5.デートに行く

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「いま……、なんて言った? わたしに……恋人のフリしろ、って、言っ……?」
「……ああ。少し厄介な仕事になりそうなんだが、恋人同士って顔して忍び込むのが一番手っ取り早そうなんでな」

事務所の机越しに、まるでそんなの当たり前って顔をして淡々と仕事の説明をしてくるブチャラティを、わたしは声も出せずに見つめ返すことしかできない。
彼はいま私の目の前で言った。仕事のために、一晩だけ恋人同士って設定で現場に忍び込もうって、……わたしと、ブチャラティで。

――ブチャラティにわたしが片思いしてるのはもうずっとだ、でもその思いを直接彼に言わなくたっていいと思っていた。なんていうか、この人が好きだと思う気持ちがわたしの原動力になって、彼のためにがんばろうって思えるのが心地よくて、それだけでよくなってしまっていた。好きだからって一歩進んだ関係になりたい、次につなげたいなんてあまり思えなかったのだ。ただ同じチームにいられて、リーダーのブチャラティを支えられればそれでよい。

そう思ってわたし自身は自分の恋心をなんとか大人しくさせていたのに、……ブチャラティの方が無意識に掘り起こしてくるなんて夢にも思わなかった。なんて皮肉だろうか。……部下として彼を支えられるだけで満足だなんて思っていたはずなのに、わたしの心は確かに傷ついていた。〝フリ〟で恋人の顔をしなくちゃいけないという事実に。
でもそれを彼には悟られないようにする。どうにかいつも通りの顔を作って、ブチャラティが続けたその仕事の説明を静かに聞いていた。

「ホテル近くのナイトクラブを起点に、どうやらよくねえもんが出回ってるらしい」
「……クスリってこと?」
「……まだわからない。が、それを飲まされた女ばっかりが見つかってんだ。興奮状態か錯乱状態になって路上に半裸で立ってんのとかもザラだと」
「……」
胸糞が悪くなるような話だ。そしてわたしがこういう話を嫌うことも彼は知っていた。ブチャラティは一瞬目を伏せてから、そっとつづける。
「何が入ってんのかは不明だ。それがマジにやばいモノで、誰かのシノギになってんのか、あるいはただの砂糖の塊で、酒と一緒に飲んだりするせいででその気になってんのか……」
「……なんかやばい成分が入ってなくても、とりあえず売ってる人間をシメはするんだろ? そいつを殴ったら良いだけなんじゃないの?」
「……ああ、そうだ。だがとりあえずはそれが〝何〟なのか……ボスが知りてえのはまずはそこだ。殴るのは利害関係なんかを見極めたあとだ、と」

その歯になにか挟まったような物言いは、ブチャラティも、それがなんだろうと売りさばく人間を殴った方が早いと思っている表れに違いなかった。——それでも、できないのだ。いまのわたしたちには。
……恋人のフリなんて、どうかしてる。男同士のカップルだって薬は売ってくれるだろって話をズラすことも、あなたと恋人のフリをするなんてしんどいって素直な気持ちを打ち明けるのでも、とにかく言いたいことはたくさんあった。
だけど彼が抱えたその葛藤を目の前にして言葉を詰まらせたわたしより、ブチャラティが静かにささやく方が先だった。
「……女が食い物にされてるみてえで嫌だってんなら、別のを連れていくが……」
そんなふうに気にしてくれるのは嬉しいけど、あんまり気を使わせるのもイヤだった。任せたいと思ってくれた仕事なら、きちんとまっとうしたい。それがたとえ、胸糞悪くなるようなことでも、絶賛片思い中の自分にどれだけ酷な仕事だとしても。
「いや、いい。いくよ。……別のってったってうちのチームのやつらでしょ? もし受け渡しが女子トイレとかだったら探しにくいだろうし……」
「……そうだな、助かる。当日はミスタに車を出させる予定だ」
「……わかったよ、準備しておく」
そう返事したわたしを見つめて黙ったまま頷いたブチャラティの目はひどく静かで、慌てたりしてるのはどこまで行ってもわたしだけなのがありありとわかるだけだった。

