海の底で眠る

父の手が、好きだった。

日に焼けて節くれだった、海で働く男の手だ。分厚く茶色いその手に憧れていた。父さんのように真面目に漁師の仕事をしていれば、いつか自分の手もそうなるんじゃないかと夢見ていた。
一緒に海に出ていてもすぐに手だけが変化するなんてことはないが、日差しの下で仕事をしてるうちに自分の肌が焼けていくのは嬉しかった。はじめは赤くなってしまうばかりのオレの顔や腕を見て父さんはきちんと冷やせと言ったけれど、父さんの手に近付いてる、そう思えたらひりつく痛みなんか気にもならず、ただ嬉しかったのだ。

だが海から離れて久しい今の俺の手は、日に焼けることもなく、潮にさらされ荒れることもない。
俺の手に重ねられたものといえば、何かを殴るときに出来る赤い跡が拳の骨に沿って手の甲の上に堆積して、うっすらと茶色に見えるようになったくらいだった。

ここは遠い。海からひどく遠い。

娼婦の稼ぎから金を不当に巻き上げていた悪徳仲介人の男を殴りつけながら、そんなことを思う。悲鳴も上げられないように、その男の口にはジッパーをつけてあった。
もう二度と悪さをしないように、死なない程度に痛めつける。これが今夜の仕事だ。骨と骨がぶつかり合う感覚と痛みだけがこいつに理解できる事実のすべてで、開かなくなった口と一切足に力が入らず立てもしないということについてはきっと何が起きているかもわからないだろう。
パッショーネのシマで私腹を肥やすつもりだったのならば、必死に体を張って女が稼いだ金を巻き上げるなんてこすいマネをするべきではなかったと自ら痛みで気づかせる。……まあ気づけるやつはまれだとわかってはいるから、捨て台詞替わりに二度とそんな真似するなと釘を刺すことも忘れない。

父親と自分の安全と引き換えの、薄暗い路地で人を殴りつけるこの生活を後悔するわけじゃあないが、〝海〟から自分がひどく遠ざかったというその現実に心が冷たくなるような感覚を覚えるのも事実だった。

その気持ちを知ってか知らずか、恋人である彼女が海に行こうと言い出したのはそれからすぐのことだった。
オレのほうは長く休みが取れないから遠出でバカンスとはいかないのは分かってる、でもそれにしても働きすぎだと主張した彼女は次の休みを海辺で過ごそうとオレを誘ったのだ。
断る理由はなかった。彼女もオレと過ごす海を気に入ってるのだとしたら、それほど嬉しいこともない。

オレたちが過ごす海は色とりどりの水着や白い砂浜からは縁遠い、人気もなくひっそりとした、忘れられたような小さな入り江だ。
辺りを高い崖に囲まれていて、砂浜は黒く沈んだ色。海のふちから少し離れるだけで丸く削られた石が大量に転がるようになるこの場所に水着で寝転がりたい人間はわざわざやって来ない。

だがオレたちはその黒い砂の上にシートを引いて、パラソルを立てる。日差しからのわずかな避難場所として。
たった一つのパラソルが黒い砂浜にぽつんと佇んでいる風景はひどく寂しくて、何故か世界の滅んだ後のようだという言葉が浮かんだ。

海水に足を浸しながらほとんど泡になった波を踏む。ぎりぎりで波を避けようとしては思い切り足を波にのまれて声を上げて笑う彼女を見ながら、潮の匂いと湿度と、熱をはらんだ空気を吸いこむ。腹の中に溜まった淀みがその海風で少しずつ浄化されていくようだった。

砂の上に打ち上げられた、骨のように白い流木と丸く磨かれた小さなガラスを拾い集めて歩く。拾いながらふと気がついた砂浜に開いた穴をのぞき込む。少し掘ってみたけれど穴の主である貝の姿は見つからなかった。
歩き回るのに飽きたら、少し離れたところの平たく突き出た岩の上で釣りをする。浅瀬で竿にかかる魚は小さなものばかりで、結局ほとんどを海に戻してしまった。貝も魚もなくたって、アクアパッツァの材料が欲しければ帰りに買えばいいのだと二人でお互いに言い聞かせながら。

日が沈む直前になってから、少しの間だけ海の中に入る。水の高さはオレのすねのくらいのところで、ふたりで水面に寝転ぶように浮かぼうとしてみる。波に翻弄されるばかりでなかなか難しいが、これよりも水深の深いところにいくわけにもいかない。なんとかコツをつかんで体の半分を水面に浮かべてふたりで息をつく。流されてはかなわないから、ほんの少しの間だけ。
耳を直接打つ水音に、心が凪いでいく。水面から見上げた濃い夕焼けが、たなびく雲を染め上げるピンク色が目に焼き付いた。
体温に近いくらいの温度の、ぬるい海水の中で彼女がこちらに手を伸ばすがままにその手をつないだ。ぬるいとばかり感じていた海水も、彼女の体温と比べれば冷たい。ナマエとつないだ手が、ここにある唯一の熱源だった。

/

/

世界の果てのような砂浜を後にして、一日中太陽にさらされて熱がこもった体のまま何とかたどり着いたオレの部屋で、彼女は突然元気を取り戻してはしゃぐように声を上げた。

「ねえ見てほら!だいぶ焼けてる!」
あいつは羽織っていた薄い上着と自分の肌の境目を指差す。太陽が皮ふの上に引いた赤いラインに彼女は笑ったのだ。

「そうだ、ブチャラティも焼けてるんじゃない?」

そう言って、あいつは比べるようにオレの方に手を差し出して見せた。オレの手のひらよりも一回りは小さな手。
促されるように彼女の手のひらの隣に自分の手のひらをかざせば、目の前には大きさの違うふたつの手が並ぶ。
片方は華奢な指と丸みを帯びた手をしている。もう片方は骨の筋が目立ち、……そして暴力をふるった痕が色濃く残る。

