映画館が一番儲かってたのっていつ? もう半日窓口に座ってるけどあんまり暇すぎて、ここの館長であるはずのおじいちゃんに思わず聞いてしまったら、
「……うちはいつだってこんなもんだよ」
そんな答えが返ってきた。
こんなもんって言ったって、今なんてもうびっくりするくらいお客さんは来ないのに。ブロックバスター映画をたくさんのスクリーンで流し続ける大きな映画館にお客さんをとられながら、たった一つのスクリーンで、でもきちんと一日中律儀に作品だって入れ替えて流してるけど、休日だって人の入りはまばらなのだ。これが〝いつだって〟? それってずっとこうだったってこと? ……なかなか恐ろしい話だ。
……だけど、それでもうちが潰れない理由はきっと彼がいるからだ。
その人はふらりとあらわれて、おじいちゃんはいるかと聞く。いたらいくらか話をしていくし、いなければ静かにただ映画を見て帰る。
やってることは至って普通の客だけど、きっとこの町で商売をしていれば彼のことを知らない人間なんていない。礼儀正しく現れて、礼儀正しく去って行く彼。おじいちゃんとあの人のあいだでどんなやりとりがあるかは具体的にはわからないのだけど、おじいちゃんの態度を見てれば借りは小さくないのだろう。
おじいちゃんに言われて彼のためだけに特別な上映回をつくることだってあった。家族経営の小さな映画館だから、適当にスケジュールには載せない最後の回を足してやればいいだけなのだけど、たったそれだけのことに彼はいつだって大袈裟なくらい感謝してみせた。
むしろ感謝するべきはこちらなのだろうけど。
だけどあの日はそういうのじゃなくて、あの人は事前の連絡なしでラストの上映回に滑り込んできた。
「……1枚頼む、……まだ空いてるか?」
「うちが空いてない時があると思う?」
カウンターの向こうの切りそろえられた前髪を見上げて言う。緑の紙に黒インクで印刷されただけの、上映時間も記載のないチケットを窓口の小さな穴から差し出すと、彼は大事そうにそれをポケットに仕舞い込む。それから律儀なお礼の言葉とともに〝大人1人〟ぴったりの額が、きれいに骨が浮き出た手のひらから手渡された。
「……一番好きな作品だから、どうにか見たくて急いだんだ」
「そうなの? ちょっと前の映画だけど」
彼はあいまいに笑って見せてから、「……だから好きなのかもしれないな」、そう誰に聞かせるつもりもないみたいな様子で呟いた。
普段なら最後の回の上映が始まればレジを閉めたり掃除をしたり片付けをはじめるものだけど、彼の言い方がなんだか気になってしまう。せっかくだし見てみるのも悪くないという気持ちになって、わたしは映画館入り口のドアに鍵を閉めて窓口のシャッターを下ろしてしまうと、もう暗くなっている劇場の中、一番後ろの席の通路側にそおっと滑り込む。
すると、これだけ空いてるのにわざわざ一番後ろの列、真ん中あたりに一人ポツンと座ってる人がいるのに気づく。ちらりと目をやると、スクリーンから反射する白い光に照らされていたのは、さっき見たばかりの切りそろえられた黒髪と綺麗な横顔だった。
好きな映画だったら、もう少し前の方が見やすいのに。もったいないな、そんなことをふと思いながら、わたしはスクリーンに目を向ける。
描かれるのは美しい風景だ。海が見渡せる崖、生い茂る草に囲まれた平家に住む詩人。もうなくなってしまった、(もっと田舎ならあるのかも、ネアポリスからほとんど出たことはないから実際のところはわからない)昔の風景。息が詰まる小さな世界と、そこから心を逃がしてくれるような特別な出会いと、夢見た世界との隔たり。淡々と描かれるそれは、ネアポリスのはしっこにあるこの映画館から半径せいぜい1kmで生きる今の自分と重なるようで、わたしの喉を優しくしめつける。これが、あの人が急いで駆けつけるくらい好きな映画なのか。