わたしたちは斥候なのだ。
組織の手足であり、目や耳だ。そしてその手足も目も耳も、この組織ではいくらでも生え変わる交換可能なものだ。
その薬がなんなのかを詳しく調べるのも、調べた結果どうするかを決めるのも、わたしたちの仕事ではない。わたしたちはただ、対象を手に入れる、そこまでが仕事だった。
わたし自身は手足でまったく構わないのだけど、ブチャラティなんかをこのまま手足にしておくのは絶対にもったいないし宝の持ち腐れだ。
……でも本人は、そんな〝手足〟にお似合いな仕事に対しても真面目に向き合い、目の前の仕事をきっちりこなすのだ。今日の場合は、潜入のための変装なんかがそうだった。
クラブに潜入っていってもわたしなんかはただパッと見の印象が変わればいいだけだから、違う髪色のウィッグをかぶって普段は履かないような短めのスカートなんか履けばそれで終わりだった。
あれだけ街で目立つブチャラティの変身はもうどれだけ大変なんだろうとか思ってたけれど、意外にも大がかりなものにはならなかった。強固なイメージを持つ人ほどどこか少し変えるだけで人はわからなくなるものだと、彼の姿を見て思い知る。
服は普段と変えて、身体のラインを消すようなオーバーサイズのスタンドジャケットに黒の細身のジーンズを合わせる。それから、少し猫背気味に歩くだけ。……これだけでカタギの若者って感じが出るのは、本当さすがだと思う。
ウィッグはつけないにしろ、髪型も少し変える。いつものさらさらストンと落とした髪型から、前髪を真ん中で分ける。額を出すと少し幼い印象になるのが意外だった。いつもは丸く落ちていく後ろ髪はひとつにまとめて、メガネをかけ、黒のキャップをかぶったらもう――正直誰だかわからなかった。
わたしから見たら完璧な変身に見えるけど、ひげも伸ばしたかったんだが間に合わなかったとブチャラティが真面目な顔で言うからおかしかった。この真面目さこそが、ブチャラティそのものとすら思えるのだ。

変身したわたしたちを見て、車を回してきてくれたミスタは運転席でぎゃはと声を上げて笑った。
「おいおいおいなんだそれ! 一瞬知らねえ男がタクシーと間違えて乗ってきたかと思ったぜ!」
「……そんならよかった、成功だな」
どこか得意げに言うブチャラティにミスタはにやっと笑って見せてから、アクセルを踏んだ。

ミスタの運転で、遠くはない目的地にあっという間に車はたどり着く。先に降りたブチャラティを追って車から降りようとしたわたしを、ミスタがささやき声で呼び止めた。
「……なぁ、よぉ。お前、大丈夫か?」
「……ひどい顔してるかな」
「見た目の方はダイジョーブそうだけどよ、中身の方はそうでもねえかと思ってな」
ハンドルに身体を預けながら、ミスタはバックミラー越しにわたしを見つめる。……別に言って回ってるわけじゃないのに、わたしの思いは本人以外のチームの仲間にはバレていたのだ。別に彼らのうちの誰かが言いふらしてるんじゃなくて、ひとりひとりに静かに問われるたびに頷いてきただけだった。……相当わかりやすい人間なようだ、わたしは。
「……オメーがよぉ、これを役得とか感じられるくれーの人間ならよかったんだがな」
「……役得か……そう思えるように頑張ってみよっかな」
「がんばる、なんて言ってる時点でちげぇんじゃねえの?」
確かにそうだ。そう思ったのが顔に出たのか、ミスタはわたしの顔を見て眉を下げて笑う。哀れみと言ってしまうには優しすぎる、心配がにじんだ笑みだった。
「おい、何かあったのか?」
ブチャラティが車を覗き込むのに慌てて立ち上がる。
「ううん、今行く! ……ミスタ、ありがとね」
「いーや、ま、がんばれよ」
そう言い残してミスタの車はわたしたちを下ろして走り去る。ずっと止めたままでいるのも怪しまれるから、車はこのあと30分に一回ここを通りすぎる予定だ。わたしたちはそれにあわせて戻るのだ。

