その名は光 -1-

これは、ブローノ・ブチャラティに救われた、一人の人間の話だ。このネアポリスの街にはきっと山ほどいる人間の中の一人、彼に命を救われて、生きていく希望を与えられて、命に意味を与えられた、きっとよくいる、一人の話。
彼は、わたしのつまさきから頭のてっぺんまで全てわたし自身のものであるという当たり前のことを、その認識すらできていなかったわたしに理解させ、身体を取り戻させた。
あの夜の光景を、わたしは一生忘れることはないだろう。
ひどく冷たい雨にうたれ、冷えた骨が軋む音を聞き、激しい痛みを感じていたこと。暴力と降り続く雨にさらされて、自らの存在がネアポリスの石畳に張り付く、打ち捨てられたアイスのパッケージの切れ端以下の存在のように感じていたあのとき。わたしを人間に戻してくれたのは、ブローノ・ブチャラティだった。
濡れて氷のように冷えた指先を、水を吸って重くなり、触れただけで汚い雨水がその手を汚すような服をまとったままの身体を、彼の熱い手のひらが厭わず触れて、抱きしめ、温めてくれたこと。
彼に支えられ、彼を見つめながら日々を過ごして、この人に恥じない命でありたいと、そう願って生きられるようになったこと。
わたしの世界に確かに灯ったひかり、何よりも明るくて温かいもの。
それは生涯、きっと消えることはない、何故なら――。

◆◆◆

母が死んだ。わたしに残されていた唯一の肉親はこの世からいなくなってしまった。
現実感はないままだったが、一緒に暮らしてきた思い出の染み付いた家で一人きりで過ごしていると、あっというまに心はボロボロになった。いなくなるなんて思いもよらなかった人の不在の感覚はあまりにも大きく、普通にしているだけで涙が出てくる。息ができない。
わたしの身体の一切がわたしの手に追えなくなり、そうなってからはじめて自分には身体があると気づいたのだ。
しかし、壁に頭を打ち付けてみたり、手の甲をつねってみたり、痛みで意識を別の方に持っていこうとする試みを繰り返してみてもほとんどは意味がなく、ただその身体に翌日には消えてしまうような傷とわずかな痛みが残るだけだった。
人はこんな地獄から、自らの身を引きちぎられるような悪夢の中から立ち直れる日が来るのだろうか? 毎日悪化していく感情にそんな自信をなくしている最中、その連絡は突如、解約できないままだった母の携帯電話のアドレスに、しかしわたしに向けてのメッセージとして届いたのだ。

『あなたのお母さんが亡くなったことを、共通の友人から伺いました。
あなたが一人になってしまったということも。
もしよければ、イタリアで過ごしてみる気はありませんか。
部屋を貸します。日本にいるよりもきっと、気が晴れるのではないでしょうか。
かわりに、お願いしたいことが一つだけあって……』

悲しみに向き合い続けるほか無い今この場所から逃げられるのだったら、どこでも、なんだってよかった。わたしはその拙い英語で書かれたメールに、同じくらい、いやもっとひどく拙い英語で返したのだ。

『ありがとう。ぜひイタリアで過ごせたら嬉しいです。
お願いもわたしでよければお受けします。その荷物を受け取ってから、飛行機に乗ります』

今となっては、よくもそんな迷惑メールみたいなメッセージを信じて飛行機になんか乗ったものだと思う。それくらい、たとえそれがいたずらに騙されにいくだけだとしても、とにかくわたしは目の前の現実からただ逃げ出したかった。なんでもいいからすがり付きたかったのだ。
そのために、きっと普通なら避けられたかもしれない〝何か〟も見ないふりをした。そして頼まれた荷物――やけに軽い〝本〟が入っているという包みを受け取って、飛行機に乗ったのだ。

初めて降り立った外国は、もう空気や匂いから違っていた。人々のつけた香水の匂いなんだろうか、どこもかしこも甘い香りがする気がした。
空気は手で触れそうなくらい乾いていて、空の青すら日本よりずっと高く色鮮やかだ。なんでもない路地や、観光地然としているわけではないさびれた駅の建物。その地に住む人からしたらただの日常でしかない風景もひとつひとつ新鮮で見ているだけで楽しくて、わたしは母を知っている人間、とはいえほとんど初対面の相手と外国で同居することへの緊張が、新しい世界への興奮で麻痺しつつあるのを感じていた。

