何ともなしに、人の活気が浴びたくなることがある。それも、酒の匂いがしない、健全なやつだ。それはだいたい、徒労を感じる仕事のあとであることが多かった。長く埃っぽい、ケツが痛くなるだけの憂鬱なドライブの末、偵察に行った先でこっちがヤキ入れる前に相手がすでに、自分でこめかみに当てた拳銃で頭を吹っ飛ばしてハエにたかられてたりする、そんな日だ。
活気を浴びたい、そう思った時ネアポリスにはそれが可能な場所がいくつかある。ただ、今日は観光客の集団に揉まれる気持ちにはなれなかったから、果物でも買うつもりで市場を訪れることにする。
市場を少し歩くだけで口々に声がかけられる。あれを持っていけブチャラティ、これは買ったかおまけにしてやるよ、……そんな調子で、オレンジをいくつか買っただけのはずなのに、最終的に巨大な紙袋を抱えて帰ることになるのだ。
「ブチャラティ!」
「なんだい、シニョーラ」
声をかけてきたご婦人に、明るい声で返事をする。
「あの子、どうにか助けてやってくれないかね? 話しかけてみたんだけど、うまくしゃべれないみたいで」
彼女が指差した方を見れば、小柄なアジア系の少女が肉屋の前でおろおろしているのが目に入る。店主もお手上げだ、と言わんばかりに、肉切り包丁を持ったまま手を広げて肩をすくめているし、順番を待つ客が山になってちょっとした人だかりになっている。
「……わかった、見てくるよ」
「頼んだよ、ありがとねえ」
人だかりをかき分けるように近づいて、件の少女に声をかける。
「なにか困ってるのか?」
声をかけられているのが自分であることはかろうじてわかったのだろう、勢い良く振り返ってこちらを見上げるが、彼女は困った顔のまま何を言おうともしない。
「……ことば、わからないのか」
記憶を手繰り寄せるように絞り出した英語でなんとか聞いてみると、意味がわかる音に反応したのか、少女はぱっと表情を明るくした。とにかく店の人間に何を聞かれているのかわからない、など、どこかおどおどした印象を受けるような口調で返してくる。英語も若干あやういようだが、イタリア語よりはましなのだろう。再び記憶を引っかき回しながら、英語で説明してやる。
「……ここで肉を買うには、最初になんの料理にするつもりで肉を買いに来たのか、っていうのを伝える必要があるんだ。わかるか?」
「あぁ! わたし、この人、ここで食べる? って聞いてるかと……思って。持ち帰る、って言ってるのに、って……あの、……ありがとう、シチュー、つくりたいの」
「……煮込み用の肉を見つくろってくれ」
店主に伝えてやれば、彼もホッとした様子でうなずきながら、慣れた手つきで肉の塊を切り分けていく。その手さばきを、彼女は物珍しそうに見つめていた。
そして切り分けてもらった肉の塊を入れた大きな袋を抱えたら、余計にその小柄さが目立つようになった少女は、おぼつかない口ぶりで「ぐらっつぇ!」と笑顔で手を振って消えていった。
(……あいつはなんだ? こんなとこで肉なんか買うんだから観光客じゃあなさそうだが……この辺じゃ見ねえガキだな)
ひとりごちる間に、先ほどの老婦人がにこにこしながら近寄ってきた。
「ありがとうねえ、さすがブチャラティだよ。わたしじゃ手助けできなくて心苦しかったからねえ」
「あいつは……誰だかご存知ですか?」
「最近このへんで見るようになった子だよ。いい子だけど、なーんかどんくさくってねえ。見かけるたびちょっとハラハラしちまうのさ」
そこまで言って、彼女はキョロキョロと周りを見渡してから、声をひそめて続けた。
