去年までは、恋人たちがあつまるレストランも、彼らが見つめあって座る公園のベンチも、何もかもが私からは遠いものだった。なぜなら私はギャングなんかやってる女で、……同じギャングの上司に片思いなんかしていれば、そんなものは遠くて当たり前だったのだ。
だけど、去年のバレンタイン。
「好きだ」の一言もその上司――ブチャラティに言えるわけがないと押し込めようとしていた私を先回りして、彼は完璧に私をエスコートすると、私と同じ形の思いを告げてきたのだった。
百歩譲って、だ。私の思いを受け止めてくれるブチャラティの姿は想像の範囲内だった。
だけど、自分からばらの花を私に手渡すブチャラティの姿はどこか信じられないものだった。
付き合い初めてからも、自然に肩に回される手に、キスがしたいとすり寄せられた鼻先に、夜明け前、私の目の前にある裸の背中にそっと抱き着くことが許されているという事実に、ひとつひとつ目を白黒させる私を面白がりながら、ブチャラティは上司の顔と恋人の顔を器用に取り換えながら私を甘やかしていた。
隣にいられるようになったその日からずっと、いつだって彼が一歩前で私の事を待っていてくれているような感覚だった。受け取り下手の私がもたもたと戸惑っているのを、与えることが得意な彼はゆっくりと、私がその愛情を飲み込みきるまで待っていた。
だから今年は少しでも何かを返したくて、ふたりの記念日になったバレンタインにレストランも、とっておきのワインも、花束だって予約したのだ。
それを伝えた時のブチャラティの表情は、……今すぐにでも抱きしめてしまいたくなるようなものだった。先を越されて残念がるかもしれないと思っていたけれど、私に打ち明けられた彼は少し驚いた顔してから、やられたな、そう囁くと眉を寄せて微笑んだのだ。照れたようなその表情に私は心臓のあたりがぎゅっと締め付けられるような感覚になって、思わず背伸びして彼を抱きしめたのだ。
当日は上手に彼をエスコートして見せる、そう意気込んでいたはずなのに――その計画はたった一本の電話で壊れてしまった。
バレンタインの日、その夜までかかる仕事がわざわざ私を指定して降ってきたのだ。
組織からみたらただの下っ端のチンピラの一人でしかないはずなのに――幹部の愛人の護衛兼荷物持ちとして呼び出されたのだ。
それだけで表情が崩れるには十分だったろうけど、仕事の衣装だと渡されたものを見て更に顔が険しくなるのを止められなかった。
護衛って言われたら、ドレスアップが必須な店に行くにしたってブラックスーツを着込んで、映画スターのSPみたいな恰好をするものだと思っていた。だけど今、私の目の前にあったのは足が丸出しになるような丈のドレスに、きらきら光るショールと、普段の自分なら絶対履かないような高いヒールの靴だった。
思わず眉根を寄せた私を見て、ブチャラティも困ったような顔をする。……あんたにそんな顔させたいわけじゃない。断ったりしてブチャラティの立場が組織の中で悪くなるのも嫌だと思えば、その仕事を受ける以外の選択肢なんてありはしなかった。……どうやって知ったのかドレスのサイズはぴったりで、少し気味が悪かったが。
私は送りつけられた仕事着を掴んだまま、泣く泣くレストランの予約をキャンセルした。
ブチャラティは日付が重要なんじゃあないと、私といられるのならばそれでいいと言ってくれて、私もそう頭では納得しているのだけれど……心がついてこないのだ。
バレンタイン当日を一緒に過ごすつもりでふたりの休みも合わせた。チームのみんなもわかってるからと二人で休めと言ってくれたのに――。
それでもせめて仕事に出る前の時間を一緒に過ごそうと、ブチャラティはわたしの部屋に一晩いてくれた。
二人で普段通りに過ごしただけ、しかしその「普段と同じ」やり方で私のそばにいてくれるブチャラティを通して理解できるのは、私がものすごく落ち込んでいるのはきっと、すっかり彼にバレていたということだった。