わたしに母方の遠い親戚にあたると名乗ったのは、そこそこに若く、赤毛と目の下の濃いくまが特徴的な男だった。親戚付き合いは希薄だったから確かめようはなかったけれど、確かに親戚には外国に嫁いだ人がいると聞いたことがあった。一時期母とも仲がよかったと言い訳のようにつぶやき、彼はメールに書いていたように快くわたしに部屋の一室を貸してくれた。が、貸してくれた部屋にいても、彼の姿を見かけることは少なかった。赤毛の男は夜中に出かけては昼に寝る生活をしているようで、最初の挨拶の時に握手をしたっきり、ほとんど会話もしていない。
しかもその時だって、口ぶりはわたしが想像した『イタリア人』の明るい陽気なものとはほど遠く陰鬱なもので、わたしを歓迎するというよりもわたしが持ってきた荷物を気にするばかりだったのだ。ぱっけーじ、どぅゆーはぶ……ぱっけーじ、こちらの名前を聞くよりも先、歓迎の握手をする前に言われて、一瞬意味がわからなかった。しかし彼にとってはそれくらい大切な荷物らしかったのだ。なんでそんなに気にかけるの、聞いてみたけれど答えてはもらえず、わたしの言葉が理解できない、みたいな態度を取られただけだった。
そんな彼との生活はルームシェアどころか、まるでキッチン付きのホテルを借りたような暮らしだった。ただ、他人同士の同居だからこそ、それぐらいの距離感がありがたかったのも事実だが。
はじめて踏んだ異国の地、ひとり放り出されることが不安でありながら、しかし見知らぬ世界で真新しい刺激を浴び続けられる時間こそがわたしに必要だった。記憶のどの部分にも重ならない、どこを見ても目新しいものしかない風景。
石造りの古い街並み、色とりどりの服や野菜が並ぶ市場、穏やかな海と遠くに見える島の縁、火山の稜線……それは日本では見ることのない景色ばかりだ。あたりに渦巻く言葉の節はまるで歌のようで頭に何も意味が入ってこなくて、それがかえってよかった。人と人の中にいながらも、心地の良い孤独を抱いたままでいられたから。

目新しいものたちは、飽きない刺激となってわたしの思考の間隙を塗りつぶしてくれる。ぼんやりして頭の中がぽっかりと空くような時間が一番恐ろしかったのだ。いくらでも暗い気持ちに引き摺り込まれてしまうから。
……はじめは、この国の言葉だってろくに覚える気はなかった。数週間、長くて数ヶ月の人生の空白。
この街でわたしは誰でもない生活ができる。旅人として。
最低限住むところはあるから、あとは少しずつバイトでためた貯金を崩して過ごすだけだ。自分の目がカメラになったらいいのにと夢想しながら、目に焼き付けるつもりで街を見てまわり、疲れたらメニューを指差してどうにか注文したパスタを食べる。たまに注文に失敗してよくわからないグラタンなんかが出て来ても、楽しい。すべてがひとりで、すべてが自由だった。
そんな幸福を享受しながら、ときどきわたしの頭に痛みを伴ってよぎるのは「母をなくしたという事実」よりも、……あの荷物のことだった。
彼がわたしからあんなに慌てて取り上げたのはなんだったのだろう、聞くことすら出来なかったその存在が頭の端をちくりと刺す。しかしそのたびに、何かを警告するように脳をちりちりと焼く感覚を何度も気づかない振りをしては、心に蓋をするのを繰り返していた。

男と住むこの場所の治安が良くないのだと気づいたのは、随分後になってからだった。昼間から嬌声が聞こえると思ってはいたけれど、初めの頃それは外国のカップルだから最中の声が大きいんだと思い込んでいた。……しばらくしてから、それはベッドで仕事をするような女性達の声だとようやく気づく。
そして通りの喧騒は真夜中ではなく夕方に一番大きくなる。昼の仕事を終えた男達が、彼女たちに会いにくる時間なのだ。
昼間から響く嬌声、道端に転がる酒瓶。なかなか凄い光景だが、人はいくらかは慣れるものだった。ずっと住むなら気になるかもしれない、だけどたった数カ月の居候生活で、しかも破格の生活費なら文句もなかった。夜ならこちらも窓を閉めてしまうから気にならない。そして昼間はその声を避けるようにほとんどの時間を外で過ごすようになり、わたしは少しずつ、家の遠くまで足を伸ばすようになったのだ。
そんな時だった、あの人をはじめて見かけたのは。

