Fondere

空中にさまよわせたまま定まらない私の目線に気づいたのは、ブチャラティだった。

ああなんかふわふわするかも、自分の体に対してそれくらいの雑な認識でいたら、街の人にもらったりんごをいつものように私に分ける(わける、というのは正しくない。事実は、彼がもらったりんごはすべて私が食べてしまうのだ)ために立ち寄った私の部屋の中、人の顔を少し険しい顔で見つめてきたブチャラティはつかつかと大股でキッチンをつっきってきたと思えば、問答無用で私の額に大きな手のひらを押し付けてきた。少し焦っているときのブチャラティの行動は彼らしくもなく言葉より先に手が出る。動作も少し雑なところがあって、そして私はそれがなんだか好きだった。

そんなこと思ってるなんてきっと知らないブチャラティは、私の顔を青い目で覗きこみながら低く囁いた。少ししかめ面してるけど、相変わらずなんだかふわふわした心地の私はただその目を見て綺麗だなって思ってしまうばかりだった。

「……今すぐ熱測れ」
「え……これくらい平気平気、たまにこう……急に顔が火照るときってあるでしょ。えーと自律神経?の乱れ?とか……」
「黙って体温を測って何もなかったらそのあやふやな言い分も聞いてやる」

私の部屋の中、何がどこにあるのかなんてすっかり知っている彼はこちらが何か言う前にもう、ごちゃつく引き出しから体温計を引っ張り出して差し出してきた。ここでごねたら口の中に無理やり突っ込まれかねないような勢いに押され、私は渋々体温計を舌の裏側に差し入れる。
ブチャラティは体温計を手渡したその場所から離れず、私の口元からぐんぐん上っていく水銀の目盛りを間近でじっと見つめていた。こちらを見つめる鋭い目と、上目遣いで見上げるわたしの視点がぶつかる。

「……たとえ自律神経がどうだろうと、今すぐベッドに入れ、それしかない」
その宣言には有無を言わさない響きがあった。私は言われるがまますごすごと寝室へと向かう。
本当なら、せっかくブローノが私の部屋に来てくれたんだからもっとやりたいことはたくさんあったのに。一緒に見たい映画もレンタルしてあるのに。ブローノに怒るわけじゃなくて、こんなタイミングで体調を崩す自分の身体に腹が立っていた。
「……なんでいま熱出ちゃったんだろ……」
意図せず、ふてくされた子供みたいな声が出てそれを聞いたブチャラティは少し声を漏らして笑った。
「……君が寝付くまでここにいるから。さあ、ベッドへ」
そっと背中を大きな手のひらが柔らかく撫でるように押して、私をベッドに導く。パジャマをのろのろと取り出したのを見届けてから、ブチャラティは部屋を後にした。

もそもそとベッドに潜り込んだタイミングで、キッチンから水音が聞こえてくる。
(……お皿、洗ってなかったっけな……)
なんだか申し訳ない気持ちになりながらも、でも遠くで聞こえてくる水音——人が同じ部屋にいるという感覚はなんだか心地良くて、私は穏やかに、少しずつ眠りの世界に引き込まれていった。

近くで、人の気配がした。

遠くの方からは、壁越しにくぐもった音で優しい音楽が聞こえて、……すぐに人の声に変わったから、きっとラジオだ。ぼんやりとした頭ではただの音としか捉えられなくて、何を言ってるかまでは入ってこない。
それに重なって、ゆっくりと紙をめくる、穏やかで規則的な音が聞こえてくる。
私はそれにつられるようにぼんやりと目を開ける。
熱が出たあとの目覚めの瞬間は、いつでも祈るような心地になる。ちゃんと寝たんだからもう全部治っていますようにって。望み通り熱が下がっていたらよかったのに、身体は無理をさせた機械みたいに熱くなったままで、目のあたりまで熱くて、そのせいで思考がまとめられなくて不快だった。
でもそのまま、視線をベッドサイドに向けると――寝付くまではこの部屋にいてやると言っていたブチャラティが、変わらずそこにいた。キッチンに置いている小さなスツールを私のベッドの横にわざわざ持ってきて。
少なくとも数時間は寝ていたはずだ。寝付くまでと言っていたのだから、もうきっとブチャラティは帰ってしまっているはずだと思っていたのに。……熱を出した人間と一緒にいさせて何かあったら大変だ、早く帰ってもらった方がいいのはわかっているのに、だるい身体の不快感に弱った心には、それだけで少し泣きそうになってしまう。
涙腺がゆるみはじめて、ベッドの中で口が歪みかけてから、ブチャラティは目を開いた私に気が付いた。
にこ、と微笑まれて彼の手が私の方に伸びてくる。額に触れ、頬を撫でてくれた彼の手が冷たくて心地よくて、それに顔を摺り寄せるように自分の頭を傾けた。
何度か優しく頭を撫でられて、それから優しいキスがおでこに落とされた。

「具合はどうだ?」
まっすぐ瞳を覗きこみながら、すぐ近くで彼はささやく。あまりの近さに、そしてあまりにもひそやかなささやき声は、まるで音というより空気の震えのようだった。
「……ブチャラティ……帰ったんじゃないの……?」
「……いいや。しばらくはここにいるつもりだ。……すべて問題ない、君はゆっくり寝ていろ」
それから彼は、ことさらに優しい声で続けた。
「……つらくないか? 何か欲しいものは?」
私を甘やかすためだけのやわらかな響きで聞かれてしまえば、まるで本当に子供になってしまったような気持ちになってくる。飲み物が欲しい、ぽつりとつぶやけば彼はこくんとうなずいて見せた。