だが、――ふたつとも同じように日に焼けていた。

脳裏に、幼い頃の淡い郷愁が焼き付くように思い浮かぶ。遠ざかったはずの〝海〟。オレはその幻影を見ている――。
過去から未来は一本道で、オレは一度〝海〟から遠ざかる道を選んだ。ならばもう後はそこからは遠ざかるだけの一方通行だと、他の道なんてものはないと思い込んでいたのだ。だが――。

気づけばオレは彼女の手を掴んでいた。……今自分がどんな顔してるのかはわかっていた。ひどく寂しい、情けない顔を晒しているのだろう。
彼女はそんなオレと視線を合わせると慈しむように目を細めて、オレの背に自由な方の腕を回した。
掴んでいた彼女の手をそっと離してから、すがりつくように両手で抱きしめ返す。こいつとの間に少しの隙間があることだって耐えられずその体を強く強く抱きしめながら、少し湿った首筋に鼻を寄せ甘い花のような香りに混じった汗の匂いと、軽くシャワーをあびたはずだがまだどこかに残っているような、もうオレか彼女かどちらの身体に残っているのかもわからないかすかな潮の香りを感じていた。

違う〝海〟だとわかっている。だがそれでも、手を伸ばさずにはいられなかった。

お互い一日中太陽の下にいたのだ、こうして身体を密着させればお互いの熱の逃げ場がなくなって、更に熱くて頭が煮えるようだった。
だがそれでも構わなかった、(そんな事を思うのはもう脳が煮えてしまったからかもしれないが、)このまま服越しに抱きしめているのすら彼女が遠く感じて、……欲のままにナマエの髪を鼻先でかき分けて、彼女の丸い耳の端をくちびるで食む。少しだけ身体をはねさせたこいつは、オレの背中に回した手のひらをぎゅっと握り込んだ。
このオレの行動はまるで、迷子の子供がなにかにすがり付こうとするのとまったく同じだとは気づいていた。それでも、オレは手を伸ばさずにはいられなかった。彼女にすがりつくように、更に抱きしめる腕に力を込める。

「……なあ、ナマエ」
「……ねえ、あのさ」
オレが彼女の服の中の肌にふれる許可を得るために囁いた熱っぽい声と、彼女の静かな囁きが重なった。
暑さの中にいるだけで体力は消耗するものだ。今日はそんな事したくないと言われるのだろうか、それも当たり前だ、そんなことを思いつつそっと身体を離す。……むしろ、独りよがりな欲に突き動かされていた自分がだんだんと気恥ずかしくなってくる。
「ああ」
低く囁いて返すと、彼女は一瞬言葉を切ってから、そっとオレの服の裾を掴んで言った。
「この続きはお風呂で……しない? 熱いから、この先するなら水浴びしながらのほうが良い気がするんだ」
シャワーは水ね、熱いから、彼女はそう続けた。

郷愁に心が焼かれていたことに、彼女が気づいていたのかどうかはわからない。でも彼女が何も聞かずにオレを受け入れてくれた――。ただそれが、紛れもない真実だった。
そしてそれこそが、今オレに必要なすべてだった。

服を脱ぎ散らかしながらバスルームへ向かう。
二人で何も入っていないバスタブに飛び込んで、勢いよくシャワーのコックをひねる。
後頭部から背中に水を受けつつ、バスタブの奥のタイルに彼女を押しつけながら深く口付けた。
触れるところはどこも熱い、燃えそうな肌をシャワーの水がなだめるように撫でていく。
だが舌で直接触れる彼女の口内の方がさらに熱かった。歯列を舌でなぞって、口の中で逃げようとする熱く濡れた肉に絡めれば、子猫のような鼻にかかった声がかすかに漏れ聞こえて腹の奥に熱が灯る。
キスのあいだに響くしゃくり上げるようなナマエの息継ぎに、それだけで簡単に我慢が効かなくなりそうだった。ああ、熱い。
オレの身体を辿ってこぼれた水と、濡れた髪からそのままこぼれた水が目の前の彼女にも降り注ぐ。ふたりともがどんどん濡れていく中、冷たい水の温度と直接触れ合う肌の温度差がひどく心地よいものになっていく。
だが首の裏、髪に隠れずオレの身体の中で一番日に焼けたのであろう場所が水で冷やされていくと同時に、だんだんと意識が明瞭になってくる。必死にこちらに応えようとする小さな身体を抱きしめながら気づいてしまう。ただオレが寂しさから逃げるために、彼女の身体を暴くことなんて出来ない。
一度強く彼女を抱きしめてから、そっと身体を離そうとする。

「……だめ、」
だがそう言ってナマエはオレの身体が離れていくのを許そうとせず、引き止めるように彼女の方から背中に腕をまわした。
それから彼女は、日差しを浴びて軋んだ、そしていまはシャワーの水を浴びて濡れたオレの髪の上からその頭を何度も撫でた。

……こいつはきっと、わかってるのだ。ことばもなく相手の全てを理解できるとは思わない、だがこのオレは今、普通の顔が出来てないことくらい彼女にはすぐにバレてしまうのだ。

引き寄せられるがままに彼女の肩に額を乗せる。背中に水を浴びながら、すがるようにナマエを抱きしめて彼女の首筋に頭を押し付けた。