はじめは観光客が多い通り、だんだんと地元の人がたむろっているような街の奥まったところへ。ほとんど荷物も持たないでふらふら歩く姿は、どうやらきちんと地元の人間として見られているようだった。はじめの頃は観光客を見た瞬間に押し寄せるような人たち、公園の補修のためにどうか寄付をとか、地図を読んでくれとか、お花はいかがおまもりはいかがとか、そういう半分詐欺めいたのに囲まれることもしばしばだったけれど、だんだんとそんな声をかけられることも少なくなっていったのだ。街に馴染めたようだ、それに気を良くしてどんどん見知らぬ通りへ、よりネアポリスの深部へと足を踏み入れていくと、石畳の歩道の真ん中で小さな人だかりが出来ているのを見かけた。
路上パフォーマーか何か? でもそれにしては随分と静かだ。そこにあるのは人々の穏やかな会話と笑い声だけだ。遠くからそれを眺めていると、周りの人たちに静かに微笑みかけつつ人だかりから抜け出てきた人がいた。
その人はみんなに囲まれていたからというだけでなく、ひどく目立つ人だった。
つややかで濃い黒髪を顎のラインまで伸ばし、きっと普通の人間には着こなすのは難しいだろう真っ白のスーツが当たり前のように似合っていた。

まわりの人に向ける、もう行かなきゃいけないんだすまない、みたいな(きっとそんな話をしていたのだとおもう、)静かな笑顔も美しかった。
彼の持つ美しさは、男性だとか女性だとかそういう二元論に切り分けられるものではなくて、まとう空気がもう普通ではなかったのだ。見かけると誰でもまずその人に目がいくような。そして、ああ街の人に好かれているんだなとひと目でわかるような、彼のまわりにある穏やかなやりとりとか、全部をひっくるめて美しい人だった。

……彼は誰なのだろう。何をしてる人だろう。
役者さん? あるいはモデル? 非番の警察官、ローカルテレビのキャスター、とか。こんなところで地元の人に囲まれていてもおかしくない職業をいくつか頭の中に思い浮かべてみるけれど、どれもなんだかしっくりこない。
でも、あの人はだれ? なんて簡単なことをそこにいる人に聞くだけのイタリア語の力も持ち合わせていないわたしは、彼の静かな笑みだけを頭の中に貼り付けたまま帰宅することになったのだ。

その日、珍しくわたしが夜ご飯を食べる時間に起き出してきた同居人と、トマトと塩とオリーブオイルくらいしか入っていないような雑なパスタをふたりで言葉少なにつつきながら、ふと期待はせずに彼に昼間見た男の人の話をしてみた。相変わらずお互いの母語は通じないから、片言の英語同士のおぼつかない会話のままだけど。
「街の人気者なの? 白いスーツで、背は高くて、黒髪。ストレートで……あごくらいの長さ。それで、ボブカット、ていうか……」
そこまで言うと、同居人はガチャンとフォークを皿の中に落とす。予測していなかったその反応に少し驚いたわたしを濃いくまの残る目で見つめると、彼はぼそぼそと言った。
「……そいつは……ギャングだ。悪いやつだから……気を付けろよ」
「ギャング……」
わたしにとっては現実感の薄い言葉が唐突に飛び出して、思わずおうむ返しに呟いてしまう。
ギャング、なんて言葉を日常生活で聞くことになるなんて思ってもみなかった。日本にいたら多分本物を見ることももちろんなかっただろう。……でも、彼は本当にギャングなんて危険な存在だというのだろうか。
気をつけろなんて言われたところで、今日見たあの人は穏やかに微笑み、老若男女に囲まれていた。そんな姿を見てしまえば、到底悪い人には見えないのだけど……と、ここまで考えてハッとする。
(……そんなことを言うこの人にとって『都合の悪い』ひと、なのか?)
再びフォークを握り、陰気に食事を続ける目の前の男を見つめる。
いつも夜中に出て行って何をしているの、どうしてわたしを呼んだの、わたしが持ってきたあの荷物は何? 何一つ聞けないままだが、少しずつ心の中に浮かんだ疑惑の念が色濃いものになっていく。
「メシありがとう、……少し出てくる」
こちらが考え込んでいるうちに彼はそそくさと先に食事を終えると、またいつものように夜中の街に出て行く。
返事もできないまま、彼の背中を見送る。外から聞こえる酔っ払いが調子はずれに歌う声と大きな笑い声が、一人取り残されたダイニングにまで響いていた。