「しかもあの子、あの……路地でたむろってるろくでなしが、家族だか親戚だかって言ってるらしくて。……それもほんとかどうか! わからないよ、でもとにかく、彼女自身はそいつ以外には身寄りがない、そう思ってるんだよ。……よかったらブチャラティ、あの子を見かけたら気にかけてやってくれないかい? いつか何かに巻き込まれないか心配なんだ」
「……!」
彼女が言った〝路地〟は、四六時中ろくでもない人間が、ろくでもないものをやりとりしているような薄暗い場所で、まともな人間なら昼間だって避けるような所だ。そして——ある種の麻薬もまた、そこでやりとりされていると言われている。しかもそれは良くも悪くも、そこから広がるブツとパッショーネとの繋がりはほぼない。大陸系のマフィアが移民の仮面をかぶって暗躍していることはわかっているが、やつらは決して尻尾を出さない。たとえその尾を掴んだとしても、それはちぎれるべくしてちぎられた下っ端でしかないのだ。派手な動きがない分、今パッショーネとそいつらはにらみ合ったまますれすれのところで均衡を保ち続けている——。
自分の眉間に深いシワが刻まれるのを感じながら、オレはそのご婦人の言葉に頷いていた。
その日から、仕事終わりや仕事中、時間さえあれば自然とその市場周辺に足が向くようになっていた。
はじめは、あのガキはあんな路地でどうやら平気で暮らしているわけだ、……幼いなりで実はマフィアの一味なのかもしれないと調査するつもりでもあったわけだが、……あいつと顔をあわせる度、だんだんとそれは無茶な話じゃないかという思いが強くなる。
オレがいくら探りを入れてみたところで、あいつは人懐っこい笑顔を浮かべて一切の嘘もなく返してくるだけなのだ。こんなガキにしてやられるほどヤワな洞察眼は持ってない。それにやましいところがありゃあ普通なら、何度も探りを入れられれば焦りやイラつきが出てしかるべきだろうに、むしろ声をかければかけるほど、こいつはあからさまにオレに懐き、遠くにオレの姿を見つけた途端に手をふって寄ってくるようになった。オレの正体はギャングなんだと明かしてみたところで、でも街であんなにまわりの人に信頼されてるひとが悪い人なわけがない、なんてはっきり言い切った。
……このガキを説明する言葉としては、とんでもない平和ボケ、というのが正しいのかもしれない。
あいつは大体、市場が見渡せる日当たりのいい公園か、波音が伝わる海沿いのベンチで見つけることができた。そこで一緒になってたむろってくれるような仲間も持たないまま、ただ一人で辞書を引きながらペーパーバックを読んでるか、小さな手帳にスケッチか何かを書き付けているか、だった。
あいつはオレと顔を合わせるたびに、——目があうだけであからさまに顔をパッと明るくして、声を弾ませてオレの名前を呼んだ。
「ブチャラティ! こんにちは!」
少しずつ適当な会話をするたびに、徐々に言葉がしっかりしてきているのを感じる。ずいぶん勉強熱心なようで、会話の中でわからない単語があるとすかさず質問してくるのをいちいち答えてやっているうちに、もう一人であの店で肉だって買える、なんて言ってのけるようになった。
ただ、何度その姿を見かけても、とにかくこいつが誰かと一緒にいるところは見たことがなかった。……もしかしたら、この街に友と呼べるような相手がいないのかもしれない。だからこそなのか、それがどんなに短いものだろうとオレとの日々の会話のたびに、本当に嬉しそうな顔を見せるのだ。
(……でも、こいつ……一人なのはいいが、ちゃんと学校は行ってんのか?)
