「……ッ…おい、お前……今日が何だか知らねえわけじゃあねえだろうが!」
薄暗い路地、回収車なんか永遠に来ないゴミ袋の横をずりずりと這っていく男が、オレを見上げながら吐き捨てるようにつぶやく。
「今日は……なあ、おい……ナターレだろ……? なんだってよりにもよってこんな夜にわざわざ取り立てになんかきやがんだ……こんな日、悪魔だって大人しくしてんだろうがよ……」
ひとつ向こうの通りでは、きらきらとライトが輝き、クリスマスマーケットという名目でいつもよりも屋台が増殖しているのは事実だ。……だが、
「そうかい? まあオレは悪魔じゃなくてギャングだからな」
「クソが……疫病神め!」
「…………言ってろよ」
今日がナターレの夜だということと、こいつが借りた金を返さねえことには何の関係もない。
力の加減をしてやるつもりで、振りかぶらずただ重力に従って拳を男の顔面に叩き込む。衝撃と共にぱきんと軽い音が指の下で響いた途端、情けねえ悲鳴が路地に響いた。
「おいおい、〝ナターレの夜〟には合わねえんじゃあねえか、そんな声はよ」
止まらない鼻血を必死に両手でおさえようとする男を真顔で見下ろす。
「これに懲りたらさっさと出すもんは出すんだな」
これ見よがしに、ふたたび拳をゆっくりと握って見せながらじりじりと距離を詰めていくと、男は懐から黒いポーチを何とか引っ張り出す。その中から、きたねえ血に汚れたままの手で札を掴みだすと地面に叩きつけた。
「うるせえ! このッ……守銭奴の……不敬虔な豚が!」
捨て台詞を言いながら、しかしなんとか立ち上がると今度はオレに向かって掴んだ金をぶつけてから、一目散に逃げ出す器用さには素直に感心してしまう。
不敬虔、か。
ギャングに何を言いやがる、そう思うと一瞬、口角がにやりとゆがむように持ち上がる、が、それもすぐにかき消えた。
オレは地面にしゃがみ込むと、あいつが雑にぶん投げたせいで路地に散った、血に汚れた札を一枚ずつ拾いあげ懐に収めて立ち上がる。
「……」
薄暗い路地から出ると、あの男が言ったように、街はナターレ一色だ。
建物は電飾をまとい、出店が更に広場を埋める。浮かれざわめく人々の声が、いつのまにかどこからか聞こえてくる歌声が、夜遅くまで楽しげに響くのだ。
「おや、ブチャラティじゃあないか! ブォン・ナターレ!」
「……ああ、ブォン・ナターレ、モレッティさん」
大きな通りに出た途端、突然かけられた声に一瞬息が止まった。気のいいバールの親父が声をかけてくれたわけだが、……その唐突な声に、暗い路地でみなぎらせていた殺気が消せている気がしなかったのだ。だが、なんとか笑顔で返せた自分に安堵する。
『よいナターレを、』これは当たり前の挨拶だ、この時期には毎日交わされるような。何も特別なことなどない。
だがこの夜に、この街の中にいるだけで身のおさまりの悪さを感じるようになったのは……いつからだったか。
12月に入ってすぐに、ナターレに向けて街は浮足立った空気を漂わせ始める。
建物を覆い、頭上に張り巡らされたイルミネーションが柔らかく光り出す。プレゼーペやらチョコレートやらの屋台はどんどん数を増やし、当たり前の顔で路地を浸食する。
大量の食べ物を買い込む母親たちに、プレゼントの買い物袋を抱えた父親たち。幸福そうな非日常の雰囲気が街全体を包む。
そんな街の中を歩いていると、オレとはかかわりのないことでこの世界が満ちているというその事実に飲み込まれそうになる。
……だからこそ、毎年この時期はギャングでもまがりなりに家族を持っているような奴らの代わりになんでもやった。立ち止まってしまう時間ができないように、できるだけ、このナターレの雰囲気から離れられるように。
男を脅して回収した血がついた金は、自分たちのねぐらとは別の、金勘定を扱う事務所に収める。鼻を折られたあの男はそこそこの額を地面にばらまいていったわけだが、完済にはまだまだ程遠い。きっと年明けまた会う羽目になるだろう。
金勘定を任されるってことは信頼はされているんだろうが、普段ならば机に足をのせタバコをふかすだけの死んだ目をした男たちが並ぶ事務所も、今は人気がない。