ギャングがうろついているから外に出ない、なんてことはもちろんない。もちろんあの白スーツの男の人のことは気になるけれど、それよりわたしは、この街の持つ雑多で猥雑で、生命力に満ちた魅力に惹かれはじめ、さらにいろいろな場所に行くのが楽しくなっていたのだ。
 美しい海、きれいなレストラン、古くからある教会。もちろんそれを眺めているのも楽しい。だけど、そんな海に面した美しい街の顔をしたファサードから一歩内側に入ってしまえば、その風景は一転する。乱暴な運転で勢いよく車が走り回り、かと思えば無限とも思える渋滞を成す。そのクラクションを鳴らす車の間を、子供が果物や飲み物を売って回る。建物同士が寄り添いあう隙間のような、細い路地の間を二人乗りバイクで駆けていくのも子供だったりする。建物は、たとえ人通りが多いところでも、すべからく派手に落書きされていた。美しいレンガや白い石造りの建物にまでそんな落書きがあってギョッとさせられるけれど、街の人には日常の風景らしい。
 お店が並ぶ通りでは、建物の色からして太陽に負けないくらいに鮮やかだ。この世のすべての品物が揃うんじゃないか、そう思うほどに色々なものが、雑多にそれぞれの店に並んでいる。
見知らぬ世界を、目を丸くして眺めながらこの街で過ごしていて、わたしは少しずつ、この街を、この国を知りたいとぼんやりと思うようになっていた。遠い文化、言葉、宗教、……わからないながら眺めて楽しい、というところから、わかった上で触れたいと、そんな風に心持ちが変わっていったのだ。
それはもしかすると、この街に馴染み、地域の人に笑顔を向けられていた〝ギャング〟について、自分で理解したいと思ったからかもしれない。ネアポリス、この街を知りたい。そう思うと色々なものに目が行って、更に色鮮やかに見えてくるのだ。

わたしの普段の買い物は、スーパーがほとんどだ。人とのやりとりは最低限でよくて、お金の計算も適当に大きめの金額を出せばよい。あまりにとんちんかんな額を出した時には店員さんが面倒くさそうな顔でこれはいらないとお金をこちらにつき返してくれるし。
それに甘えて、わたしはネアポリスの市場を眺めて回ることはあってもそこで買い物をしたことはなかったのだ。……どんなに憧れても、勇気が出なかった。でも、街を知りたいという気持ちを抱いた今、少しは街を観察してきたのだから、うまく買い物だって出来るのではないかと思ったのだ。
料理を作るのは同居人のためというよりかは自分のためだった、だからこそ何かおいしいものを、せっかく市場で買うのだからとっておきの何かを作ってみたいと思ったのだ。

だが、やる気に反して買い物がスムーズにいくことはなかった。
だいたいの買い物は、これが欲しい、これはいくら、はいお金、それで済むはずと思っていたのに、わたしは何を言われているのかわからないジェスチャーとともに、肉屋のおじさんに困惑の表情を浮かべさせていた。

「――、――。――??」

何かを聞かれているのはわかる、必死につたない英語で肉がこれだけ欲しいだけと伝えてみるけれど、頭をひねられるだけだ。
親切にしようとしてくれているのもわかる、こちらに向けられた彼の態度は嫌な感じではないから。
それでも、あわあわ焦るばかりのわたしと店のおじさんの会話はうまくいかず、おそらく買い物したいのであろう人たちが少しずつ自分の後ろや横でどうなってるの? というように声をあげはじめていた。それで余計に、ふたりで焦る。
「ハイ、シニョリーナ?」
肩を優しく叩かれて振り返ったら、かわいらしい頭巾をかぶったおばあちゃんがいた。彼女はふらふら歩いているわたしを気にかけて、前にもあいさつをしてくれた人だった。ねえどうしたの、そう聞かれているのはわかるけれど、今はわたしもどうなってるのかわからないのだ。やっぱり買うのやめときますごめんなさいなんて言葉もとっさには浮かばず、えーと、あの、ああ、なんてごにょごにょしてたらおばあちゃんも少し困った顔で離れて行ってしまった。……すこし泣きそうになる。
どうにかしないとどうにかしないと、焦れば焦るほど言葉は遠のいていく――