そう気になって、いつか聞いてみたことがある。だが言葉の意味がわからなかったのか、一瞬固まったあと、「あー、」そう呟いてから続けた。
「これでも、日本の……ええと、義務……教育? は卒業したよ。心配してくれてありがとう」
そう言われてはじめて、こいつが日本からわざわざやってきたことをと知った。当初関係を疑っていた大陸系のマフィア、との糸がオレの中でほぼ切れると同時に、平和ボケ具合の理由もわかってしまったわけだ。
……それにしても、上から見下ろしてみると体感的には、オレの半分くらしかないんじゃねえかと思うような低い背に幼い顔つきで、義務教育は終わってるなんて言われてもにわかに信じがたいが、遠い島国の教育制度になんて詳しくはない。きっと日本では義務教育ってのがとんでもなく短いのだろうと一人合点する。そのぶん詰め込んでるから、日本人ってのはあくせく働きまくってるのかもな、そんなことを心の中で呟いてからふと顔をあげれば、近くにジェラートのワゴンが立っているのに気づく。
「……なあ、お前ジェラートは食わねえか? 奢ってやる」
「え、そんな……悪いよ」
想像した通りに尻込みするあいつに、ギャングが甘いもの買い食いしてるっていうのより、ガキに奢ってやってる、って方がカッコがつくとは思わないか? そんなことを言ってやれば、あいつはなぜか照れたように笑って、「それじゃあ、おごられる」なんて言いながら、ワゴンに向かうオレのあとをついてきた。
マフィアとの繋がりに対しての疑いが切れてからは、家の中に居場所がなくて街をたむろっている他のガキと同じように目をかけてやっているつもりだったが、多分こいつは……他の誰よりもオレに懐いていた。しかも、手放しで。会うたびに交わされる会話の節々にみなぎるあいつの「嬉しい」という気持ちはあまりに直球すぎて、時折こっちが気恥ずかしくなるくらいだった。凪いだ海のような透明な表情で静かに本を読んでる姿から、ふと顔を上げてオレが目に入った瞬間の表情の変わり具合に、いつだって驚くし、いつだってどこか照れくさく感じる。
今のところ、例の路地を根城にする親戚とやらがどれほどろくでなしだとしても、あいつに対して暴力をふるったり、嫌な思いをさせたりはしていないらしい。そういう目にあったやつは大概、必死に隠そうとするものだ。しかし、それをこいつから感じ取ることはなかった。これは数少ない自慢のひとつだが、オレは家で殴られるようになったガキに対する直感、あるいは嗅覚は鋭かった。……だがもしもそういうことになれば、やはり他の子供に言っているように、俺の家に住んだってかまわないと伝えてやるつもりだった。
しかし、ほとんど毎日顔を合わせていたはずなのに、あいつはある日突然姿を見せなくなった。……別にもともと、いつどこで会うかなんて約束はしていなかった。市場の周りの人間にきいてみても、何かに巻き込まれたという噂こそ聞かなかったが、「日本に帰ったらしい」という、あくまでも伝聞口調な言葉が少なからず耳に入ってくるだけだった。
海風と太陽の光を浴びながら読書をする毎日なんて、誰よりも自由を謳歌しているように見えていたが……会話する他人がオレしかいないような日々は存外寂しかったのかもしれない。だが母国の地なら、ひとりで過ごすこともなけりゃ、治安もここよりかはマシだろう。
そんなことを考えながら、オレは仕事帰りの雨の夜道を寝ぐらへと急いでいた。いくつかある寝ぐらと呼べるような部屋の中の一つで、一番町の人間に知られているであろう場所だ。おおっぴらにしているぶん危険が伴うというよりもむしろ、そこまであけすけにしている場所に滞在している確率の方が低いと思われているのか、厄介ごとが舞い込むよりも、この地域に住む人々からの差し入れやパーティの招待状がポストに突っ込まれていることの方が多かった。
しかし、……その日、アパートメントの前、濡れた石畳の上に黒く濡れた何かが落ちているのを遠目で見つけて、オレの精神はすぐに臨戦態勢に切り替わった。見慣れないものに対していつでも攻撃できるように神経を張り巡らせるのは、もう癖みたいなものだった。そしてその癖が、何度もオレの命を救ってきたのだ。