ああ、あいつらにもこの夜に行く場所があるのかと、ふと不思議な気持ちになっていた。
オレは一人、誰もいないアジトに戻ると、身体を投げ出すようにソファに転がった。電気もつけないままの狭い部屋は静まり返っている。時折、冷蔵庫か何かの発する虫の羽音のような低い音が響いて、そして消える。完全な無音になった中、オレはひとりぼんやりと天井を見上げていた。
ふと、自分から漂う汗と土埃の匂いが気になり出してしまって、のろのろと立ち上がる。何があるかわからない仕事だ、狭いアジトにだって小さなシャワールームが備え付けられていた。
乱雑にスーツを脱ぎ捨てて、シャワーのコックをひねった。頭のてっぺんから身体を撫でていく水は世界との境界線である肌を意識させて、いま、この場所にオレを縛り付ける。
どこについていたのかも自分ではわからない返り血が赤い線になって渦を巻き排水溝へ流れていくのを、オレはぼんやりとながめていた。
いつからナターレが苦手になったのか。……そんなの、本当はとっくにわかっていた。
あの事件のあとからずっと、この季節に自分の居場所はないと感じていたのだ。
――オレの記憶に一番染み付いて残るナターレの風景は、父の病室の中だった。
父さんが入院していた病院はその地域の中でも大きい施設で、病院の中に小児科もあったのだ。ほとんどの季節を病室で過ごす子供たちのための教室もあったし、もちろんナターレのお祝いもそこで企画されていたのだ。
父のベッドの隣に座っていると、扉の向こうから遠く、かすかに子供の歓声が聞こえてくる。この場所が病院の中なのが嘘みてえなくらいに、普段は聞くことのない明るい声がここまで響くのだ。いつもは一人ぼっちで闘病している彼らのもとに今日ばかりは両親が揃ってやってきて、家族が共に過ごせる喜びを分かち合う。
そのせいなのか、ナターレの日は病院全体が明るい雰囲気に包まれていた。
だが、オレと父さんが過ごす白い病室は、ナターレを祝う光に飾られた外の世界からは隔てられていた。
オレは、長いまどろみの中にいるままの父さんの姿をただ見つめているだけだった。
ひとつひとつもらったプレゼントを開けているんだろう、子供の歓声は何度も続く。どこからか歌声が響いてくる、それはもしかすると病院の外からかもしれない。歓声と笑い声と歌声、とにかくそんな声が父さんの病室にまで届くたび、こうして父さんといられるという事実がなんら損なわれるわけではないのに、何が悲しいのかうまく説明できないまま、自分の胸が軋んで痛むのを感じていた。
この日だけは、看護師たちも何も言わずにオレが父さんのベッドで一緒に眠ることを許してくれた。
普段なら宿泊するなら何と何と何に漏れなく記入しろここで寝るな付き添いの人間用の仮眠室に行けとかうるさい彼女たちが、そっと見て見ぬふりしてくれるのがありがたかった。
父さんの身体が温かいことに静かに安堵しながら、オレは静かに彼のベッドに潜り込んで、囁く。
「……父さん、……父さん」
返事はない、でもオレはささやくように呼び続けることしか出来ない。
プレゼントなんていらなかった。その代わりに、もう一度オレのことをあの優しい声で呼んでくれたらいいのにと、ただそう思っていた。
そんな風に願いながらも、返事が無いことを知りながら、オレは何度もかすれる声で、大好きだった父のずっと細くなってしまった腕に触れながら彼を呼んだ。
父さんの命をつなぐための機械が立てる規則正しく無機質な音と、オレが父さんを呼ぶ声。時々聞こえて来る、病室の外からの〝幸福そうな声〟にかき消されるもの。
白い病室で家族と共にむかえるナターレ、そこにあったのは狂おしいまでの寂しさと、それでも父さんのそばにいられる喜びと、その身体が発する熱への安堵と心地よさ。
オレのナターレに満ちていたのは、ただそれだけだった。
……どれもガキの頃の話だ、すべて過去となり遠ざかったはずの痛みは、それでもまだ確かに残っていて、心の薄い表面に傷をつけていく。