「……それじゃあ、いくか」
あくまで自然に遊びにきたって表情を浮かべて、……決めていた通りに、恋人らしく振る舞う為にブチャラティの腕を抱きしめるように自分の腕を絡ませる。心臓の音がうるさくなっていませんようにと祈る様な心地で、ブチャラティの手のひらを指で弄びながら歩いていく。手のひらの大きさ、指の太さの違いすら、片思いの身からすれば狂おしいほど愛しくて、感情をぐらぐら揺らされてしまう。
「……すまないな」
「え?」
「…………こんな風に触らせるようなことさせちまって」
心臓がひとつ、嫌な音を立てる。その口調は片思いしてる人間に対しての言葉なんかではもちろんなくて、わたしが仕事とはいえ異性にこうしてべたべたしなきゃいけないこと、それ自体を気にかけているようだった。
「なあ、前も言ったけどさ、わたしが男のチームメイトだったら言わないだろってことは言わないでいいよ。あんたの役に立てるのは純粋に嬉しいんだから」

それに、役得、ってやつなので。
……だけど、そうは言えないままだった。

わたしから力を込めても決して握り返されない手、ブチャラティのことだ自分から握り返して嫌な気持ちになったらとか考えてるんだろう。だけどそれは、……すごく寂しい。

クラブの入り口に用心棒が立ってたけど、他の人に混じってべたべたくっつきながら通り過ぎていくわたしたちを見事に無視した。ドキドキしていたけれど無事に入り口を通り過ぎ、クラブの中に漂う独特なこもった匂いとうるさい音に包まれてから、ようやく安堵で少し息がしやすくなる。
「……中に入れちゃえばこっちのもんかな?」
「ああ、だが……誰が見てるかわかんねえのも事実だ、もうしばらく辛抱してくれ」
「……」
だから辛抱じゃあない、っていうのに……。そんな文句を飲み込んで、わたしは自然を装って、バーカウンターを探すフリできょろきょろと顔を振る。
あたりを見回してみても目につくような怪しいのは見当たらない。
その間にもわたしはブチャラティの腕にひっかかってるままだ。

中にいるやつらはみんな、踊ってるか、カウンターで酒を飲んでるか。
あとは、……端の方でひとつの椅子にふたりでかさなってべたべたいちゃついているかだ。一番可能性があるのはそのベタベタしてる奴らだけど、……受け渡し自体がその椅子の上で行われているわけじゃあなさそうだ。

目配せを交わすと、芝居の始まりだ。

「……ねーえ、あっち、あっちみてみようよ。ちょっと踊ろうってば」
わざとらしい甲高く甘ったるい声に、ブチャラティは軽い舌打ちまじりで返す。
「あぁ? 先に飲むって言っただろ? めんどくせぇな……」
……ブチャラティの口から一番出てこなさそうな言葉だな! めんどくせえ、その言葉を聞いて思わずニヤつきそうでやばかった。少しの言い争いをして見せてから、もういい! そう叫んで分かれる。怒りにまかせてずんずん歩いていくフリをしながら、目はあらゆる場所に向ける。
ひとが潜むような暗がりを目の端に捉えながら進むけれど、隠し事をする人間特有のあたりをきょろきょろと探るような、自然を装って後ろを振り返るような仕草を見せるやつは見当たらない。

(……やっぱり、トイレかな……)

たどり着いた先、わたしは女性用トイレのドアをグッと押した。

……普通の顔していられるように頑張ってみたつもりだけど、出来てたかどうかはわからない。わたしを扉の向こうで迎えたのは、みだらな叫び声だったから。……流石に、一瞬めんくらう。
薄暗いライトにぼんやり浮かぶトイレの個室は半分が埋まっていたけれど、どこも用を足しているのではないことはたしかだ。薄いドアをガタガタと鳴らしながら、どう聞いても二人以上で何かをしている音が響く方に思わず顔を向けて凝視してしまえば、その表情を、大きな鏡に向かって化粧を直していた女に鏡越しに目ざとく見つかった。