「Vuole un aiuto?」
突然聞こえた、おそらくわたしに向けられているのであろう声にまた慌てて振り返る。
「あ……」
そして振り返りながら、わたしは思わずぽかんとしてしまう。
わたしを呼んだ低く穏やかなその声の主、……振り返った先には、目の前にあの人がいたのだ。この前見たのと同じ、黒くつややかで、綺麗に切りそろえられた髪。モデルの人が着てるみたいな、真っ白なスーツ。近くで見たら、記憶の中でぼんやりとした遠くから見たイメージよりずっときれいで驚いてしまう。顔のつくりもそうだけど、そこにあるのは自信と強さにみちた、芯のある立ちふるまいの美しさだ。
でも何よりもわたしの目を奪ったのは、さらさらの髪の奥、濃いまつ毛の向こうから見つめる青の瞳だった。その目は、わたしを迷惑だと思っているんじゃなかった、言葉のわからないかわいそうな異人と憐れんでいるのでもなかった。そこにあったのは〝当然の〟優しさだった。言うならば、まるで子供の頃からの親友に手を差し伸べるかのような、そんな目だった。

「言葉、わからないのか」
意味が遠い、歌のような響きを持ったこの国の言葉ではなく、かろうじて耳慣れた言葉、少しクセのある英語が優しい声で響いた。思わず目を見開く。突然耳に飛び込んできた、意味のわかる言葉は、想像以上にわたしのパニックをおさめる力があった。
その一言でわたしの口はようやく動き方を思い出したかのように、ボロボロの英語でなんとか必死に困っていることを打ち明ける。買い物の仕方がわからない、何を聞かれているのかわからない。市場での買い物なんてきっとこの国で生まれれば小さな子供だってできることだろうけど、こんなこともわからないのか、彼ならきっとそんな風には思わないだろうと何故か確信出来たのだ。
英語にしたっておぼつかないわたしの言葉を、彼は遮らず、早合点もせず、あまりにも丁寧なやり方で聞いてくれた。それからやはり優しい口調で、でも表情はひどく真面目な様子で、「肉を買うときにはどの料理にするかをここで伝えなければならない」と教えてくれたのだ。
ああ、だから! お店の人も必死になにかを切るようなジェスチャーをして見せてくれたのだ。ようやくその意味がわかって、わたしはお店のおじさんに小さくぐらっつぇ、とつぶやく。問題ないよと言ってくれるみたいに、おじさんは少しほほえみながらひらひらとこちらに指を振ってくれた。
助けにきてくれた目の前の彼になんとか伝える。何を作りたいかなんてぼんやりとしか考えていなかったけれど、とっさに思い浮かんだシチューを作るためのお肉がほしいのだと。彼は変わらず真面目な顔でうなずいて見せてから、お店の人に何事かを伝えてくれた。その一部始終を見上げていると、次の瞬間にはみるみる鮮やかな手つきでお肉が切り分けられていく。思わずその光景をしげしげと見つめていてふと視線を感じて顔を上げると、彼と目が合った。
あの人はさっきよりもさらに優しい目をしていた。そんな目を向けてもらうような、労わられるようなことなにもしてないのに、そんなことは言えないまま、わたしはみるみる紙に包まれていくお肉に視線を戻した。

「あの、本当に……ありがとう! ……ぐらっつぇ!」
ずっしりと重いお肉の入った包みをつかみながらお礼を言う。「Prego,」彼はなんでもないみたいにそう言ってくれる。誰かと会話をする喜びを、言葉を持つものの幸福を、わたしはこの国に来てから初めて感じた気がした。
そのやりとりに嬉しくなってしまって、半分興奮したまま駆け出すようにその場を去ったわたしは、彼の名前を聞きはぐったことを、キッチンでお肉の包みをほどきながらようやく気づいたのだった。

青い目を持つ人を、わたしはあんなに近くで、そしてしっかりと見つめたのは初めてだった。同居人は茶色の目でわたしとそんな変わらない色だったけれど、あの人の目は本当に――青だった。ネアポリスの晴れ渡った空の青よりかは、きっとあの色は海に近い色だ。あの優しい目があったからこそ、すごく真面目に見つめてくれるが故に少しだけ怒ってるみたいに見える最初の表情も、あまり怖いと思わなかったのだ。
ああ、彼にまた会いたい。
気づけば自然とそう思うようになってしまって、わたしは市場や街中、とにかく以前彼を見かけたあたりをうろついて回るようになった。きちんともう一度お礼を言いたいから、それを自分自身も騙す言い訳にして。
なかなか彼には会えなかったけれど、かわりにあの市場でも声をかけてくれた世話焼きのおばあちゃんがふらふらしているわたしに更に目をかけてくれるようになった。
お互いにうまく言葉は伝わらないままだけど彼女はわたしの途切れ途切れの英語をゆっくり聞いてくれて、おやつを持たせてくれたり、お店の人に紹介してくれたりしたのだ。
少しずつ顔見知りが増えていくと、たとえ言葉もろくにわからないままでも、街はより優しく感じられる場所になる。