握った傘をどのタイミングで放り出して攻撃に徹するか逡巡しながら、雨の降りしきる中〝何か〟へと静かに近づいていく。……だが、近づけば近づくほど、違和感が大きくなり、かわりに緊張が失せていく。そしてあと数メートルのところで、その濡れた塊はぱっと白い顔をあげて、オレを見たのだ。
よく見ればそれは——濡れたまま地面にうずくまる、……日本に帰ったはずのあいつだった。
寒さからか、震えて口も回らないずぶぬれをとりあえず家にあげて、タオルを渡してやる。こわばった体では髪を拭くのにも手間取っていて、思わず手伝おうと手を伸ばしたら、まるで傷ついた獣のように彼女はあからさまに体を恐怖で硬直させた。
「…………なあ。何があったんだ。話せるか? 冷えてて落ち着かないなら、シャワーも貸してやる。お湯の出だってわるかないぜ、この部屋は」
その提案にあいつが小さく首を振ってからどれくらいたっただろうか、……しばらくして彼女が震えながら話した顛末はこうだ。
要は、だまされていたのだ。遠い親戚だっていう男は、家族を求めたこいつを……麻薬の運び屋にしただけだった。その親戚がマフィアだったかはわからないが、あまりにもちゃちなやり方だ、おおかたただのチンピラだろう。ただ、目の前で震えるこいつが日本に身寄りがないのは本当で、こいつの日本の親戚かなんかがイタリアに嫁いだのも本当らしいが、話を聞く限りその男との血の繋がりがあったかどうかも怪しい。
ネットで急にメッセージをおくりつけてきた男は、彼女の家族構成も住所も知っていて、遠い親戚だと言ってきたそうだ。
日本でも頼れる身寄りがいなかったこいつは、その言葉を信じ、その男に頼まれた〝お土産〟を受け取って飛行機に乗ったのだ。
「……ばか……だよね。それでも、こっちにきてから……しばらくは、よくしてくれたのも、……本当だったんだよ」
それにしても、空港で何にも知らねえこいつがほいほいと麻薬を持ってこれたのは奇跡に近かった、……決して起きなくていいような奇跡、だが。確かに、こんな日本人のガキが薬を持って旅行に来るとは誰も思わないのだろう。それにしても、奇跡だ。
だが、知らないうちに麻薬の運び屋になってしまったが故に、ある日見知らぬ男に「お前が運んだブツの数がとんでもなく足りない」とイチャモンをつけられ、追いかけ回された挙句、その落とし前をつけろと言われたらしい。おおかた〝親戚の男〟が味見でもして罪をなすりつけたんだろう。慌てて帰宅したところ、そいつはとっくに家から金目のものを持って消えていたそうだ。
……黙って聞いているだけで、反吐が出そうになる。知らず知らずのうちに握りしめていた拳の中で、爪が手のひらに食い込む。
「……足りないぶんのお金が工面できないなら、……か、身体を売れって、」
その一言をきいて、せめて冷静であろうとしていた決意を簡単に吹き飛ばしちまうほどあまりにも苛烈な感情が一瞬で全身に回って、怒りで目の周りが熱を持ちはじめる。
——また、麻薬だ。またそれで、目の前でなんの罪もない人間が人生を狂わされそうになっている。
激しい怒りとどこかからやってきた自己嫌悪とがないまぜになった醜い感情が毒となって身体中を焼いていく、自分の全てを捧げた組織と切り離しきれない地獄があるということに、喉の奥からせり上がってくるものがある。
「……でも、……わ、わたし、……まだ、誰ともしたことがなくて……は、はじめてが知らない人なんて、いやだ、って、思っちゃって」
……そして、なおも続く悲鳴のような言葉に、こんなガキみたいな身体をわざわざ金を出して買う男がいるというのか、ということに、重ねて反吐が出そうになる。そんなのは、色事でもなんでもない。ただの薄汚れた支配欲しかそこにないのは明白だった。
ガキがギャングになるのとは全く違う、力を得る代わりに危険に飛び込むのとくらべてこれはただ……搾取されるだけだ。下手すると、命までをも。
ひとつの邪悪の腐臭に麻痺するたびに、新しい地獄が口を開くのだ——。
「ブチャラティ、お願い、はじめてが知らない人なんて嫌だ……だから、わたしと……」
「……な、」
助けを求めた言葉が、予想外のところに着地して思わず目を見張る。……この状況をどうにかしてくれではなくて、なんでオレと寝てくれ、なんてことになるっていうんだ?