オレはもう誰かと共有できるナターレの記憶の方が遠くなり、だからこそ自然とナターレにひとりで仕事を片付けるようになったのだ。そしてできるだけろくでもない人間に対峙するものがよかった。……そう考えると、今日のあいつじゃああまりにも素直すぎて、小粒なくらいだった。
深く沈み込むように考え事をし続けていても、人間の身体は記憶した通りに無事にシャワーを浴びられるらしい。そのことにどこか感心しながら、汚れを洗い流した身体で元のように服を着込む。……一瞬、もう家にも帰らずにここで夜を明かそうかとすら思ったが、やめた。おとなしくスーツの上に紺のロングコートを羽織る。
この街は、というよりもこの国全体が年明けまでこの調子なのだから、抱えた感傷の逃げ場がないのはどこにいたって同じだった。……酔って何かに溺れるのは得意では無いが、1日くらいやってみてもいいのかもしれない。そんなことを思いながら、明るいイルミネーションの光を避けるように道を選びつつ、なんとか家にたどり着く。
そっけない作りのアパルトメントだ、廊下は屋内で風は防げると言っても、底冷えする寒さまでは遮れない。……そのはずだが、オレの部屋のドアの横にはあからさまに誰かが籠城していた形跡があった。ストールか何かかの布が地面に敷かれていて、雑誌が開いたままでその横に落ちていた。近くにはまだ温かいキャンドルまで置いてある。
……ホームレスだろうか。
そう思った瞬間脳が勢いよく思考を始める。保護施設でもクリスマスに空きがあるとなると思い当たるものがほとんどない。そうなりゃあ一旦教会に相談して、……もしそちらでも空きもなかったら家に住まわせてやれるだろうか、少しの間ならおそらくは――。
「……あ! おかえり!」
仕事モードの思考をぶった切るような突然の声に驚いて、勢いよく振り返る。
「ナマエ……!?」
そこには、決して今日ここにいるはずのないオレの恋人が立っていた。鼻先を赤くした顔で微笑みながら、手には分厚い緑色のマグカップを握っている。
「おかえり、ブローノ! あーすれ違わなくてよかった! 寒いからちょうどそこの屋台でホットワインを買ってきたところなんだ」
そのせいでブローノがせっかく帰ってきたの気づかないでずっと外にいるとしたらしんどいからね、本当ラッキー!と、なんでもないようにそう続けた彼女に向かって、思わず囁く。
「……きみ、一体……何を……?」
「ん? ブローノを待ってたんだよ。これまだちょっとはあったかいと思うから……飲む?」
彼女の勢いに丸め込まれるように、押し付けられたマグに言われるがまま口をつける。
果物の風味より気化したアルコールの方が先に口の中に飛び込んでくる。その焼けるような感覚に、身体の内側を炎が舐めたようなイメージが湧く。
全く状況がつかめないままのオレにホットワインを飲ませている間、彼女は籠城の名残をテキパキと片付けまとめていた。あのストールも雑誌もキャンドルも、彼女の私物だったらしい。
「……どれくらい外にいたんだ? 俺が来なかったらどうするつもりだったんだ……」
「そしたら……クリスマスマーケットでも冷やかして、適当に帰るつもりだったよ」
鍵を開けてやって、先に部屋の中へと通す。……何かに巻き込まれるかもしれないと、それが嫌で彼女にオレの部屋の鍵を渡していなかったことをわずかに後悔する。
「いや、さすがに日が変わったらね、帰ろうと思ってたんだけど……」
「そうじゃないだろ、……なぜ君がここにいるんだ、」
……きみは、家族と過ごしているはずだろ、そう静かにささやく。
ナターレの夜は普通ならば家族と過ごすものだ。ナポリの出ではない彼女はきっと、地元でナターレから年明けは過ごすものだと思い込んでいたのだ。
「……あなたがどうしてるかなって。気になったから戻ってきた」
「……」
……彼女は当然のように言うが、この国に住む人間としてオレがあまりにも、不自然なくらいナターレの話題を避けていたのは簡単にバレていたのだろう。彼女がなにか問いを口に出来るようなスキも見せず、ただ振り払ってきた自覚はあった。
だからこそ、ナマエはこうして強硬手段をとってきたというわけだ。