仕事の依頼の電話がかかってきた時から続く静かな落胆と、ちゃんとしなくちゃあいけないのに彼に甘えてばかりの自分の存在、両方に心をむしばまれながらのろのろと化粧をして仕事に出ようとする私にブチャラティが声をかける。
「……迎えにいってやるから、そんなに拗ねないでくれ」
「……まさか、拗ねたりなんかしないよ。迎えも……平気。ひとりでちゃんと働いてこれるよ、リーダー」
言ったそばから妙な温度になった声が出たのに気づいていた。……どう聞いてもしょげてるみたいな声。自分の意図しないタイミングで出た弱った声を無視しようとしたが、それをお見通しだとでも言うみたいにブチャラティは柔らかに私の名前を呼んだ。顔を上げれば彼が目の前にいて、私のおでこのあたりをそっとなでてくれる。
「……わかった。オレは大人しくお前を待っているから……気を付けて行ってこい」
そう囁いたブチャラティは、私の額にかかっていた前髪をそっと撫でてはらう。それから彼の顔が近づいてきて――私のおでこに音を立ててキスをくれた。
彼の唇が触れたところ、柔らかな熱の感覚とちゅっと濡れた音が耳に残って、耳のふちが焼けるように熱を持つ。……たまらなくなってしまって、私はぎゅっと彼を抱きしめると、肺の奥まで彼の匂いを吸い込んでいた。私の部屋に泊まっていった日は同じシャンプーの香りをまとっているはずなのに、確かに感じる異なる香り、彼自身が発する深く甘い香りに満たされる。ブチャラティは全部わかってるとでも言うみたいに、私の後頭部をぽんぽんと柔らかく撫でてくれるのだ。
そして、そんな風にブチャラティに甘やかされてしまえば簡単にやる気になってしまう。
私はひときわ強くぎゅっと彼を抱きしめてから、今日の仕事のユニフォームであるドレスを着こみ、まったく足になじまない硬く足首に当たるヒールで、なんとか地面を踏みしめてアパルトメントの階段を降りたのだ。
階段を出てすぐのところ、家の前で待っていた車の運転手が私の方に目を向けて、後ろに乗れと指で指示した。……こんな風に迎えがくるような仕事なんてはじめてで、少し面食らう。
乗り込んだ車の中、車窓から部屋の窓をちらりと見上げれば、ブチャラティの姿が目に入る。彼もまた、こちらを窓から見ていてくれたのだ。
私の方から手を振ることなんてできないけれど、彼と目が合うだけで十分だった。窓の奥でそっと頷いて見せてくれたブチャラティを見て、私はなんていうか――ああ、私、大丈夫だな、なんて気持ちになっていた。
私とそんな年も変わらないような女が、今日の護衛相手である「幹部の愛人」だった。
幹部がその人に相当入れこんでいるのだということは、彼女の元まで車で私を送り届けた、その幹部直属の部下の鬼気迫る表情で感じた。
「……お前がブチャラティの女だな?」
そんなことを言われるとは思わなくて、一瞬面食らう。でも茶化すような声でもなく、真剣そのものの低いささやきにごまかすことも出来なくて、ゆっくりとうなずいて見せた。
「…………まあ、そう、です」
「……そういう事なら大丈夫だとは思っちゃあいるが、……ちょっとでも『あの人』に色目を使ってみろ、お前は……いや、オレも手足をもがれてもおかしくない」
そう囁く男の声は、どこか震えて聞こえるくらいだった。
「ブチャラティの、」そう言われるのは今に始まったことじゃあない。あとに続く言葉は、犬、だったり女、だったりその時によってまちまちだ。彼の持ち物みたいに言われるのは慣れっこだけど、ブチャラティの耳には入らないで欲しいとだけ思った。彼はきっと気にするだろう。
ただ、……自分としてはちょっと面白い気持ちになってしまう。私が特別に誠実な女だと組織に思われてるわけじゃあなくて、とにかくブチャラティの性質が誠実であること、品行方正であること……ギャングとして適切な枕詞かはわからないが、とにかくそれが有名だから、彼の『モノ』である私も彼を裏切って幹部の愛人にちょっかい出す女ではないと思われたのだ。