「……あんたもああなりたい? だからここのトイレにきたんでしょ?」
「…………よく知らないんだけど、なんか飲めば、あれくらいおかしくなれちゃうって聞いたんだけど。それ、あなたがくれるっていうの?」
「……うん。何がほしいのか自分でちゃんとわかってる子には、最初はサービスしてんだ、タダで」

ちらりと、喘ぎ声というよりももはや叫び声のようなものが響くトイレのドアに目線をやる。ゆっくり頷いて見せたら、鏡越しに女はにこりと笑って手招いた。
呼ばれるがままに近寄っていくと——

「んっ…!? ぐっ、……!」

勢いよくグンと腕を引かれて、気づくと女に思い切り口付けられていた。混乱しているうちに、口移しで何か小さな粒を舌で押し込められる。
苦味が口いっぱいに広がる、咄嗟にはきだしかけるけど、これこそがふたりで探しにきたモノだと気づいてむせそうになるのをなんとか堪える。女の舌が、わたしの口の中を蹂躙する――。
「……っ、…はっ…」
ようやく解放されたと慌てて深く息を吸いこめば喉が痛む。女が付け直したばかりのグロスが、わたしのくちびるの周りにべたべたついたのを感じる。女は、親切でもしてやったと言わんばかりの満足げな表情を浮かべて言った。
「あんたが飲みたいんじゃなくて彼氏にのませたいなら、また口移しで分けてあげればいいよ」
その言葉にゆっくりと頷いて見せながら、わたしは冷静を装ってトイレを出た。口を押さえたまま、違和感はない程度に早足で離れようとするけれど、……少しずつ、錠剤をのせた舌がビリビリと痛み始めて、足が重くなってくる。

少しフラフラしながらもさっきのトイレからは十分に距離をとって、音楽に合わせて踊る集団の影に隠れてから、ハンカチの中に少し溶け始めた緑の錠剤を吐き出して包んだ。

(……ブチャラティ、は……)
あたりを見回すと、例の変装用の黒のキャップが視界の端に入り込む。こちらが声をかける前に人ごみの間から見えたその表情は、伊達メガネの奥の瞳が揺れるのがすぐにわかるくらいに動揺していた。
(そんな具合悪そうに見えるかな……)
ただ、自分でもわかるくらいに、ひどく酔ったときみたいに脈が早いのは確かだ。
「おい! ……お前、大丈夫か……?」
近寄ってきたブチャラティが、慌てた様子でわたしの背中に手を乗せる。温かい手だ、服越しにもわかるくらいに。
そのまま部屋の隅まで、肩を抱かれたままブチャラティに連れられて行きながら、これが仕事で、相手がブチャラティだから安心してられるけど中々な状況だな、暗がりのソファに座らされつつそんなことを思う。

「……ほーら。よだれでちょっと汚いけどたぶん本物だよ」
彼の目の前でハンカチを見せると、わたしの言葉と少し湿ったハンカチを見て、彼は少し目を見開く。

「……お前、これを飲まされたのか?」
「え? んん、まあ、ちょっとだけ。舌に乗っかっただけで、少ししたらほら、こんな風に吐いたし……ちょっと溶かしちゃったのは悪かったけどさ……」
そう言い訳してみたら、ブチャラティは少し怖い顔になってそうじゃあねえだろと囁いた。
「……どこかおかしいところはないか? 痛みとか……」
「……いまのところ、痛いところはないよ」
きゅっと彼の眉が寄る。こんな怖い顔して、ブチャラティはわたしのこと心配してるのか……そう思うと、わたしの心は簡単にぐらぐらと揺れだす、……心臓の音はさらに早くなる。
彼は小さくて透明なビニールをサッと取り出すとそれにわたしのハンカチごと放り込んでしっかりとチャックを閉じる。刑事が証拠とか集めるのってこんなかな、とりとめもなくそんなことが浮かぶ。これも薬のせいだろうか。
「……だが、よくやった」
その言葉と共に肩を軽く叩かれて、顔がふにゃりとゆるんだ。……仕事中にこんな甘えた顔が出たのに自分自身でも驚いたけど、ブチャラティはさらにビビったようだった。本当に大丈夫かどうか、探るように青の目がこちらを覗き込む。

