Alba

雨のネアポリスは、夜になると美しく変貌する。

今日は夕方から徐々に雲行きがあやしくなり、夜には霧のような細かい雨が降り始めた。
濡れた街の昼間はただ陰鬱な灰色に塗り込められてしまうだけだけど、夜になると街灯の光を丁寧に反射しだすのだ。暗いところはとことん暗いこの街では、雨になって余計に際立つ光と濃い闇のコントラストが美しいのだ。
ただ、たとえそれがどんなに美しくたって、雨なんか降ればトラットリアの客足はいつもより鈍くなる。きょうのわたしは給仕係として店にいたけれど、普段ディナータイムで店中を駆け回っているのが嘘のように、今はぼんやり店の隅で突っ立って、そしてまばらに入ったお客さんたちが空けた皿をさりげなく探すだけになっていた。

「きょうはもう帰りな、……迎えもきてるんだから」

オーナーにそう言われて、わたしはありがたくその言葉に甘えることにする。そうだ、きょうは、普段なら私より帰りが遅いのが常なブローノが、何があったのか突然迎えにと店にやって来たのだ。
腹が空いているわけじゃない、そう言った彼は、半分客じゃない自分が店の邪魔にはならないようにと少し濡れてしまいそうなテラスの席でエスプレッソのカップを前にしながら、雨の夜の風景を見つめている。
雨で濡れ、街灯の光でひかる石畳の風景と、ときたまエスプレッソの小さなカップを口に運ぶ背筋の伸びた彼の姿。その夜の雨の風景は、それだけでまるでポスターになりそうなくらいさまになっていた。それが美しく好ましくいつまで見ていたって飽きないのは確かでも、これ以上待たせたくなくて大急ぎで支度をして彼のテーブルへと向かう。

「お待たせしましたっ……」
「もういいのか? ずいぶん早かったな」
言ってから、ふと彼は自然な仕草で私の頭に手を伸ばす。急ぎすぎたせいで変な方向に跳ねていたのか、ブローノは柔らかな手つきで髪を整えてくれた。それが嬉しくて、少しこそばゆい。
「雨だし、今日はもういいって……オーナーが」
こっちを見送るように店の入り口に立っていたオーナーに軽く手を振って見せてから、ブローノは立ち上がる。私もオーナーに会釈をしてから、席を立った彼についていく。
私はこのトラットリアの2階で寝泊まりしているのだから上の自室で待っていてくれてもいい、と伝えたけれど、彼がその提案に静かに首を振ったということは、今日向かうのは自分の部屋がいい、ということだ。

雨の中を二人で傘をさして歩いていく。傘が邪魔になるから、彼の顔を見つめるには思い切り上を向かなければならない。しとしとと降り続く雨の中でも、凛とした佇まいの彼はひどく美しい。……ときどき、どうして自分なんかがその隣にいるのかが、不思議に思えてくるくらいに。

そうやって彼を見つめていて、美しいリボンが取手になっている紙袋が彼の片手にぶら下がっていることに気づく。
(……珍しいな)
私はその袋を見つめて、ふとそんなことを思ってしまう。いつもは手が塞がるのをあまり良しとしない彼だから、今の傘と紙袋で両手が塞がっている姿を見て、ふとそんなことを思ってしまう。

あんまり露骨に見つめすぎたのだろうか、私の目線に気づいた彼は、これか? そう呟いて紙袋を揺らして見せた。

「……すっかり忘れていたんだが、誕生日だったらしい。チームの奴らに持たされて、今日は早く帰れと追い出されたんだ」
「たんじょうびだったらしい、て……あなたの?」
「ああ」
「……わ、私なんにも準備できてない! というか、今知りました……!」

雨の中、思わずショックで叫びかけてしまう。知っていたら今日仕事なんてしないでずっと彼といたかった、彼の好きな料理を作って、ケーキだって焼いてみたかったし、とにかくやりたかったことはいくらでも浮かぶのに、私は知らなかった! 付き合いはじめて最初の彼の誕生日だというのに、そんな、……一瞬で色々考えこんでしまった私があんまり悲しそうな顔してたんだろう、ブローノは少し慌てた様子ですまない、なんてささやいてから、「毎年そうなんだ、……特別な日としてはいまいち覚えていられないんだ」なんて続けた。すまない、なんて言葉きっと本当は私のものなのに。そんなこと言わせたいわけじゃないのに。