ブチャラティが凄くイイ男って言われてるってこと? そんな風に思うとちょっとだけ気分がいいし、そこまで思わせる彼の存在に思いをはせてしまうのだ。誠実なギャング。その矛盾した一言は、まさに彼そのもののように思えた。
件の愛人さん、は、友達と買い物に行くような形でのお出かけを望んだそうだ。だから最小限の護衛兼荷物持ちの私だけを近くに置いて、残りの護衛は遠くから見守るだけ。
普段の生活がどれほど『かごの中の小鳥』めいたものなのか、それだけで手に取るようにわかる気がした。
バレンタイン当日に恋人を持つ女を引っ張り出したことを、彼女は私には一生手が出ないような値段のアクセサリーを試しながら謝罪した。
「……ごめんなさいね、たまたま……出かけても良いと言われたのが今日だけだったの」
「いえ、そんな気になさることでは……」
「……あなたの恋人は気にされるかしら?」
どうだろうか、彼女に言われてふと考えてしまう。……気にして欲しいのか、してほしくないのか、わからない。どちらにせよブチャラティ自身はきっとバレンタイン当日であることをそんなに気にしていないのは確かだ。……彼が気にしているのは、私のことだ。私がひどく落ち込んでいたからこそ、気にかけてくれたのだ。
……そう気づいてしまうと、彼がくれた私を甘やかすようなキスを思い出してしまってまた胃がぐらりと揺れる。
赤くなってるのね、そう愛人さんに囁かれて、もしかして傍から見たらこの光景は命の危機なのではと少し焦りながら何度も首を振った。
彼女は控えめな態度ながら、与えられた短い時間の中で存分に羽根を伸ばそうと、ひとつひとつの店で品物を丁寧に吟味しながらあっちも見たい、こっちも見たいと花の間を飛び回る蝶のように店から店へと移動していく。彼とは来られないから、そう囁いてランジェリーショップに連れ込まれ、気づいたらプレゼントだと自分用の荷物も押し付けられていた。自分に与えられたものと彼女が持ち帰るもの、両手にぶら下がる荷物を増やしながら、私は何とか必死になって彼女を追いかけ続けていた。
悪くなかったと思う。お姫様のエスコートは、今の私にしかできない仕事だと思えたから。もちろん組織の役に立てるのが嬉しいわけじゃあない。ブチャラティへの評価につながるのだと思うと、嬉しいのだ。
――あとは、足首が発するひどい痛みさえなければ完璧だった。
やはり慣れないヒールを履かされてしばらく歩かされていればこうもなる。せめて靴が血で汚れていない事を祈るだけだ、痛みを無視して平気な顔で歩きまわるのには慣れていた。きっと傷さえ見られなければ、彼女に気付かれ余計な心配をかけることもなく平穏無事に仕事を終えられるだろう。
お昼すぎに迎えの車に乗せられて、買い物から解放された頃には日はすっかり落ちていた。一回りは年齢が離れた『恋人』を持つお姫様は、彼女の立場から考えればありえないくらいに丁寧に私に感謝の言葉をくれたあと、最後に微笑みながら言った。
「今日は本当に楽しかった! あなたも……恋人とお幸せにね」
「ありがとうございます、シニョリーナ」
差し出された手をうやうやしくとってその指先に口づける。白魚のような指、というのはこういう手の事をいうんだろうと自然に思うくらいの、美しい指先をしていた。生活の不安に浸されることはない人間の指だった。
……彼女がかごの小鳥でも、救い出すことは私にはできない。……でもどうかその生活が不幸ではないといい、そう願う事しかできなかった。
恋慕の情というものはひどく厄介に人を縛り付けるものなのだ。私も彼女も、傍から見たら同じなのかもしれない。二人とも「ギャングの女」だ、主語は男たちの方にあって、私たちはその手の中にあるものにすぎないのかもしれない。
彼女はどうだか知らないけれど、私は一応ブチャラティとの関係を自分で選んだ、けれど……そう言い切るには、……ブチャラティという存在は私にとってまぶしすぎたのだ。気づいたら好きになっていて、逃げられない。