持たされたままのマグカップに、もう一度口をつける。ほんのりとまだ温かいワインが舌を温め喉を通り胃に落ちるのが追えるくらいに、身体は冷えていた。
もそもそとコートを脱ぎながら、お互い部屋の中で手持無沙汰のまま次の言葉に繋げられないでいる。……いや違う、彼女は何も言わないままのオレの言葉を、きっと待っているのではないだろうか。
だがナマエはこちらが口を開く前に、まるで空に漂う香りを追おうとするように、少しだけ顔を持ち上げてくんくんと鼻を鳴らす。
「……石鹸の匂いだ、シャワー浴びてきたの?」
「…………ああ、よくわかったな。仕事場で浴びてきたんだ」
とっくに身体は冷え切っていて、ナターレの街に心を閉ざして歩いてきたせいでアジトを出てきたのもずっと昔の事に感じていたのに、まだ身体に香りは残っていたらしい。改めて自分の身体についた匂いを自分の鼻で追おうとしてもわからないままだ。コートの襟に自分の鼻を寄せていると、彼女はじっとオレの方を見つめて固まっていた。
「……」
「……? どうした?」
「……ううん、……それよりそっちこそどうしたの、そんな顔……」
そう言われてから、自分の表情がいかに強張っているかに気付いてしまう。寒かったのだ、そう言ってごまかしてしまうことだって出来たのに、彼女の前ではそう取り繕うことすら忘れてしまって、口からは勝手に言葉がこぼれる。
「……こんな日にオレのもとに来させるなんて、……君に気を使わせた、君の家族にも……」
ナマエはさっきまでの再会を喜ぶような明るい表情を、わかりやすく強張らせる。そして、この言葉がオレの本心でありながら、きっと〝そんな顔〟を浮かべた理由のすべてではないと気づいているのだろう。一瞬言葉を詰まらせてから、彼女は静かに続ける。
「……どうして、ここで自分が引くのが正解だと思うの? ……わたしは、わたしのナターレの夜にあなたにいて欲しかったから勝手に来ただけ。……勝手をしたなって怒ってもいいけど、そうやって気に掛けるのは違うよ」
「…………すまない、」
「……また謝る……」
「ありがとう、か」
「……それも違うけど、……そっちの方が聞きたいかな」
さっきまでホットワインのマグを掴んでいた彼女の手のひらがそっと、オレの開いた胸元に触れた。冷えた皮膚の上を、彼女の手のひらの熱が伝わって温めていく。
まるで彼女が持っている〝何か〟を、熱として分け与えられたかのようだった。
たまらなくなって、オレは思わずその手を取っていた。彼女の目を見つめながら、小さな手のひらをそっと握りしめる。あたたかい手のひらだった。
だがそれを掴んだまま頬によせたら、ワインを握っていた手のひらはあたたかいのに、手の甲は氷のように冷たかった。ナマエはこんなになるまで外にいたのだ。オレに会いたいからと、ただそれだけで。
胸の奥が、きゅうっと見えない手のひらで押さえつけられたかのようになる。これは覚えがある、オレは彼女を愛おしいと思っているのだ。その気持ちがあまりにもこらえきれなくなったとき、感情は身体の反応として現れる。
その息苦しさとも取れるような感覚に、思わず眉がぎゅっと寄るのを感じる。それはまぶしいものを見て目が焼ける、そんなときの痛みにも似ていた。
心の行き場のないナターレの夜、今日もまたできるだけ心を遠くに逃がそうと仕事で埋めようとしたこの日に、彼女に対しても何も言わずただ壁を作ろうとしていたオレのもとへ、ナマエは勇敢にもやってきたのだ。……きっとこうしてオレの中へ踏み込むことが、怖くないわけがなかったろうに。
そう思えばさらに胸の奥がきゅうと締め付けられるような感覚になるのは、当たり前のことだった。
そんなオレの顔をじっと見つめていたナマエは何も言わずにそっとこちらに手を伸ばして、オレの頬をなでた。そして次の瞬間、こっちがその手の理由を問う前に、彼女はわずかに背伸びをすると——そのままオレに口づけた。くちびるをそっと重ね合わせるだけのキスだった。
それはあまりにも唐突だった。だが、オレはただそれに身を預けるようにそっと目を閉じると、冷えたままの彼女の髪をやわらかく撫でて返す。