雨の日は図書館やバール、晴れの日は公園や海辺や市場。だいたいわたしがふらつくのはそんなところ。
昼間に出かけて、暗くなる前に帰る。それを繰り返している日々だったけれど、なかなか彼には再会できないままだった。あのひと自身が目立つだけでなく、きっとまた周りの人に囲まれているだろうからすぐに見つかると思っていたのだけれど、決して狭くはないネアポリスの街で、連絡手段もないまま人を見つけ出すのはなかなか難しいことだと思い知った。

それでも諦めきれずに街をうろついた何日目か。街灯がともりはじめる薄暮の中、今日もまた彼に出会えず、とぼとぼと帰宅しようとしたときだった。
石畳の上、民家の壁に身体を預けるようにしながら酒を飲んでいる男たちを目の端には捉えていた。
うっすらと恐怖が湧き上がる。目を合わせないように、ただし警戒しているとも悟られないよう自然を装ってその二人の男の横を通り過ぎようとした瞬間、ヒュッと音をたてて目の前に空の酒瓶が叩きつけられた。
大きな音を立てて飛び散るガラスに、思わず身体がびくんと跳ねた。その怯えた態度を見てげらげらと笑い声を上げた男たちは、わたしの行く手を阻むように目の前に立ちふさがると、よどんだ目でこちらを見下ろしてくる。にやにやしたその目には、侮蔑の色があった。
……今すぐ逃げなければだめだ。腹の底から恐怖が湧き上がり、指先がひどく冷たくなっていく。
男たちは笑いながら、わたしを小突きながらなにかを叫ぶ。言葉の意味はわからない、だけどその態度だけで何かひどいことを言われているのはわかった。……もうどんなに遠回りになったってかまわない、ここから急いで離れなければ――。
逃げ出すのを悟られないように、出来るだけ唐突に見えるよう急に身体を反転させて走り出したけど、結局数歩だけ大きい道に近づけただけですぐに腕を掴まれていた。
くん、と強くまた路地に戻されるように腕を引かれる。なんとか引き戻されないように抵抗しようとするも恐怖で声はうまく出せない、喉が壊れてしまったみたいに息を吐き出す音ばかりがうるさく響くばかりで――
「Fermati !」
泣きそうなわたしの前に、やめろ、そう叫びながらやってきたのは――いつもわたしを気にかけてくれるあのかわいいおばあさんだった。
わたしなんかうまくイタリア語も喋れないままだというのに、優しくかまってくれる彼女がいま、こちらを庇うように背中を寄せてくれている。そして激しく声を荒げて男たちに向かって杖でバシバシと石畳を殴り付ける。彼女はわたしのために、本気で怒ってくれているのだ。
それを見て、へらり、と男が笑う。彼女のこんなに激しい怒りも、わたしの吐きそうなくらいの怯えも、その笑いで丸め込めると思っているのだろうか。そう思うと限界に近かった心がみしみしと音を立てて潰れるようだった。
なおも、おばあちゃんは片手で虫でも追い払うみたいにシッシッと手を振りながら、早口で男たちを追い詰めるみたいにきつい言い方でまくしたてている。あまりの早口にわたしが言葉として聞き取れたのは最後の一語だけだった。
「〜〜ッ! ……! ……ブチャラティ!」
ブチャラティ、その一言を聞いて、へらへらしていた目の前の男たちもついに顔を険しくする。何かを喚いたあと、わたしの肩をドンと小突くとふたりは闇の方へと消えていった。
「……ぐ、グラッツェ……」
お礼を言いながらへにゃへにゃと身体から力が抜けていった。その場でしゃがみ込んでしまって震えるわたしの肩をおばあちゃんは何度も撫でてくれた。大丈夫よ、大丈夫。簡単な英語でわたしに何度も語りかけていたと思えば、彼女は何かに気づいて腕を振った。彼女が手を振って叫んだ先に見えたのは、――彼、だった。

