文章

“Paso doble” – Bucciarati

これは、腐臭だ。 潮の匂いに混じって鼻に届く生臭い死の匂い。港の端、淀むばかりで流れも波も発生しないコンクリートで固められたこの場所で、海は腐る。 接岸する巨大なタンカーの背から、吊り下げられたコンテナがゆらゆらと揺れながら地上に下ろされる…

“Valzer” – Fugo

ぼくは、この時間が好きだった。 ブチャラティとぼくだけが事務所に詰めていて、ふたりでそれぞれ書類と睨み合うこの時間。 紙をめくる音と、考え込んだ彼がたまにトントンと指で机を叩く音、それ以外はほとんどなんの音もしないこの時間。このシーンだけを…

“Foxtrot” – Narancia

ブチャラティが嬉しそうに、恋人ができたのだとみんなの前で言った日のことをよく覚えてる。 考えすぎーってくらいその人のことを思って考えて、オレたちの前でもたくさん悩んでて、でもブチャラティがかっこよくてめちゃくちゃいい人なのはオレたちは知って…

“Jive” – A girl

それは、この街では良くあることだった。ひょんなことから麻薬がらみの事件に巻き込まれる。それまで縁遠かったはずの暴力に晒された心は硬直し、その場所から逃げ出せなくなる。そしてどうにもならなくなった結果、自分の身を売って生きるようになる。そして…

Accordare

彼との待ち合わせは、わたしにとっていつでも心躍るものだった。そしてブチャラティさんよりも先に待ち合わせ場所に来れたときは、余計に嬉しい。遠くからでもすぐにわたしの姿を見つけて、少し歩調を早めて近づいてくる彼の姿。やわらかく微笑んで手をあげて…

泥の中

しでかした裏切りまがいの行為への懲罰として、私の兄が組織に命を奪われる代わりにブチャラティの手によってネアポリスから追い出されたあと、私は恋人だったブチャラティに別れを告げた。兄への仕打ちに怒ったからじゃない、あれはどう考えたって自業自得だ…

触れていいのに

「これ、良かったら受け取ってくれないか。気に入らなければ使わなくても構わない」そんな妙にひかえめな言葉と共に手渡された小さな箱を開けると、中に入っていたのは小さな香水のボトルだった。なんでもない日の贈り物、それが珍しいわけではないけれど、……

まばゆい

ある日、ブチャラティが任務で腕を折って戻ってきたことがあった。仕事を終えたブチャラティがアバッキオと一緒にアジトに戻ってきたと思ったら、平然とした顔のまま、片手を三角巾で吊った状態で現れたのだ。そんな姿にびっくりして騒いでたら、一緒になって…

Il mio cioccolato

バールのテラス席に腰を下ろして本を広げる。このページのどこまで読んだか、目で一行ずつをたどり始めたその瞬間、きっとこれから1時間は待つだろうと思っていた相手の声で名前を呼ばれたものだから思わず驚きで身体が跳ねて、声の方に勢いよく顔を向ける。…

「良き隣人たれ」

誰かに見られている。その感覚に鋭敏になるのは、ブローノ・ブチャラティにとっては当たり前のことだった。それが「当たり前」であることに対して何かを思ったことはなかった。せめて憩いの場であるバールでくらい、穏やかに過ごしたいなどと思うことも。気を…

Safety Tether

目が覚めたとき、部屋はまだ暗闇に満ちていた。朝が遠い、それだけでわずかに心がふさぐのは何故だ。子供の頃に真夜中に目覚めてしまって、どうにか一人で寝付くまでの間に何か恐ろしいものが暗闇から手を伸ばしてくるんじゃないかとおびえた、ああ無事に夜を…

同じ熱

「……昔ね、おばあちゃんの家に暖炉があったの。今はもう、その家は知らない人が住んでるはずなんだけど」突然口をついて出たのは、何故かもう10年も前に亡くなった祖母の家のことだった。「子供の頃、居心地が良い場所ってその暖炉の前だけだったんだよね…