次の瞬間にはバッと身体を離した彼女自身がどこか、キスをした自分に対して驚いたような顔をする。
さっきまでオレに対して謝るなと言ったくせに、動揺もそのままに彼女は「ごめん」と囁く。だが、オレの顔に寄せられて剥がせないままの手はそのままだ。こちらの頬を撫でながら、ナマエはそっと囁く。
「……ごめんなさい、なんだか……あんまり寂しい顔で、……見てたら、なんか……我慢できなくなっちゃって、本当、……ごめん……」
慌てたように言葉を重ねた彼女に向かって小さく首を振って見せる。
何故なら、そうされてから気づいたのだ。
……オレはずっとこうしてくれる人を待っていたのかもしれないと。オレの中にまで果敢に踏み込んでくる、こちらが勝手に引いた線を遠慮しがちに、だが止められずに踏み込んでくる人。
オレが心の中に何か隠していることをわかっていて、それでもその何かについて問うわけでもない。ただ受け止めるために、そのための勇気をもって彼女はオレの目の前に現れたのだ。
……彼女が思わずキスなんかしたくなるくらい、ひどい顔をしていたオレのところに。
返事の代わりに、今度はこちらから顔を寄せる。そっと目を閉じた彼女に、引き寄せられるように口づけた。
内側に誘いこむように彼女のくちびるがうっすらと開いて、オレはそのままナマエの歯列を舌で割って入る。
おなじワインを分け合った、同じ温度の口内で舌を触れ合わせる。それから、柔らかな濡れた肉の感触を追うように彼女の舌を自分のもので撫でる。舌の裏側に触れられるだけで腕の中の彼女の身体がびくんと震えて、それだけでさらに奥深くまで触れたいという気持ちが強くなっていくばかりだった。粘膜が絡みあう水音が、静かな部屋を満たしていく。
何とか舌を絡めて返そうとする彼女の息が、少しずつ荒くなっていく。必死な様子の舌はかわいらしくすらあって、思わず軽く歯を立てる。すると彼女がオレの顔に寄せた手が、たまらずといった様子でオレの横髪をくしゃりとにぎりこんで、こちらの息もあがっていく。
「……っ、ふ、……」
どこか獣じみた鼻にかかる声にあまり聞き覚えはないが、これは確かにオレの喉が漏らした音だ。それでももっと奥へ、もっと触れたい、そう思いながらさらに深く口づける。
「……んっ…ぅ、ん……」
彼女の漏らした声がどこか苦しげになってしまって、オレはそれを聞いてようやく彼女をキスから解放した。
すると名残惜しそうに彼女の舌が少し追いかけてくる。熱でうるんだ瞳と目が合って、お互いの舌の間で銀の糸がつながっているのを見てしまえば、それはさらに身体に火をつけることになるだけだった。
改めて彼女を強く抱きしめる。普段ならそんなこと思わないのに、抱き合うふたりの身体の間にある服にすら、まるで隔てられているような感覚になる。
オレは彼女にすがるように、背中を丸めてその首筋に額を寄せて抱きしめる。お互いの冷えた耳の端が触れ合う。
自分の中に、欲の炎が灯ったことには気づいている。だがこれは、……きっと正しくない。その熱は今彼女にぶつけるべきではない。身が焼けるような感覚を抱えたまま、彼女の優しさを利用するように身体を求めたくはなかった。
そう思いながら黙って腕をほどいて離れようとしたら、ナマエの方がそれを許さなかった。逃がさないとでも言うように、オレの背に回した腕に力をこめる。
「……ナマエ、」
「……ね、……ブローノがいやじゃなかったら、……したく、なっちゃった」
まるで見透かされているようなセリフに、一拍やけに心臓がうるさく響く。
「……嫌、ではない、……が、」
戸惑うような言葉尻に、彼女はもう一度背伸びをする。それからまるでこちらを煽るように、その熱いくちびるをオレのむき出しの胸元に、耳の端に、顎の先に音を立てて触れさせた。そうしながら彼女は指先でスーツ越しに太ももを撫で上げる、そのままその手は中心に移動していって――。
「……っ、なあ、それ……! 本当に、……それだけで、マジにやべえ……ッ」