「……立てるか? 今何も症状が出てないにしろ、早くここから離れた方がいい」
なんとか立ち上がるわたしを、ブチャラティは手を引いて入り口の方までつれて行ってくれる。その握られた手のひらを見つめていて、ふと浮かぶ言葉。

手を握られて、肩を抱かれて、……そんなの、ほんとに恋人みたいだ。
わたしが彼の恋人になんか、きっとなれないのに。

一度そんなこと思ってしまうとダメだった。うるさくなった脈、重くて動きにくい足に加えて、突然ぼろぼろと涙が出てきてしまう。
ブチャラティは歩みを止めたわたしを振り返ると、泣いてる顔を見て少し目を見開く。
――次の瞬間、彼は周囲からわたしの顔を隠すように抱き寄せてくれた。いい匂いがする、涙の奥でもわかるくらい、ブチャラティの香りがこんなに近い。

移動するぞ、そう囁かれてからすぐに、抱きしめられたままで壁に背がつくのを感じる。ブチャラティが、わたしを壁に押し込めるようにして、このクラブの空間とわたしを自分の身体で遮ってくれているのだ。彼の腕の中で余計に涙が止まらない。これはおそらく薬のせいだ。なんか感情が妙に昂って、泣けて仕方がないのだ。
「……本当に、痛みや息苦しさはねえのか? ……最悪、ここの壁をジッパーで開いて逃げるぞ」
痛くもないし苦しくもないと首を振って見せる。
「……脈が早いくらいで身体は平気だし、催淫効果もあるかは……わかんないけど……なんか感情がぐちゃぐちゃになる……。下手したらカフェインとかただそんなだけかもしんないけど、なんか……っく、ぐぅ……」
息を詰まらせてしゃくりあげるわたしの頭を、ブチャラティの手がやさしくポンポンと撫でてくれる、だからこそ余計にわたしは泣いてしまう。
「ほんとに、っく、ふ、ぅ……大丈夫、なの、なんか……涙が止まんないって事以外、全然平気なの、……っあー、ごめん……」
「……謝るな、これはオレのせいだ。何かなってもおかしくないって状況だったのに、オレの考えなしがお前を危険な目に合わせたんだ……すまない」
ブチャラティはそう言ってぎゅっと抱きしめてくれる。恋人ごっこのためのふれあい、恋人〝設定〟だからブチャラティはこうして抱きしめてくれるのだ。……わかって、いる。でも薬でぐらぐら揺らぐ心はわかってないみたいだ。
「……少ししたら車が来る。それまでに水でも飲むか吐くかして薬を少しでも出しておくんだ」
彼の言葉に頷いて見せる。ブチャラティはわたしの目をまっすぐ見つめると、自然な動作で、彼のハンカチをわたしの目の下にあてて涙を拭ってくれた。……偏見かもしれないけど、今の彼みたいな格好の男がハンカチなんかちゃんと持ってるわけないなって思ったら、〝ブチャラティ〟がにじんでしまってるそのハンカチだけでもう愛おしかった。

「……その子どうしたんだ?」
そんなことを思っていたら、突然聞こえてきた知らない男の声にびくんと身体が跳ねた。
横からかけられたその声につられてわたしがそちらを向く前に、ブチャラティがそいつからわたしを隠すみたいに、こちらの頭を手のひらで包むように抱きしめてくれる。
「……キマりすぎたみてえで、少し休ませてる」
いつもよりとがっているように聞こえる低い声が、抱きしめられた身体に直接響く。それを感じただけで、軽く身体が震えてしまったことがどうかブチャラティにバレていませんようにと祈る。