途中で抜け出すつもりだったわたしは気づけばエンドロールが始まるその時まで席を立つことができなかった。愛おしさすらあるひとの身勝手さが少しずつ持ち寄られた結果の物語に、引き込まれてしまったのだ。
エンドロールが終わってしまう前にドアを開けたりしないといけない、自分が映画を見たいがために表の入り口も閉めてきてしまったことを思い出してそろそろと立ち上がろうとしたら、ふと彼の横顔が目に入る。
あのひとは、……静かに泣いていた。
(……綺麗だ)
思わずそんなことを心のなかで呟いてしまう。彼がギャングだってことは知っていた。初めて聞いた時なんか、言われてすぐ納得してしまったのだ。穏やかなのに、目や立ち振る舞いに全然油断がない人だと思っていた。
でもいま、泣いているのだ。この人は。
こんな綺麗に涙を流す男の人なんてはじめて見てしまった。
なんとか驚きと動揺を隠しながら、わたしはそっと出口の扉に手をついた。
この映画館から出て行く人たちはみんなひどく静かだ。ひとりかふたりでやってきて、映画を噛み締めるように黙って帰って行く。今日も、少ないながらもやって来たお客さんたちは静かに劇場を後にする。
その中に、あの人の姿はいつまでたってもなかった。気づかないうちに帰ったのかと思って、掃除用具を持ちながら場内に飛び込むと、……彼はさっきと同じ一番後ろの真ん中の席でぼんやりとしていた。
「あの、……大丈夫?」
「……ああ。すまない、邪魔だよな」
「邪魔、ってことはないけど……立てる?」
映画や芝居を見た後に、魂が物語に引きずられてしまったかのように身体がひどく重くなって、現実の世界に戻るのを拒むことがあるのを知っていた。そして、……もしかしたら彼が〝そうなってしまう〟側の人間なのだとしたら、わたしはそう思うとどこか嬉しくなってしまったのだ。
彼は少しだけ考え込むような顔をして「……掃除の間だけ、邪魔でなければここにいてもいいか?」と囁いた。
「……いくらでも」
わたしは彼から遠いところから掃除を始めかけて、……考え直してその場に掃除用具を置いて事務所に戻る。
「……だいぶ煮詰まった味がするかもしれないけど」
赤いシートに腰掛けたままもう何も映していないスクリーンをぼんやりと眺めている彼に、お客さんに出すようなものじゃないとわかっていながら、事務所のコーヒーメーカーで保温されっぱなしだったコーヒーの入ったマグを差し出した。
一瞬驚いたような顔をしてから、彼は小さくお礼を言ってそれを受け取った。
どうして、あるいはこの作品のどこがあなたをこんな風に椅子に縛り付けてしまったのか、そう聞いてみたい気持ちはあったけれど、それを聞くのは彼の心のなかをずかずかと踏み荒すことに他ならない。
私は黙って彼から離れて、放置していた掃除用具を掴む。本当はたくさん聞いてみたいことも、話したいこともたくさんあったけれど、……私は彼の「一番好きな映画」を知っている、そしてその作品に引きずり出された涙も知っている、それで十分だった。
「……なあ、」
しばらくしてから、もくもくと掃除をしていたわたしの真後ろで声が聞こえて思わず飛び上がる。
「……今度、君にコーヒーを奢らせてくれ」
空のマグカップを持った彼がそこにいた。彼の方からそんなこと言われるとは思わなくて、わたしはひったくるように空のマグを受け取ってから慌てていう。
「あんな焦げた味のコーヒーのお礼なんていらないって! むしろあんなのしかなくて申し訳ない……」
「きっと、あれは今まで飲んだ中で一番のコーヒーだったよ」
含みを持たせた言い方で、でも柔らかい表情で「だから、頼む」なんて続けられれば断ることなんかできなかった。黙ったまま、ゆっくりと頷いてみせる。
だってわたしも、あなたと話がしてみたかったのだから。