彼は私と出会った日や周りの人の記念日はいくらでも覚えていて、ときにさりげなくそれを祝って相手を喜ばせることだってスマートにやってみせる癖に、自分の誕生日はこの調子なのだ。

「……普通、記念日ってのはそれにまつわる相手がいるもんだろ。そういうのは、相手のことを考えてれば勝手に頭に入ってくるもんだ、……でも、オレの誕生日に相手なんていない、そうなっちまうと……心に引っかかるところがなくなるから、特別覚えとこうなんて考えにならないんだ。……日付としては、認識してるんだが。それが今日なんだって感覚がなくなっちまう」
言い訳する、というよりも、自分の考えを整理して私に渡そうとするかのように、彼の言葉は誠実な響きを持っていた。そして同時に、「相手なんていない」、その一言が、ひどくさみしい。
「……でも、」
「それに……昔のことはいくらでも思い出せるんだが、今自分が何歳とか、ってのはどんどん……理解も、意味も、遠くなる」

……それを聞いた時の感覚は、まるで指先を紙で切ってしまった時のように、一拍置いて現れる鈍く熱い痛みに似ていた。

彼は本当に、自分の“いま”に価値や意味を一切見いだしていないのを、私は実感として知っている。投げやりなわけではない、いつだって誠実なのは確かなのに、たまに驚くくらいに「自分」に頓着しないのだ。滅私、とも言い換えられるのかもしれない。彼自身の思い出はもう過去に全て置いてきてしまって、いま生きている彼は、あえて目の前にある一瞬一瞬を塗りつぶすだけにしている、そんな印象を受けることがあるのだ。
……自分がいつどうなるかわからない、そんな覚悟と諦念が、そこにはある。

そんなことを考えて黙ってしまった私を案じているのか、紙袋を傘と同じ手の方に持ち替えた彼が、そっと私の濡れた手を探る。お互いに冷えた手を繋ぎながら、彼の部屋へと続く石畳の道を踏みしめた。

「おいおい、……なかなか無理なことをしやがる」

彼がそう呟いたのは、雨のなかたどり着いた先、ブローノの部屋の郵便受けがぎゅうぎゅうになっていたからだ。
詰め込まれているのはどれもこれもバースデーカードやプレゼントなど、今日の彼のために送られたものばかりで、ブローノは少し苦笑しながら丁寧にそれを抱える。一人分の両手じゃ持ちきれないくらいのそれに私の手も貸して、部屋にあがった。
まずは二人でリビングのソファに腰を落ち着けて、カードを仕分けることにする。街の人、彼の友人、仕事で関係がある人……

(……これだけもらったって、「意味が遠い」の?)

カードを手に取りながら思わずそう口にしそうになる。……そんな中で、ひときわ美しくきらきらとした紙で、レースのような加工が施された封筒に目を止める。

「……すごい、とっても綺麗……」
こぼした声に、ひょいひょいと素早く仕分けをしていた彼はふと顔をあげてその青い封筒とそこに記された署名を見て、ふわりと表情を緩めた。

「……開けてもいいぞ」
「そういうわけには」
「それは、母さんからのカードなんだ。……もうしばらく会っていない。彼女には新しい家族もいるし、迷惑はかけられないからな。だが、カードはくれるんだ。誕生日やナターレには欠かさず」
毎年そのカードで誕生日を思い出してたんだ、そう言う彼の表情はひどく穏やかで、彼が彼女とのカードのやりとりをとても喜んでいることはわかる。……でも、そんなにマメに、……しかもこんな美しく手の込んだ意匠が込められた封筒を送ってくるような人が、たとえ他の家族がいるからって、ブローノのことを迷惑だと思うのだろうか。

「……ねえ、ブローノ!」
「? どうした」

不思議そうにこちらに青い目を向ける彼に、まっすぐ向き合う。少しだけ深呼吸をしてから、私は今から彼に伝える言葉がきっとどこか傲慢なものだとわかっていながら、口を開いた。