女ふたりが路上で肩を寄せ合ってしゃがみ込んでいる光景に、あの人は大股で近づいてきた。表情はこれまで見た中で一番険しい。おばあちゃんがあのひとに何かを話している中、ずっとその顔を黙ってしゃがんだまま見上げていたら、突然見下ろしてきた彼と目が合って驚く。びくんと身体を跳ねさせたわたしの前に彼はそっとしゃがみこむ。それからわたしをまっすぐ見つめて、言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「……君を、家の近くまで送っていこう。立てるようになってからでいい」
待つから、そう言って彼はおばあちゃんに頷いてまた少し言葉を交わす。おばあちゃんはホッとした顔でわたしをハグしてくれてから、この人とわたしを残して明るい大通りの方に消えていった。

……ふたりきりで取り残されてからハッと気づく。ずっと探し回っていた、もう一度会ってお礼をしたかった人が今目の前にいる。その驚きで、恐怖が少しずつ麻痺していくのを感じる。嘘みたいだった。ねえお名前は? 何をしている人? 本当にギャング? どうしてわたしなんかの面倒を見てくれるの?
聞きたいことはいくらでもでてくるのに、言葉の方はうまく出てこない。それどころかなんとか立ち上がろうとしてから、足には力が入らず、自分の指先も震えていることに気づく始末だった。
「……ゆっくりでいい。焦るな」
静かにささやかれたその言葉に、頷いて見せる。彼の声には確かにわたしを落ち着かせる力があった。なおもわざわざ英語で優しく語りかけてくれるのが嬉しいけれど、それはわたしがこの国の言葉を覚えていないからだ。
……彼が自然に使う言葉で話してみたい。わたしはさらにその思いを強くする。
座り込んだまま何度か深呼吸をしてからよろよろと立ち上がってみせれば、彼はわたしの目を見てうなずいた。
「……家は? どこらへんだ?」
「えっと……市場を、北にいったあたり……昔の雑貨屋さんがあるあたり」
一瞬、夜道で見上げた彼の顔が険しくなったように見えた。でも、どうしたのと聞き返す前にその表情は消えてしまう。
彼はわたしにもう歩けるのかと確認してくれる。こちらが頷くのを待ってから、わたしの指差す方へとふたりで歩き出した。

イタリアの石畳は、ゴツゴツとした岩が並ぶ道と、つるつる滑る薄い板のような石が重なる道と、その二種類があるのだ。どちらが歩きやすいかというと、……日本の色気もなく舗装されたコンクリートの道に慣れた人間からすればどちらも等しく歩きづらい。
こちらのそんな都合を知ってか知らずか、わたしよりずっと背が高くて足も長いはずの彼は、わたしののろのろとした歩みに合わせてゆっくりと歩いてくれていた。
「なあ」
「あの」
隣を歩く彼に声をかけようとした瞬間、彼がこちらにかけてくれた声が重なる。少し驚きながら顔をあげたら、……彼はわたしの方を見て、淡く微笑んでいた。
その笑みは柔らかいだけじゃなくて、今の重なった声をどこか面白がっているみたいだった。すこし楽しげに細められた目が、きらりと街灯の光を跳ね返す。
そんな自然な、するりと心の距離を飛び越えてくるような笑みに自分でも驚くことに不意に泣きそうになってしまって慌てて前を向く。こんなことで泣きそうになっているのがばれないように目の当たりを押さえながら、彼の言葉をお先にとうながす。

(……あぁ、わたし)

「……大丈夫か?」
正直今もあの嫌な目つきや触られたところの不快な温度はべったりと心に染み付いたまま、全く大丈夫ではないがとっさに頷いていた。……それに大丈夫じゃない、なんてこと言われても彼だって困るだけだろう。
そう思ったのだけど、その答えが嘘であることを知っているかの様に、彼はじっとわたしの方を見つめる。――青の目は、夜になると深海の色になるのだと初めて知った。
「あなたの名前を聞きたかった、……あの日のお礼も、きちんと出来ていなかったから」
彼の視線をごまかすみたいに言葉を重ねる。本音、だけど取り繕った言葉をつらつらと並べたてながらようやく気づく。
(わたし、……ずっと、寂しかったんだ)
孤独で自由、誰も自分のことを知らない世界が楽だったのは確かだ。「世界で一番大切なものをなくした」ということをいちいち誰彼問わず説明させられて、何度も自分の心の同じところばかりを抉る必要がない世界。清々しい孤独は素晴らしいものだったけれど、あんな風に……まるで昔からの友人に向けるような柔らかな笑みを向けられてしまえば、その温かさに、ああこの笑顔はこの瞬間わたしのためだけに向けられたのだ、そんな当たり前のことがこんなにも嬉しいことなのだと彼に気付かされてしまう。

