Eccomi qua!

「ただいまー!」

普段は無言でひっそりと後ろ手にドアを閉めるだけの、ひとりで住む自分の部屋に帰ってきてこの挨拶を口にできるのが嬉しい。今日はわたしの部屋にブチャラティが来ているのだ。ここのところずっと忙しかったのにわざわざ来てくれた彼をお昼の買い出しに連れ出すのは心苦しくて、のんびりしていて、すぐ帰るからと彼を留守番させて急いでバールで食べ物を見繕って帰ってきたのだ。
だけど、期待していたブチャラティの「おかえり」の返事がないことを不思議に思いながらリビングに向かった。

部屋には明るい陽射しが部屋に差し込んでいた。
カーテンが揺れ、外からやってきた春の熱を帯びた柔らかな風が室内を通りぬけていく。……正直水回りやキッチンの狭さには泣きそうになるような部屋だけど、この明るさに惚れこんでこの部屋を選んだのだ。そしてそれは間違いではなかった。

買い物袋をそっとテーブルに置いた私の目の前では、ブチャラティがソファの上で座ったまま静かに寝息をたてていた。窓からの柔らかな陽射しを注がれて、彼の周りは光っているみたいだった。
ブチャラティはアームレストに肘を置いて、まるで考え込んでいるだけにも見えるような姿で、俯く姿勢でこめかみにこぶしを押し付けたまま眠っている。
起こさないようにそっと近づいてみて気づく、彼の膝の上に広げたままの雑誌がのっていた。よくないと思いながらも何を読んでいたのかと覗き込むと、
(……これ、って)
私が前に見たいと言った映画の記事が、彼の膝の上に広げられていた。ブチャラティの片手は、その記事の上にのせられている。

耳をすますと、すうすうとかすかに聞こえる寝息は思ったよりも深い。あまり眠れていなかったのかもしれない。
それでも、そんな状況なのに……もしかして、勝手な期待だけど、私とのデートのために読んでたの? こんなに疲れてるのに?

ああ、だめだ、本当、もう! ブチャラティって人はこれだから!
こみ上げてしまった愛おしさに突き動かされるように、私は思わず、そっと彼の頭に触れようと手を伸ばす。……いつもは気後れするのだ、起きてる時の彼の、鋭く強く優しい大人の男そのものな瞳を目にすると、まるで子供にするみたいに頭を撫でるなんてことは許されないような気がして。でもずっとこうしてみたかったのかもしれない、光るきれいな黒髪に覆われた彼の頭を撫でたいと――。

……でも、気づくと私の手はまた止まってしまった。うたた寝している彼を起こしたくないとそっと手を引くと、
「……いいのか? 何もしなくて」
うつむいたまま彼がこぼした声に、息が止まるかと思った。
「お、きてるの?」
「ああ、今さっき……オレはてっきり、きみがキスでもしてくれんのかと待ってたんだが」
ゆっくりと顔を上げたブチャラティが、いつもより少しだけ角の取れた印象の、柔らかな笑みを私に向けた。細められた目は少し眠気が払いきれていないように重そうで、……ああ、かわいいな、このひと。
頭を撫でるよりも、キスの方がなんだかできる気がする。私はそっとかがみこんで、彼の頭のてっぺんに口づけを落とす。
彼の体温と陽射しによって温められた黒い髪はくちびるで触れたら熱くなっていた。生きている熱だという感慨と、なんだかお外でめいっぱい遊んで帰ってきた子供みたい、なんて言葉の両方が浮かぶ。

「……もうひとつ、忘れてるぞ」
ソファから少しだけ身体を伸ばして私の方に顔を寄せると、彼は少し顎を上にむけた。思わずニマニマと笑みを浮かべてから私はもう一度頭の位置を低くして、彼のくちびるに音を立ててキスをする。触れ合わせるだけのキスを何度も繰り返しているうちに、お互いに少しずつニヤついているのはわかっていた。

いつまでも続けられそうだったけどパニーニが冷めちゃうからとなんとか顔を離すと、ブチャラティは満足気に微笑んでいた。さっきはためらったけれど、今は自然に彼の頭に手が伸びる。丸い頭のシルエットを尊ぶように撫で、さらさらの髪を遊ぶようにふれる。すると彼は大きな獣を思わせるやり方で、私の手に頭を傾けてそっと押し付ける。手放しで甘えるような仕草をしてくれるのが嬉しくて、座ったままの彼を真正面から抱きしめた。

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“Eccomi qua!” = ただいま!
jo夢ワンドロワンライさんにお題「長閑」で参加作品