「……アレが効きすぎたってことか?」
続く男の声はへばりつくような不快感を与える声だった。ねっとりとした視線を、ブチャラティが隠してくれている彼の身体越しにすら感じるくらいだった。
「……なあ、熱を逃すの手伝ってやろうか? ここでこうなっちまう女の子、結構いるんだよな……。オレは部屋も取ってるんだ、良かったらふたりで休んでけよ、……女だけでもかまわねえが。ほら、来いよ……」
男の声にかぶるように、バシッ、と何かを叩くような音が聞こえてから、痛え、そんな男の呟きがつづく。……おそらく、こちらに伸ばされた男の手をブチャラティが勢いよくはらったのだ。ブチャラティのもう片方の手がきゅっとわたしの頭を抱えてくれるのを感じて、そっと彼に縋り付くように頭を寄せる。やさしい、ブチャラティはものすごく、やさしい。
「……触るな」
そのブチャラティの声は、今までに聞いたことがないくらい低く鋭く、思わず首の裏がぞくりとなる。そしてそれは、……ずうずうしく言うのが許されるのなら、私を守るために発せられているのだ。そう思うと、胸がきゅうっと苦しくなる。ああ、……だめだ、わたしブチャラティが好きだ、その気持ちが勝手に大きくなって止められない。

「……おいおい、目ェがこええっての……」
男はそんなことを呟きながら離れたようだった、足音が遠ざかっていく。
それでホッとしたのか、さらに一瞬でわたしの目からはどばっと涙があふれて、息がしにくくなる。……苦しい、片思いはしんどい、……でも好きだ。こんな状況でも。……精神がぐずぐずにされて簡単に揺らぐ今、いくらでも泣けて泣けて仕方なかった。

でも、……わたしがここにいるのは仕事のためだ。……こうして抱きしめられてるのもそうだ。
そっと抱かれた腕の中から見上げたブチャラティ、男が去った方向をにらみつけている彼の表情は鋭くて、顎のラインの芸術品のようなシャープさも相まって、今まで見たことないくらいに美しかった。なんてきれいな人なんだろうか。ずっと一緒にいて、また新しい顔が見られるのが嬉しかった。そしてそれは、わたしが彼の部下としてそばにいられるから見られたものに違いない。わたし自身、ブチャラティの部下でいるときの自分が一番、好きだったのだ。
ごしごしと目を乱暴にこすって、深呼吸をしてからささやく。
「……ね、ブチャラティ……あの言いぶり、あいつ なんか知ってんじゃあないか? 吐かせるならあいつだろ。色々と……準備が良すぎる気がする。部屋ってさあ……」
「…………かもしれねえな。オレが追う。……お前、しばらくひとりで平気か?」
「……んな心配はいらないし、わたしも一緒に行くよ。じゃないと来た意味ないし……」
涙はまだしばらく止まりそうにない。だけどそれだけだ。泣きながらでもブチャラティのために動くことはできる。もう一度手で目のあたりをぬぐうと、わたしを壁に押し付けていたブチャラティの肩のあたりをそっと手のひらで押した。
わたしを見下ろしたまま、ブチャラティは一瞬固まる。早くいかないと、そう口走ったわたしに少しもたついた返事をしたと思えば、ブチャラティは、……一度、わたしを強く抱きしめた。それはさっきまでの涙を隠すためとか、恋人のふりとか、そういうものと少し違っていた。何だか子供がぬいぐるみに抱きつくような、そんなぎこちなく、でも温かいものを感じてしまうようなぎゅうっと強く優しいハグだ。わたしはその一瞬であんまりびっくりして、彼の腕の中で目を見開いていた。

「……よし、行くぞ」
「え、う……ん」

でも次の瞬間身体を離したブチャラティはいつもどおりの表情をしていて、今の何だったの、そんなことも聞き返せない。
確かに混乱したままだったけど、わたしたちは仕事をしにきたのだ。そう自分に言い聞かせながら、ふたりで静かに男を追いはじめた。