ただし、私の事を誰がブチャラティの付属品として見たとしても、決して不幸ではなかった。それはブチャラティ本人が決して私を「自分のもの」みたいに考えないからだ。私が人間であることを、彼の目が思い出させてくれるのだ。この世でただ一人、ブチャラティが私を私の望むまま見つめてくれれば、それでよかった。
目の前で微笑む彼女も同じなのかもしれない。かごの中の鳥の様だ、そう思われていても本当は正しく大事にされていて、二人の中では納得がある関係になっている、とか。
……せめてそうであってほしい、それはただの私の願望だったのかもしれないけれど。
行きと違って帰りの車はお姫様を無事に送り届けるのが一番の使命で、荷物持ちのことなんてどうでもよいのだ。彼女が乗った車が遠ざかっていくのを眺めながら、私はひとりのろのろと、なんとか痛む足を引きずらないようにして家路を辿り始めた。
ブチャラティはどうしていただろうか。
……もしかしたら、いい気分転換になったかもしれない。いつだって働きすぎなくせに、わずかな休日も私といる時間に費やしてしまうのだから。少しくらい、一人で羽根を伸ばせる時間がブチャラティにも必要なのだ。
そう思えばこそ、今日の仕事を自分の中で消化できる気がする――
「ナマエ!」
突然呼ばれた名前に、びくりと肩を揺らして慌てて振り返る。今通り過ぎたばかりのバールから飛び出すように現れたのは……私がずっと、仕事をしながらもその存在の事を考え続けていたブチャラティその人だった。
「ど……え!?」
どうして、なんで、言葉は重なってしまってうまく出てきやしなかった。
ただ驚くばかりの私の顔を見て、彼はふっと目元から力を抜くように柔らかに微笑んだ。
「……ここで時間をつぶしていれば、通るかもしれねえと思ったんだ」
言いながらチラリ、とブチャラティが私の手に残った彼女からのプレゼントの、……ランジェリーショップの紙袋に目を寄せたのに気づいて、何か気恥しくてそっと後ろ手に隠した。それを追及することはせず彼は続けた。
「……もう、仕事は終わったのか?」
「うん、無事にね」
言いながらブチャラティは口元をほころばせて、その瞳をすっと細くして見せた。
……こんな素直に、子供みたいに笑うのか、この人は。
仲間としてそばにいた時と、恋人として隣にいるときと。ブチャラティは器用にもそれを明確に分けるつもりの様で、恋人の時に見せてくれるようになった知らない表情に私は揺らされるばかりなのだ。
「なら……ここからオレが君をエスコートしても?」
「…………」
目の前に彼の手が差し出されれば、色んな感情があふれそうになって思わずくちびるを噛む。……恋人の前で見せていいような顔じゃあない、くしゃくしゃの表情になっているのは分かっているけど止められない。
「……そういうのどこで覚えてくるの?」
「ん?」
照れ隠しというか負け惜しみ、みたいな声が出るけれど、言葉とは裏腹に彼が差し出した手を素直に取れば、ブチャラティの手のひらが私の手をそっと包みこむ。こちらの手が逃げられないようにぎゅっと握りしめるやり方は、先ほどの言葉と比べてずいぶん子供っぽくすらあって、思わず口元がほころんでしまう。
私が浮かべた笑みの意味を勘違いしたのか、ブチャラティは握った手をそっと放してから静かにささやく。
「……大人しく待ってるって言ったのに、結局迎えに来ちまった」
「私は、ブチャラティが来てくれて嬉しい」
歩きながら、彼の腕を取る。自然と私の方からこんな事が出来るのは、街のギャングとして生きる普段とは違う恰好だからかもしれない。ブチャラティはまぶしさから逃れようとするみたいに目を細めながら、きゅっと口を引き結んでから続けた。
「……余裕がなきゃあならねえと思ってはいるんだが……お前の前だと、そうもいかなく無くなっちまう。かっこつけてえのに、ガキみてぇな真似しちまうんだよ、オレは」
ぐらりと揺れた胃が、奇妙に落下するような感覚を覚える。……彼へのいとおしさで。