その手の動きを止めるように、半分無理やりに抱きしめる。オレと彼女の身体の間で、オレを撫でていたナマエの腕は押しつぶされてようやく止まる。
「……なあ、……自分の都合を勝手にぶつけるみたいには、……君を抱きたくはないんだ」
「……わたしがしたいの、……あなたが今はわたしとしたくないっていうならもちろん無理強いしたくないけど、……でも、」
わたしの欲をないことにしないで、彼女はそう静かに続ける。
何もかもを見透かされているような気になる。オレがナターレを避けるように過ごしていた理由は聞かないままで、そしてその理由を自分から口にすることもできないでいるオレを受け止めるために、そう言っているのではないかと。
これは彼女がわかりやすくオレを甘やかしているだけだ、オレがその手を取ってしまえばそれにすがるようになるだけだ。……わかっているのに、それでも恋人に腕の中でこんなことを言われてしまえば心はぐらぐらと揺れる。
「……それにさ、わたしはブローノだから信じられるけど、会うはずなかった日に外からきたのにシャワーを浴びたばかりなんて姿見たら、……仕事場で、なんてうまく信じられないよ、普通。確かめてやろ~って思うだろうな、まさかキスマークとかつけてないだろうな!って」
「……だが、オレならそうじゃないと信じられるってんなら、なぜ、」
オレとしたい、なんでそういうことになるんだ、そう聞くつもりで囁くと、彼女は少しだけ下を向いて囁く。
「…………一緒にベッドにいくとき、石鹸の香りがするからかな」
石鹸の香りにだんだん汗のにおいが混ざっていくのが、すごくいい香りで、好きなんだ、……そんな風にぼそぼそと続けられて、身体の奥にともった炎が大きくなるのがわかってしまう。……ナマエ、そう名前を囁くが、どうしたいのかなんて自分でももうわからない。
「それに、……今夜、本当は会えると思ってなかったんだ。だから、……会えただけで凄く嬉しくて、……したいって思った」
腕の中でぼそぼそとささやかれる言葉に、オレの腕にはさらに力がこもってしまう。彼女の言葉に湧き上がるものを、ただの欲だと言い切ることもできなかった。
電気もつけないままふたりで抱き合うこの部屋の中で、オレがこうしてすがることを許してくれる彼女が、どれだけオレの心を揺らしているのか。それをただの欲だと認めてしまえば、こぼれるものがあまりにも多すぎた。
「……ブローノに、奥まで触れたいし、触れられたい」
「…………っ、……あぁ、クソっ……!」
勘弁してくれ、そんな、オレを喜ばせるようなことばかりを言うのは――。
もう一度強く彼女を抱きしめる。それから、運ぶぞ、そう囁いて彼女の足元にかがむと、返事を聞く前にそのまま横抱きにするように足元からすくい上げる。
一瞬何が起きたかわからずこわばった彼女の身体だったが、すぐにオレの首に腕を回して楽しげな声を上げた。
「うっわ……びっくりした!! 高いね!」
「……」
あふれ出しそうな熱のせいでとっさに彼女を持ち上げるなんてことをしてしまったわけだが、今更になってこの行動に対しての羞恥が身体に回っていって無言になってしまう。だが持ち上げられている本人は、広くもない部屋の中でわざわざ抱えられてベッドに降ろされるまで、妙に楽しげにしていた。
ベッドに下ろされた先で、ナマエはふにゃと柔らかな笑顔を作る。彼女を上から包み込むように覆いかぶさって、その笑顔を見つめる。オレの方にナマエの手がそっと手が伸ばされて、指の背が頬をやわらかに撫でた。
その笑顔を見つめながら、静かに囁く。
「……途中でやめたくなったら、お願いだから伝えてくれ。……君がしたいと言い出したからって気にやむ必要はないんだ」
傷つけたくない、……そうは言いながらも、何も伝えないまま、そして彼女も何も聞かないのをいいことに身体を重ねること自体がナマエを傷つけることになりはしないだろうか、そんな考えが頭から離れない。
それでもその不安や揺れた感情を吹き飛ばすように、彼女は柔らかく微笑む。
「……うん、約束する。……それに、もし嫌ってなったらブローノも言ってね、お願いだから」
その言葉に、オレは静かに頷いて見せた。