「……あなたの誕生日、これからは……あなたがいらないというのなら、私にください。……わたしのになるから、わたしが準備するのも当然になるし、……わたしが、あなたへ生まれてきてくれてありがとうと伝える日にさせてもらいます」
突然の宣言に、彼は少し目を丸くした。どこか戸惑っているような顔をしているのは、なぜだかわかる。「時間を使う価値はない」とか、きっとそんなことを考えているのだろう。ときたま、そのいきすぎた無私に悲しくなる、……だからきっと私は、何度だって彼に伝えなければならないのだ。誰よりも優しくて誰より愛を知っているのに、ときたまこうして、自分の存在をそこから抜こうとする彼を、同じ場所に引き戻さなければならないのだ。
「こういうのは……自分でやるもんだろ。オレが言い出さなきゃいい話だ」
「わたしがやりたいんです、……きっとあなたのご家族も、あなたが祝われる姿の方を見たいと思う。……あなたを愛する人のために、わたしに、いえ、私たちにあなたの誕生日をください」
ここまで真面目な顔で言い切ってから、優しい分からず屋にむかって少し笑って見せる。
「……ここまで言えば、誕生日にも“相手”ができたって思えますか? ……あなたのためだけの日じゃなくなる?」
「……ああ、そうだな、……すまない」
……また、彼は謝るのだ。ただそれが口だけじゃなく、心からの言葉であることは、優しく、そのまま夜の空気に溶けていってしまうように柔らかに囁かれる声でわかる。
……私なんかが、これだけみんなに愛されている彼の誕生日をもらうなんていうのがおこがましいことだってわかっている。だけどきっと、今言わなければならなかった。

「……来年からのパーティは、私の働いてるトラットリアで。シーフードをたくさんつかったメニューばかりにして」
「……そりゃあ、いいな」
「ケーキは、お城みたいなケーキにして、花火もつけてもらうやつで」
「…………それについては、相談させてくれ」
「それで、……次の休みには、一緒に海に行きましょう」
「次のってのは、来年じゃなくてか?」
「そう、今年の……次の休みです、もう決めましたから。一緒に魚を見たり食べたりするんです。……私が準備しますから、あなたは体だけ持ってきてくださいね」

話しながら、自然とソファの上で少しずつふたりの身体が近づいていく。ふわりと、彼の香水の香りとほんのりと草の香りを思い出させる汗の香りがする。身体の大きさはもちろん彼の方が大きいのに、彼が私にのしかかるように少しずつ姿勢を崩してソファの上に二人で沈み込んでいくと、私の胸の上に乗った彼の頭を抱きしめるみたいになっていた。
自分の体の上に預けられるつやつやと光る髪に指を通しながら、彼が笑う息の音を吐き出すのを聞く。一緒にいるようになって、少しずつこうして甘えるみたいな姿を見せてくれるのが、すごく嬉しかったのだ。

「それから、私これからずっと、……あなたの髪が白くなるまで、いえ白くなっても、ずーっと……あなたに、毎年、生まれてきてくれてありがとうって言いたいです」

その言葉に、彼はふと顔を上げて私を見て、何も言わずに眉を下げて笑う。……わかっている、彼が未来の話をしたがらないのを、……いや、できないと思っていることを。
(いつまで一緒に居られるだろう、いつか違う形のふたりになれるのだろうか、そんな日がくるのだろうか)
その全てを彼が望まないなら一緒に今だけを見つめるつもりだったけど、これだけ遠い未来の話なら、少しだけ許してほしい。

「……もしも私と別れたって、おばあちゃんになったって私は言いに行きますから覚悟してくださいね! あなたの誕生日を、あなたのことを愛してる人のための日にしてくれるって言ったのはブローノなんだから、聞いてもらいます」
「……熱烈だな」
「執念です」

ここまで言い切ってから、私の胸の上で曖昧に笑うままの彼の頬を、ブローノがいつも私にしてくれるように両手で包んで、まっすぐ目を合わせて囁く。

「……愛しています、……あなたに出会えてよかった、……わたしのステッラ、わたしのテゾーロ」
それを聞く彼は、いつもの背の高く町中から頼りにされる、強くしなやかで誰より優しいギャングではなく、……まるで少しだけ泣きそうな子供みたいな顔をしていた。かつての私から悲惨な未来を遠ざけ、私をいつだって守ってくれる彼がわたしの腕のなかでだけ見せる表情に、心がめちゃくちゃに揺らされる。
……ブローノにそんな顔されて、抱きしめずにいられるだろうか?
ぎゅうと彼の頭を抱え込むように腕に力をこめる。お互いの顔は見えなくなったまま、耳元で囁く。

「来年は0時になった瞬間か、夜明けとともに、同じことを言います」
「……ああ、待っている」

……それは今日、彼が口にした唯一の未来へつながる言葉だった。
今のところはきっとそれで、十分だった。

2020/09/27 ブチャラティお誕生日