ブチャラティと恋人同士になってからはじめて知ったことがたくさんあった。朝も昼も夜も、プライベートと仕事の区分けなんてないような日々を過ごしているくせに、彼は私といるときにはずいぶん素直に感情をあふれさせて、目元を柔らかくほどけさせる。無防備、そんな言葉すら浮かぶ表情、それは私にだけ見せてくれる顔だと知っていた。
「……いつもかっこいいんだから、私の前でだけちょっと崩れてくれるのはさ……正直、嬉しいよ」
こんなの崩れるにも入らないけれど、そう付け足して、彼に絡めた腕にそっと力をこめる。ブチャラティが自覚を持って私に心をほどいていたという事が、どれだけ嬉しいのか彼に教えてあげたいくらいだった。
「……お前がそうやってオレを甘やかすから……」
こぼされた言葉の甘さにたまらなくなってしまって、ブチャラティの表情を直接見たくなって顔を上げると――ふとこちらを見下ろして足を止めた彼とまっすぐ目が合った。
「…………どうしたの?」
彼は私の方をじっと見つめている。……正確には、私の足元をじっと見つめている。
「……怪我をしているのか?」
「怪我……ってほどじゃあないよ、こんなの、本当……軽いかすり傷だし」
「……いいから、そこに座れ」
早く帰ろうと軽く抵抗してみたものの、気づくとブチャラティに言われるがまま、すぐ近くのベンチに座らされていた。目の前には彼がしゃがみ込んで、機械の点検でもするみたいな目を私の足に向けている。
「……ほら、全然大丈夫でしょ?」
「足首は腫れてねえようだが、かかと、赤くなってんぞ。見せてみろ」
「い……いいってば」
「……触るぞ」
その一言で有無を言わさず彼は私の足に触れて、両手でこちらの足を包むようにしながら、今日一日私を苦しめていた高いヒールの靴をそっと脱がした。
「……ほら、皮がむけてんじゃねえか」
「こんなの大したことないって」
普通の男だったら、こんな風に躊躇いなくひとの足元にしゃがみ込まないし、靴を脱がしにもかからないだろう。それに、私だって痛みが簡単にバレるような歩き方もしていないつもりだ。
それなのにこのブチャラティという男は目ざとく気づき、当たり前の顔で私の目の前にひざまずいていて、……その光景にどうしたらいいかわからなくなる。
咄嗟に足を組むように重ねて、ブチャラティの前から傷ついた踵を隠そうとする。
「……ね、ブチャラティ、あんたが私にこんなことしなくていいの、本当平気だから……」
「お前はいつも、自分をオレより下みたいな言い方をする」
ぽつりとささやかれたその言葉に心臓が嫌な風に跳ねたのは、それが図星だからだ。ブチャラティが私を大切に思ってくれているのが確かならば他の誰になんと思われてもかまわないのは事実だけど、そのせいで私自身が一番、自分の価値を低く見ているのを彼は分かっていた。図星をつかれて表情を硬くした私を見つめて、ブチャラティはふっと表情を緩めて目を細める。
「お前がオレの部下じゃあなく恋人でいてくれるときは……もっとわがままに振る舞ったっていいんだ」
だからまずこれからやってみろ、そう言って、彼はしゃがみ込んだ自分の膝の上に靴を脱がした私の足をのせろと言った。それでもとまどう私にしびれを切らして、ブチャラティは私の足をすくい上げるように取ると、自分の太ももの上にのせた。足の裏に真っ白のスーツ越しの硬い筋肉と、それが発する熱の存在まで感じる。何か気恥ずかしくて目を泳がしていると、彼の指先が足先に触れ、いたわるように撫でて……緊張なのか興奮なのか、分からない感情で喉がひゅっと鳴った。
「……お前とオレは、どこか似てるんだ」
ブチャラティはなおもストッキング越しの私の足に触れながら囁く。
「……オレの父さんも母さんも、絶対に気付く人だったんだ。オレが作ったどんな小さな傷でも」
そう言いながら、彼はどこからともなく取り出したハンカチで私の足首をくるりと包んだ。
「だからわかる」
しゃべり続けながら彼は器用に、きゅっと足首の上でハンカチを結ぶ。