混乱しながらも彼女の言葉を促せば、こいつは知らず知らずとはいえ犯罪に荷担したことをひどく悔いて、ひどい目にあうのは当然のむくいなのだと思っているようだった。
「……でも、せめて、はじめては……て、思って、……ブチャラティ、おねがい、……して、くれる?」
「…………いや」
地獄、ここは地獄だ。そして、こんなのはここじゃありきたりですらある、地獄だった。
だが、だからと言ってそのまま地獄が広がっていくのを黙って見ていることは出来ない。
まだ震えたままの目の前の相手を怯えさせないためには、怒りの隙間からはなんとか短い一言を返事として絞り出すので精一杯だった。が、こいつは恐怖からか視野狭窄を起こしたまま、オレのそっけない返事に必死になって変なことをべらべらとまくし立てる。
「わ、わたしなんかが相手じゃ嫌だよね、……あ、でんき! 真っ暗にして、わたし声も出さない、から、出さないように頑張るから、片付けも何もぜんぶ自分でやるから、他の、綺麗な人のことを考えててもらって……」
そうじゃない、何もかもそうじゃない。
……それに相変わらずがたがた震えてるこいつはただ、この国で知ってる相手で、ちょうどいい年齢の人間がオレしかいなかったってだけだろう。ただ、それだけだ。
……自分の心の中で囁いた言葉に、自分自身で少しだけ傷ついて、驚く。オレはこいつに、いつか、……純粋に求められたかったっていうのか?
だが、自分でも気付いていなかった勝手な感情の動きに動揺したせいか、怒りに燃えていた頭はある程度冷えた。それだけはよかった。
こいつをこれ以上傷つけないように、ただフラットに慎重に、当たり前みたいな言い方で返す。
「しないと言ってるだろ、……するにしたって、お前が18になったら考えてもいい、ってくらいだ」
「でも、今じゃないと意味が……!」
悲鳴のような声を遮るように続ける。
「そしてお前も、そもそもその仕事はやらない。お前は巻き込まれただけだ。話は俺がつけてやる。かわりになにか……仕事がしたいなら、そんなものの穴埋めなんかじゃなく、……リストランテかなんかで働け」
市場で見た、肉を抱えてシチューを作ると言っていたこいつの嬉しそうな顔を思い出して、気づいたらそんなことを言い切っていた。
その、記憶にあった幸福な顔からは一番遠い表情で、オレの目の前で彼女は顔をくしゃりと歪め、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。
「ご、ごめんなさい、ブチャラティ……あなたの手を煩わせる気はなかったの……ごめんなさい……」
「……なあ、そんなことであやまるな。頼むから」
思わず、タオルをかぶったままの濡れた頭に手が伸びた。また怯えられるかと思っていたが、今度は泣きながら、こいつは素直に撫でられていた。
「ブチャラティ……」
夜中に悪夢で目覚めてしまった子供を思わせるようなやり方で、こいつは泣きながら、よろよろとこちらに手を伸ばしてきた。自然にそれを受け止めて、その涙が落ち着くまで、オレは熱の塊を抱きしめていた。
まるでこどもだ、本当に。今さっきオレに抱いてくれと言ったわりには、そんな雰囲気には決してならない、子供が抱きつくような幼い触れ方。親に抱きしめられたこともないような、そんなおぼつかない抱きつき方だった。すがりついてくる身体を抱きしめ返しながら、何故か心臓がきゅうと締め付けられる。
(これで救えたと言えるのだろうか、……これで)
人生が航海だとしたら、それが晴れた風の穏やかな日ばかりの人間もいれば、何をしなくとも気づけば大嵐に見舞われているやつもいる。いま腕の中で震えているこいつは、後者だった。突然の突風に煽られボートが転覆しようとしてる人間を見てしまえば、人は咄嗟に手が出るものだ。
こうして抱きしめてやるだけでは何が出来るわけではないが、……せめて緊張がほどけるといい、そう思いながら、オレは軽く腕に力を込めた。
……そしてガキだガキだとばかり思っていた彼女の「18になったら」という言葉の、18歳を迎える日、それはオレの想像に反して数年後などではなく、数ヶ月後にはやってくることを知ったのはそのすぐあとだった。