「オレの名はブローノ・ブチャラティ」
「ブチャラティ……」
思わず、ぽつりと続ける。その音はさっき聞いたばかりだったから。
「……あまり聞き慣れないか?」
「う、ううん、なんでもない」
ブチャラティ、その名はさっきおばあちゃんがあの男たちを追い払うために使った言葉と同じだった。つまりあの男たちは――彼の名前を聞いて、あんな青い顔をしたってこと?
(……そいつは……ギャングだ。悪いやつだから……気を付けろよ)
同居人が食卓で呟いた言葉が、実感を伴って脳裏をよぎる。
彼はもしかすると本当に、ギャング、なのかもしれない。
……でも、ギャングが石畳で痛くなってきた足の裏をかばうようにひょこひょこ歩く人間に歩調を合わせてくれるものだろうか? そもそも、知り合いに頼まれたからって、ほとんど何も知らない相手をわざわざ家まで送ってくれるものなのだろうか?

「……なんで、こんなに優しくしてくれるんですか」
思わず浮かんだ言葉をぽろりとこぼしてしまう。でもまるでそんな言葉は、「勘違い」してるみたいに聞こえただろうか、言ってしまってからはっと気づいてしまって内心慌て出す。どうにか取り繕おうとわたしが言葉を探して脳内を引っ掻き回すよりも、彼が言葉を返してくれる方が早かった。
「……普通さ、こんなの。第一に、今、君は困ってる。第二に、さっきのままじゃ危害を与えられるかもしれない可能性がある、……これだけでもう十分だろう、理由なんて」
こんな当然のことに特別な理由なんて必要ないのに、なんでそんな事を? 思わず見上げた先、彼の顔にはそう書いてあるみたいに不思議そうな顔をしていた。
この人の中ではそれが当たり前なのだとしても、決して誰もが出来ることではない。
それでも、ごく当然のこととしてそう言い切る彼はひどくまぶしい。体にぶつけられた悪意とそれによって引きずり出された恐怖はまだ残っているけれど、まぶしく光る善意のかたまりのような彼の隣にいると少しずつそれが癒えていくようだった。

「……ここで大丈夫。もうまっすぐ行くだけだから」
家の近くまで辿りついたのは事実でも、この一言を伝えるために開く口はひどく重かった。その一言で、彼――ブチャラティ、とはここで別れなければならないのだから。
「……わかった。最後まで気を抜くなよ」
軽く手を持ち上げて見せて見送ってくれる彼に、おとなしくうなずいて見せてわたしは家への道を歩き出し始めて――思い返して、くるりと振り返りながら叫ぶ。
「あの!」
きっともう何歩も遠くに行っているだろう彼を慌てて呼び止めようとして出てきたのは、自分の想像以上に大きな声だった。少し恥ずかしい。しかもわたしの想像とは違って彼はこちらに背を向けてはいなかったから、余計に。わたしが見えなくなるまでは見届けてくれるつもりだったのか、振り返った先、こちらを向いたまま案外近くにいた彼に驚いた顔をさせてしまった。
でもそれを気にかけていられる余裕はなかった。やけに緊張したまま、なんとか囁くように聞く。
「また……会える?」
「もちろん。そうだな、広場の近くでなら会えるだろう。……だが、あまり暗くならないうちにな」
慌てた様子で振り返ってわざわざそんなことを聞いたわたしを少しおかしそうに見つめながら、彼は明るい声で言った。
「おやすみ」
「……おやすみなさい!」
飛び込むように開けた下宿先の扉をなんとか後ろ手に閉めてから、ドアに寄りかかったまま静かな暗闇の中でばくばく言う心臓の音を聞いていた。……もう少し、早めに帰るようにして、帰宅ルートは大きな通りにしなければ。治安の悪さに対して薄くなった防犯意識に反省する。

そして、なにより、……彼だ。ついに名前が聞けた。ブローノ・ブチャラティ。
まだ話を少ししただけだから、友達、と言うのもおこがましいかもしれない。でも知り合いにはなれたのだ。それがすごく嬉しい。
今度はまたいつ話せるだろう? そんな想像をするだけで、これからが楽しみで仕方なかった。

(そして今思い返してみれば、彼の底抜けの優しさと不思議な魅力によって、わたしはもうその時から――彼に心惹かれていたのだ)

/

/


2021/11/23 第二稿