「傷を隠しておきてえと思う気持ちも、……すぐ教えてほしいという気持ちも、両方な」
自分の膝越しにブチャラティと目が合って、更に息が浅くなる。……彼の芯の強さを感じる瞳に射抜かれるのに慣れる日はきっと来ない。お礼の言葉をなんとか囁くので限界の私をじいっと見つめると、……彼は何を思ったのか、ドレスから覗いていた膝頭にちゅっと音を立ててキスを落とした。……二人の間にあった空気が急に湿度と熱をはらんだものになる。
「!」
「……さあ、どうだ? 痛くねえか?」
だけどブチャラティは次の瞬間、さっきのキスなんかなかったかのように明るく言いながら立ち上がる。
私の心臓はドキドキしたままだけど、なんとか平気な顔を取り繕ってさっき彼に脱がされたヒールを履き直して立つ。
「……うん、大丈夫……ありがとう」
何歩かきちんとまっすぐに歩いて見せてから言ったけれど、その様子を見たブチャラティは私の足元に目をやりながら険しい顔をしたままだった。
「だが歩きにくそうだな……そうだ、ほら」
彼は突然しゃがみ込むと、私の方に背中を向けてきた。
「背負って行ってやるから、乗ってくれ」
「え! ブチャラティ……本当大したことないからそんなにしなくていいんだってば」
「遠慮するな、……いや、……そうか、なるほど」
彼は私を振り返って何か一人で合点したようにささやくと、私が腕にぶら下げたままだったショールをそっと手に取ると、私の腰の辺りに巻き直した。
「これでどうだ?」
彼はおそらく、ドレスで背負われるのが気にかかるだろうと思ったようだった。……確かに気にはなるけれど、そういうことではない。
手足がもげそうとか、歩けないくらいの怪我じゃあない限りそんなことさせるわけにはいかない、そう口にしようとしたのは、先回りしたかのような彼の言葉で封じられる。
「……オレを甘やかすと思って、頼ってくれよ」
「…………」
……「甘やかす」行為が靴ずれ起こした女をおんぶして帰る、っていうのが、なんだか……ああ、「ブチャラティ」だなあ、なんてことを思ってしまうのだ。そして目の前で彼に寂しそうに目を細めながら囁かれればもう逃げられなくなってしまって、私は彼が向けた背中に身体を預けた。
ふわりと身体を持ち上げられれば感じる、スーツ越しの彼の熱。抱きしめられているみたいに、全身でそれを感じていた。彼のさらさらの髪が頬にふれる。思わず背中に顔を擦り寄せている自分に気がついていた。
「重いでしょ……ジッパーの中に放り込んじゃっていいのに」
「……何度も言わすな、オレがしてえから勝手にしてるだけだ」
背中越しに、彼の声が優しい振動になって直接私の身体に響く。ブローノ・ブチャラティという存在はきっと、その細胞の一辺から私を幸福にするのだ。
「それに、こうしてオレがお前に構うのが気になるようなら、……今日一日、一人で大人しくしていたご褒美をくれよ」
冗談めかした口調でそうささやかれる。一瞬考え込んでから、それがご褒美になるとは思わないまま彼の耳元に口を寄せて、頭に浮かんだ言葉を静かにささやく。
「ねえブチャラティ、……好きだよ」
彼は私をおぶったままで、一瞬足をピタリと止めた。
「……それはだいぶ……クるもんがあるな」
想像していた以上に彼の声がほころんで聞こえて、私は思わず彼の身体に回した腕に力をこめる。わかりやすく甘えるような仕草に、彼が息の音だけでフッと笑うのを聞いた。
ブチャラティごしに、揺れる街の風景を見ていた。想像していた理想のバレンタインからはるかかなた遠くにいる気がするけれど、なんだかそれでも構わなかった。……ブチャラティが、そう思わせてくれたのだ。
家についたら、背中からじゃあなくて正面からブチャラティを抱きしめたいと思った。きっとそれのほかに今の私に必要なものはないのだと、わかっていた。
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