「……何か食べられそうか?」
言われて、私はゆっくりと頷いて返す。私のおぼろげな頷きを見届けてから、ブチャラティはスツールから立ち上がる。
「………いかないで」
自分が発したその言葉に一番驚いたのは私だった。立ち上がる彼を見て反射的に口から出た言葉を引っ込めたくなってももう遅い。やっぱなし、いいの気にしないで、うまくまわらない口でうにゃうにゃと言葉を続けるけど、ブチャラティは息の音だけで笑って、ベッド脇にしゃがみ込むとわたしの頭をまた撫でた。
「……ああ。そばにいるから。だが君にあげたいものがあるから、少しの間だけ待っていてくれ、ベリッシマ」
言い残して、彼は今度こそ立ち上がる。
(……べりっしま、だって……)
これまで聞いたことのない、というより、私と彼の間では交わされることのない類の言葉で呼ばれて、部屋を出る直前にもまた頬を撫でられれば、黙ってベッドの中でその言葉を反芻するだけになってしまう。

少ししてかたかたと食器を鳴らしながら戻ってきた彼の手には、小さなお盆があった。私がベッドの上で身体を起こすのを待ってくれてから、彼はそれをこちらに差し出した。

「わ、これ……」
盆の上には、小さな粒の様なパスタが透き通った金色のスープにひたっている皿と、グラスに汗をかくくらい冷えたオレンジジュースがのっていた。感嘆の声がまた口から溢れてから、ふと思い至る。
「パスティーナ……うちに残ってたっけ……?」
「いや? まあ気にするな、食べられればいいんだが」
ゆっくりとスプーンに手を伸ばしながら思う。うちには確かパスタのストックはなかったはずだから、ブチャラティは私に食べさせるためにわざわざ買って来てくれたのだ。人の世話を焼くために骨を折ることを彼は躊躇しない。申し訳なさと嬉しさとありがたさと、うまく言えない感情で喉の奥が詰まる感覚になる。
スープと一緒に口に運んだパスティーナは柔らかくて、ふさぎかかっていた喉を重さもなく滑り落ちていく。身体は熱いはずなのに胃は冷えていたようで、喉を通って胃に落ちていくスープの温かさを追いながら、また一口を飲み込む。
「おいしい……」
「よかった。おかわりもあるから、欲しくなったら言ってくれ」
「…………ブチャラティのおうちでは、風邪を引くとこれが出て来たの?」
「ああ、そうだ」
「……すごくおいしいね。これ好き……」
私がこぼす言葉に彼は柔らかく笑う。母さんがいつも作ってくれたんだ、そう言われると、彼自身が与えられた優しさを少しわけてもらえているようで、またそれも嬉しくなってしまう。

ブチャラティはいつの間にか、ゆっくりと一口一口スープを飲み込む私を眺めながら、スツールに腰掛けてりんごと小さなナイフを掴んでいた。
「果物は食べられそうか?」
「うん」
返事を聞いた彼がりんごの上でナイフを滑らせると、あっという間にりんごからするすると赤いリボンのようにほどけた皮が飛び出してくる。ナイフに慣れた彼の手つきは私の不器用なやり方とは比べ物にならないくらい鮮やかで、途切れずにリボンを長くしていく。
そうして大きな手のひらはあっという間にりんごを切り分けて、小皿の上に並べると私の目の前のお盆にのせた。
目の前に置かれたそれがあまりにも綺麗で、本当に瞬き数回の間にこんなに綺麗に剥けるものかとぼんやりとりんごを見つめてしまう。私だったらきっと皮があちこちに残ってしまうだろう。
じっとみていると、ブチャラティはお皿からりんごのひとかけらをつまみあげて、私の顔の目の前に差し出した。
一瞬彼の意図を掴みかねてから、また柔らかく細められた瞳を見つめ返してからようやく理解する。私はおずおずと、差し出されたひやりと冷たいりんごの一片をくわえる。
これが正解だったようで、ブチャラティは私の顔を覗き込みながら嬉しそうに目を細めた。

……こんなに真正面から甘やかされてしまうと、もうどうしたらいいか分からなくなってしまう。風邪をひいたっていう事実を加味したって、まるで溺れてしまうくらいに甘やかされているのだ。
りんごを咀嚼して小さくお礼の言葉を呟きながら、自然と視線が落ちていく。
甘やかしてもらえることは嬉しいしくすぐったいのに、彼の手をわずらわせてしまった、こんなことをやらせてしまった、そんな思いが消えることはない。

「……ごめんね、手間かけさせちゃって……」
「……オレとしては、お前の世話を焼く大義名分ができたからな。満更でもないさ。……もちろん、健康でいてくれるのが一番嬉しいが」
大きな手のひらが私の額に優しく触れる。まだ熱の残る顔に、彼の手は心地よい。熱を確かめるという名目からか、いつもよりもブチャラティがその手でたくさん触れてくれるのは嬉しかった。
寝癖でもついていたのか、その指は私の髪のひとすじをつまみあげてから正しい方向へとなでつける。ブチャラティは私を労るような優しい目で覗き込みながら、静かにつぶやいた。

「……今はただ、甘えてくれ。オレがそうしたくてしてるんだから」

溶かされてしまいそうだった、その表情にも、言葉にも。
身体の奥から湧き上がってくる感情が抑えきれなくて、私はもごもごとお礼を言いながら今度は自分でりんごをつまみあげて口に運ぶ。パキンと音を立てて白い身が折れる。
(…………熱、あがった気がする……)
私が黙ってものを食べるのを、スツールに腰かけながら眺めて微笑む彼にそんなことは言えないまま、私は出された食べ物たちをゆっくりと味わいながら消化していく。あまりの優しさと愛に身が焦げていくかのように、顔は余計に熱くなっていくようだった。

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Fondere:溶かす // まろてんさんからのリクエスト作品