目の当たりにしたら我慢ができなくなって、でも彼は火を使っているから気を付けながら、そっとブローノに近づいて軽く背伸びをしてから彼の頬に音を立ててキスをした。こっちが返せないタイミングでするなんてずるいぞ、そんなことを言うブローノに少し笑ってみせてから、コーヒーくらいは私が準備しようとコンロ脇の戸棚に手を伸ばす。

ネアポリスの道路工事は永遠に終わらないのか、みたいなトピックについて喧嘩みたいな議論のやり合いを聞かせていたはずのラジオから今流れ出したのは、最近何度も耳にする、ゆったりとしたテンポの女性歌手の柔らかな歌声だった。
特に好きでもないのだけど、何度か聞いているうちに覚えてしまった。
ラジオに合わせてふんふん鼻歌を歌いながら、いつも使うマキネッタよりも少しだけ大きい、二杯分を抽出できるマキネッタを戸棚から引っ張り出す。
これはブローノが来てくれた時にだけ使うのだ、そう決めているものを実際に使う機会が訪れるたび、静かに嬉しい。

ダイニングテーブルの上、トマトとチーズの香りを漂わせるパニーニの隣でコーヒー粉が入った缶を取り出して、そっとこぼさないようにマキネッタに粉を二人分を詰めていく。ああ、これこそが完璧な朝の香りだ。

「ナマエ、それを……」

そう言いながら、ふとブローノが私に向かって手を差し出してきた。まだ頭の働きが普段の半分くらいの私は何も考えず、こちらに伸ばされた手のひらの上に、求められるがまま自分の手のひらを重ねた。

自分の手のひらの上に私の手をのせられたブローノは、一緒に過ごしていてもあまり見かけることのない、キョトンとした顔で私を見返してくる。そんな顔された理由がわからなくて、同じような顔をして見返すしかない。

「……あー、そこの皿を取ってくれ、というつもりだったんだが……」
「え……うわっごめん! 何してんだろ……」

スープ皿の代わりに自分の手のひらをのせてしまった羞恥で急いでひっこめた私の手を、ブローノの大きな手のひらは簡単に追いかけて捕まえた。
気づけばもう片方の手もブローノの手に握られていて、私と彼は、キッチンで両手を握りあって見つめあったまま立ち尽くしている。少し見上げると、ブローノの澄んだ湖畔のような瞳がすぐ近くでこちらをじっと見つめていた。きれいな青だ。

彼は優しく微笑んでから、ラジオから流れてくる曲に合わせて低いハミングをはじめる。それから、コンロから少し離れたところ、ダイニングテーブルの反対側まで私を誘導していく。

それから、その場でラジオの曲に合わせてゆっくりと身体を揺らしはじめる。その揺れは徐々に私も巻き込んで、柔らかなスローダンスにかわっていく。まあ、ダンスと呼ぶには私の方は随分お粗末で、本当にただ手をつないで身体を揺らすだけ。でもそれだけで十分楽しい。私の手を握る彼の手のひらは温かくて、握られたそこからブローノの熱を身体に分け与えられるようだった。
ラジオから聞こえてくる歌声より一オクターブ低い彼のハミングは、私のお腹にまでよく響く。それを聞いているだけで、心地よい。
狭いキッチンで、ラジオから流れ出した曲が終わるまでのわずかな時間。ブローノは私を見つめながら、優しく歌い、静かに踊る。自然と私の方も彼の声をなぞるように、小さくくちびるから歌がこぼれだしていた。

身体が少しずつ軽くなっていく。灰色のような私の朝が色づいていく。

曲が終わったころに、ブローノはそっと手を離す。今度は間違えずにスープ皿を掴んで彼に手渡した。

まだ温かいパニーニと、温め直してくれたスープに、エスプレッソ。淡い湯気と朝のきれいな光の中で彼が目の前にいるというのが不思議で、そして何よりも嬉しい。なぜならそれは彼の親切そのものがかたちづくった風景だったから。

スープを口に運ぶブローノを見つめながらふと思う。……夜の仕事の帰りなら、このまま、私の部屋で寝ていってくれたらいいのに。私が仕事に行かなきゃいけない間、ベッドに香りを残して欲しいのに。だが彼はこうして私の世話をして、ただそれだけで、礼儀正しく自分の家に帰ってしまうのだろう。

そんなことを考えている私の顔はずいぶん物欲しそうに見えたのか、ブローノはもっと食えといってスープのおかわりを私のお皿に注いでくれた。